―18―
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音もなく後ろ手に扉を閉めた。
吸い込まれるように、ぴたりと外界と遮断されると、私はひざがかくんっと折れて立っていられなくなった。
―― ……分からない、分からない……分から、ない。
玄関にしゃがみこんだ私の身体中が心臓になったようにうるさく脈打つ。
そして、アルコールの回った身体はやけに熱くて苦しくて。悲しいのかどうかも分からない。現状把握も間々ならないのに、瞳から溢れてくる涙も止まらなくて、それが余計に息苦しくて、呼吸が止まってしまうのではないかと錯覚しそうになる。
私が目にした光景は本当に、本当なのだろうか白昼夢とかいう代物であって欲しかった。
でも、どんなに酔っていたとはいえ、意識ははっきりしていたし、身体の感覚もあった。夢が見られるような状況じゃなかった。
―― ……あれは、誰? 私は貴方のそんな愉快そうな顔を見たことない……本当に、貴方なの……。
両腕で抱え込んだ身体ががくがくと震えてどうしようもなかった。
一筋の明かりも差し込まない部屋の中が、妙に広く、冷たく、寂しく思えた。
今まで自分が信じてきたものがなんだったのか、分からない。
いいわけもきっと聞けない。
目にしてしまったものを 否定も出来ない。
そして、私は……それを受け入れられない……
「……っく……ぁ……あ、ぁ……」
声にならない声を上げ、私はただただ泣くしかなかった。
***
RRR……RRR……RR……
『はぁ~い……』
「何だ、寝てたのか?」
『その声は、克己~? どしたのぉ? ああ、分かった! 今日はごめんねぇ。お店で騒いじゃってさ』
「いや、別にそんなことはどうでも良いんだ」
『じゃぁ、何? 碧音にでも頼まれたの? ……て、そんな器用なこと出来ないわよね。あの子は』
―― ……さっきまで、寝ていたわりにはよく喋るな。
俺は部屋へ戻るなり、荷物を放り出し携帯だけを握り締めてソファに落ちると、あやに電話していた。
「あ~……いや。うん。俺が個人的に電話しただけだ」
『ふぅ~ん。珍しいこともあるものね。で、何が訊きたいの? あたし、疲れてるから、手短にしてよね』
俺にそんな口をきくのはこいつぐらいだ。いいたいこといいやがるなぁ……。
こちらに何があったかも察することなく、いつもと全く変わらない調子にどこか安心しつつも、どこか不満に感じる。
「ああ。じゃあ、遠慮なく単刀直入に聞くぞ」
『はいはい』
「小西。他に女がいるのか?」
その一言に電話の向こうのあやは固まっていた。
「俺、前にもちらっと見かけたんだけど。気のせいだと思ってたんだ。そんなふうな奴にも見えなかったし、もし当人でも別にどうでも良かったし」
『―― ……』
「なぁ、あや? 訊いてるのか?」
暫らくの沈黙を破ってあやは口を開いた。
『ええ。いるわ』
「―― ……知ってたのか?」
『知ってたわ。あの男、女癖だけは悪いのよ』
「知ってたのに、あいつにはいわなかったのか?」
『―― ……ええ。いわなかったわ』
あっさりそう認められ。碧音さんのことを溺愛しているように感じていたあやの言葉とは思えなかった。
「どうして。どうしてそんなこと」
うわ言のように問い掛けた俺への答えはあっさりしたものだった。
『だって、いったって碧音は信じないわ。あの子は静也のことを信じていたのよ。……ねぇ、それで今それを聞いてくるってことは、あの子も目にしたの?』
その言葉に俺はあの一瞬を思い出さずにはいられなくて、苦しかった。
碧音さんの視線の先にいたあいつの姿……。
ホテルから知らない女の肩に腕をまわし、その女は小西の腰を抱いていた。それは、逃れようの無い現場で、その雰囲気はそこで何が行われたのか隠しようの無い瞬間だった。
『見たのね。そう……良かったわ』
―― ……良かった? 何が良いんだ?!
何も答えられない俺の返答をそうだと受け取ったあやは、しみじみとした調子で「良かった」と重ねた。
碧音さんは確実に傷付いていた。声を殺して咽び泣いていた……それでも、あやは良かったというのだろうか。
―― ……何が、
どうして…… ――。
俺にはわからない。あやは他人の俺から見ても碧音さんを溺愛していたと思う。大切に、特別に思っているように見えた。それなのに……
『大丈夫? 克己まで、そんなにショック受けること無いでしょ? 全く、恋愛音痴はこれだから』
受話器の向こうで、あやのぶつぶつ呟く声が、なんていっているのか良く聞き取れなかった。
「何で、知ってたんだ?」
『何でって、最初の相手があたしだったからよ』
「え?」
あやの答えに驚いて自分の耳を疑った。
『ていうか、正確にいうとちょっと違うわ。逆ね。あたしが静也と付き合ってるときに、あの子も付き合い始めたのよ』
「え?」
『あの時のことは良く覚えてるわ。碧音が嬉しそうにあたしにいったのよ。「小西さんの彼女になったんだよ」ってね。本当に嬉しそうで、あたしは何もいえなかった。いわない代わりに、あたしはさっさと手を引いたけど。あいつの無類の女好きは変わらないのも事実知っていたわけだから、結婚だなんだと今日みたいな日が来るくらいだったら、あの時話しておくべきだったと後悔していたとこよ』
はぁ……と重い溜息が聞こえてきた。
『でも、あの子。事実を知ったのよね』
「ああ。苦しんでるはずだ」
『うん。きっと、そうね』
お互い、その後の言葉を必死に探していた。
「どうするかな。あいつ……」
『心配?』
「そりゃ、少しは……」
『うん。だよね。でも、きっと大丈夫。あの子は乗り切るわ。あの子は、強いもの。あたしや、あんたよりもね』
強い……か。
確かに、強いかもしれない。
ああ。
あの瞬間、あいつの強さを少し目の当たりにしたような気がした。
ちょっとひっかければ折れてしまいそうな二本の足で、しっかりと真っ直ぐ立って歩いていた後姿。
―― ……本当、逞しすぎる。
そして、その瞬間俺は少し、切なくなった。




