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「―― で、やっぱり時間、間違えてたって?」
「うん。そうみたい。コーヒーが冷める前には会えたよ」
「ふ……ん。なら良いけど」
克己くんに私の事情は関係ない。
彼が本当は来ていようがいまいが関係のない話だ。この場を丸く治める為に私は小さな嘘を付いた。
にこりと微笑んで口にしたはずなのに、克己くんはそんな私の顔を見て、何故かなんとも言いようのない顔をしていた。
どうかしたのかと聞き返そうかと思ったけど、そんな時間もなく、エレベータのドアは店のある階に到着し、ウィ……ンと、僅かな機械音を響かせてドアが開いた。
開いたエレベータのまん前に店の入り口がある。
―― カランカラン……。
先に行って。と、克己くんに後ろから囁かれて、私は克己くんに背中を押されるように硝子のドアをぐいっと押した。
小さなウェルカムベルが可愛らしい音をたてる。
「いらっしゃいませ」
マスターが入り口から見えるカウンターから私に一声かけたが、静かに裏へ行こうとした克己くんを「遅刻ですよ」と見逃さなかったので少し噴出してしまった。
「今日はお一人ですか? カウンターで?」
「ああ。どこでもいいですよ。優さん、髪型変えたんですね」
私を、席へと案内してくれたのは――確かあやの説明によると、あやと同い年ってことだったから27歳でマスターの片腕さんらしい――本名かどうかは知らないけど『優』さんだ。この間ここへ訪れたときにはサラサラのストレートヘアだったと思ったんだけど。
「そうなんですよ。初めて、パーマをかけてみたんです。どうぞ」
少し照れくさそうに毛先をくるりと指に巻きつけて笑いながら頷いた。
柔らかそうな金に近い茶色の髪もへーゼルのカラコンも少し小柄な彼にはとても良く似合っていた。
「ここなら夜景も見えるし、時間を潰すにはいいですよ? あやさんでしょ? 待ち合わせ」
「え? はい」
カウンターの一番端の席の椅子を私に引いてくれ、手に持っていたコートを隣の席にかけてくれた。
「待ち合わせは7時ってところですか?」
「えぇ」
「8時過ぎないと良いですね?」
訳知り顔でそういった優さんに私も思わず苦笑してしまった。一時間で来るならまだましだろう。
では、ごゆっくり。と笑顔を残して、優さんは他のお客さんのオーダーを取りに席を外した。
ちょっと、時間は早かったから開店早々だったと思うのに、もう何人かお客さんが入っていた。
そして、私がよいしょと椅子に座りなおして一息吐くより早く
「ほら」
とエプロン姿の克己くんがおしぼりを差し出してくれていた。それを受け取ると間髪居れずに注文を聞かれた。
―― 接客なってませんよ。克己くん。
私はそんな愛想のない克己くんの接客にもめげずに口を開いた。
「マスターに何かてきとーに振ってもらって」
「空っ腹に飲むと回るぞ」
その言葉をいい終わる前に
「克己。オーダー入ってますよ」
克己くんはマスターに呼ばれて「じゃあ、適当に持ってくる」といい残してその場を離れていった。
私はその後姿を見送ってから、ほう、と眼下に広がる夜景を眺めた。
それにしても最近小西さんとまともに話してないなぁ。私は、バッグから何の着信も伝えていない携帯に目を落としていた。
私は、小西さんにとって。
いや、そんなこと考えるのはよそう。
彼を疑うことになってしまう。
それだけはしたくない。
誰かを、疑うなんて
―― ……はぁ。
駄目だと分かっていても口から出てくる溜息を吸い込むことは出来なかった。
「―― マスター。ちょっと聞いてもいいですか?」
ややして運ばれてきた柔らかくて甘い香りを漂わせる、乳白色のそれを眺めながらの私の問いに、マスターは不思議そうな顔を見せつつ次の言葉を待ってくれていた。
「あの、何で、卵酒なんですか?」
お店の雰囲気にまったくそぐわない湯呑みを片手に、そう尋ねた私にマスターは明らかに焦っていた。
いつもは心情の伺えないポーカーフェイスを地で行くような人なのに、緩やかに弧を描いていた瞳は驚いて開かれていた。
「ご注文ではありませんでしたか?」
「ううん。何でもかまわないって言ったから、間違いって訳じゃないんだけど」
「あんた、風邪気味なんだろ」
動揺しているマスターの横から克己くんが口を挟んだ。
そして「お客さんですよ」という優さんの言葉にマスターは小さく頭を下げるとその場を離れた。
「でも、どうしてわかったの?」
「昨日は、寒かったんだ。あんなところで何時間も待ってたらどんな馬鹿でも風邪くらいひく」
リゾットを差し出しつつ、私の疑問に何の遠慮もなくすっぱりと答える。
「顔も赤いみたいだし、熱でもあるんじゃないか?」
続けてそういったあと僅かに視線を逡巡させて一呼吸おくと、少し躊躇ったような口調で克己くんは続けた。
「―― だから……」
「―― ……?」
「来なかったんだろ?」
―― ……ズキン……っ
心のどこかが痛んだ。
「来なかった」その一言が私の心に、重たく圧し掛かった。
***
「ええっと、見られてた?」
―― 驚いた。
俺の問いかけに、もっと深刻な顔をすると思っていたのに、
「どうしても、仕事が抜けられなかったんだって。仕方ないよね」
「仕方ない」そういったこいつは、困ったように眉根を寄せてそれでも、へらへらと笑っていた。
俺が関係のない部外者だから、平静を装って他人には怒りを見せたくないのか?
それともそんな目にあっても、何とも思わないのか? どっちかは、俺には判断することは出来ないが、少なくとも男にすっぽかされるなんて喜ばしくない事件であることは確かじゃないんだろうか。
それなのに、まるで昨日の天気の話しでもするように口にした目の前の女が気に入らなかった。
***
「静也。ちょっと、待ちなさいよ」
「どうしたの? 泉」
帰宅する社員の姿もなくなったオフィスビルの一階で呼び止められたのは小西静也。
泉と呼ばれたのは、あやのことだ。
静也はあやの姿を確認すると細身の黒ぶちのメガネの奥からやさしそうな瞳が微笑む。
「あんた、いい加減あの子から手を引きなさいよ。あの子はあんたが遊ぶような子じゃないわ」
何の挨拶もなしにいきなり用件から、いきり立つあやに静也はますます笑いがこみ上げた。
「ひどいな。別に僕は碧音ちゃんのことは遊びだなんて思ってないよ」
「やめてくれる」
重ねたあやの様子を見てさもおかしげに笑い肩を竦めると静也は聞く耳持たないとばかりに話題を変えた。
「これから、夕食なんだけど。泉も一緒する?」
「遠慮するわ。今日は碧音とデートなのよ」
「そう。ご苦労様」
素っ気無くそう答えたあやの肩を静也は終始笑顔を絶やすことなく軽く叩くとその場を離れた。
あやは片手を軽く挙げて去っていく静也の後姿を睨めつけると下唇をかみ、言葉を殺した。




