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―― カシャン。
ガラスの割れる音が店内に響き、店内は水を打ったように静まり返った。
頬に痛みが走った。
驚いた。
大きな瞳には今にもあふれ出しそうなくらい涙が溜まっていた。 そしてその瞳は怒りに満ちていて、俺を真っ直ぐに見据える。
俺はその視線から逃れることが出来なかった。
「怪我、ないですか?」
永遠に続くのではないかと思われた沈黙を破ったのはマスターだった。
大股で彼女に歩み寄ったマスターは、迷いなく膝を折って床に散らばった湯呑みのかけらを集めつつ立ち尽くしていた女に声をかけた。
その声に、はっと我に返ったのか、女は俺からようやく視線を反らし、頬を紅潮させると慌ててしゃがみこんで破片を拾い集めた。
「いたっ」
「大丈夫ですか? 気にしないで良いですから、座っていてくださいね」
慌てていたせいか、案の定、指を切ったらしい、人差し指を唇に添えて勢いよく立ち上がると
「わっ私! 帰ります!!」
と、口にして俺を振り返ることなく、優に勘定を済ますと足早に出て行ってしまった。俺は動けなかった。
「克己」
マスターの呼ぶ声も俺には届いていなかったらしい。俺が気がついたときには、マスターは明らかに怒っていた。
「裏で顔を冷やしてきなさい。それと今日はもうフロアに出なくて良いです」
「―― ……」
「克己。聞いてるんですか? 早く行きなさい」
「あ? ああ。悪かった……」
呆けていた俺にマスターは念を押した。俺はこういうときどう対処して良いか、全く分からなかった。
僅かな謝罪の言葉だけ残して俺はマスターにいわれるままに裏へ引っ込んだ。
「優。他のお客様にワングラスサービスしてください」
「ああ。そうですね」
マスターと優とのやりとりがどこか遠くで行われている事のように現実味を失っていた。その時の俺の現実は、僅かに熱を持ってちりちりと痛む頬ぐらいだった。
「ええっ?! 帰った?!」
それから10分程経って、あやが店に入ってきた。カウンターから驚きを隠せない声が聞こえてくる。
―― ……説明しにいくしかないか。待ち合わせしてるといっていたしな。
俺は小さく溜息を吐いて、重い足取りでフロアに出た。あやは、カウンターの一番奥、あいつが座っていた席だ。
そこでマスターと話していた。
「あ、こら。裏にいなさいっていったでしょう」
歩み寄った俺に気が付いたマスターは、眉根を寄せてそういったが、俺を見つけたあやはにやにやとした笑いを浮かべて俺に手招きをした。
「ああ。克己、あなたでしょ。諸悪の根源は。マスター、私は克己から話が聞きたいわ。良いでしょ」
―― ……諸悪の根源ってひどいいわれようだ。
俺は思わず肩を落とした。
マスターはあやと俺を順番に見てから、やれやれ。と、いった表情で俺にその場を勧めた。
あやはその様子をさもおかしげに見ていたが、急に携帯の電子音が響いた。
「あっ、忘れてた」
その着信音にあやは焦った様子もなく、俺にそこにいろと命令し俺の身柄を確保してから電話に出た。
「ああ、ごめんね。今日どうしても人数がそろわなくて。ぎりぎりで悪いんだけど、また今度埋め合わせするから」
―― ……こいつは、絶対悪いなんて思ってない。
片手で半分ほどなくなったグラスの中の氷をぐるぐると回しながら、肩に携帯を挟んで空いた手でカウンターをこつこつと叩いていた。
余程、面倒臭いのだろう。
あやはそんな態度とは裏腹に昇り調子な声で何度か相槌を打つと電話をきった。
「良かったのか?」
「いいのよ。あの子が帰っちゃたんじゃ、話にならないもの」
きれいに整った顔を緩ませてあやは笑顔でそういった。まぁ、あやになんていわれても、あんまり嫌な気はしないだろうな。ふとそんなことを考えてた俺に
「ちょっと、克己。あんたその顔、ひっぱたかれたの?」
あっと、まだ赤かったか?
手を伸ばしてきたあやを避けて思わず頬に手を当ててしまった。
「へぇ。流石、克己ねぇ。あの子を怒らせただけじゃなく、手まであげさせるなんて」
「流石って」
つい避けてしまった事に気を悪くするでもなく、あやは心底感心したように、感嘆の声を上げた。
―― ……ほっといてくれ。