―17―
「ありがとう。何か、またお世話になっちゃってるねぇ……」
熟睡しているのかと思ったら目は覚めていたようだ。人通りの少ない道に出て歩き始めると、寝言のような小声で呟いていた。
本当になんで俺はこんなところにばっかり居合わせるんだろうな。溜息吐いたって仕方ないだろ。
「だから、あんまし飲むなっていっただろう。全く馬鹿だな」
「―― ……どうせ、馬鹿だよ。みんな人のこと馬鹿馬鹿いってさ」
「はいはい。人の背中で愚痴るな。大人しく寝てろ」
酔っ払いの愚痴なんて聞くに堪えない。大体ループで同じことをいい始めるのが定石だ。そして、翌朝覚えてない。
「う……ん……。ありがとう」
“ありがとう”ね。本当に、精々感謝してくれ。一体いつから俺は巻き込まれ体質になったんだ。ほぼ、確実にこの人に出会ってからだ。
苦々しく肩に乗っかる顔を見たが、髪の間から覗く赤くなった肌しか見えない。
碧音さんは今、小西との結婚とか悩んでいるらしい。
その原因は、小西本人ではなく、あやとは決別したくはないという気持ちからだろうけど……別に悩むほどのことはない。どうせ婚姻関係なんて紙切れ一枚の問題だろう? 少なくとも俺の周りはその程度だ。そんなものだけで繋がっているものに大した価値はない。したいならしてみて、駄目ならまた書類を提出すれば良いだけの話だ。
それでも、こいつは、そういうわけにはいかないんだろうな。そんな形だけのものだと理解出来ない。馬鹿だからな。
それに、小西のことを信じている。
きっと、誰がなんといおうと、その気持ちは変わらないだろう。それがこいつのきっと良いところで、あやが好きなところで、俺に疑問を投げかけるところなんだ。
裏切りまでを優しい嘘だといってのけるこいつは……そんなに強い女なのか? もし、人づてではなくて裏切りを目にしてしまったら、こいつはどうなってしまうんだろう。
いつもなら俺にとってそれほど重要視しないことが、脳裏に蘇り苦い気持ちにさせる。良くあること。そのくらい普通で、大した事ではないはずだ。それなのに、俺までどこか罪深い気にさせられる。
本当に、調子は狂いっぱなしだ。
俺は間近に聞こえる静かな寝息を聞きながら、いろいろなことが、頭の中をぐるぐると回っていて、うるさかった。
―― …… ――
思ったとおり暫らく歩いても、通りの人気は少なかった。
ちらりほらり、歩いてる輩は酔っ払いかカップルくらいのものだ。そういえば、この先の通りを抜けたほうがこいつんちには近いよな。
でも、ちょっと、抵抗があるか。
そう、その通りは夜になると煌々と生きてくる、ホテル街だった。
ちょうどその通りに差し掛かった俺は、何となくそちらへ目をやった。ここばっかりは、人気がないとはいいがたいな。一瞬だけ、通り抜けるかどうか迷って足を止めたが、やはりいつもの道を通ることにした。
「ふぅ、よっこいせ」
やっぱ、寝てるやつをずっとおぶってるのはきついな。
そして、再び歩き始める前に、下に下がってきた碧音さんの身体を持ち直した。
「……ん……?」
その振動でうっすら意識が戻ったようだ。
「あ、悪い。起こしたか?」
いや、別に悪くない。悪くはないが、反射的に謝っていた。俺は苦笑したが、碧音さんからは返答がない。それどころか、その碧音さんの身体が一瞬にして、ぎくりっと凍りつくようにこわばった。
―― ……俺は気がつくのが遅かった。
「克己くん。降ろして」
いつもからは想像もつかないような低い、静かな声だった。
俺はそれに従わないわけにいかなくて、腰をかがめそっと碧音さんの足を地面に降ろした。
重いだけだった身体は、同時に暖を与えてくれていたらしい。急に背中がひんやりとして、物悲しくなった。そして、俺の背中から離れた碧音さんは2.3歩前に出て、振り返らないまま……
「ありがとう。ここからは、一人で帰るから」
と、告げる。
「いや、でも……。足元平気か?」
「うん。もう、酔いは覚めたから……。気にしないで。今日はありがとう。じゃあ……」
いい終わるかどうかぐらいで、碧音さんは足早に足を進めた。
その足取りはさっきまで立てないほど酔いが回っていた奴とは思えないほど、しっかりしたものではあったが、逆にそれが俺を不安にさせ、そのまま一人で帰らせるわけには行かなかった。
今しがた目にした光景は、きっと俺が想像する以上に、碧音さんの心には重たかったはずだ。もしも、家に帰らないでおかしな行動に出てはいけないという、不安もあったが、正直、気の利いた台詞の一つも出てこなくて、どうして良いのかわからなかった。
碧音さんは、時折足を止めては深く溜息を吐き、少し考え事をするように俯いて、暫らくするとまた足を進める。そんなことを繰り返しながら何とか、家までたどり着いた。
部屋に入るまでは安心出来ないと、俺はドアをくぐるまで見送った。
―― ……俺ってば、ストーカーみたいだな。
ふと、そんな考えが頭をよぎったが、閉められたドアの向こうから聞こえてくる嗚咽を感じ取ると、そんなことは、もうどうでも良くて、俺の心はかき乱された。
部屋に戻ってまで、声を殺して泣かなくてはいけない碧音さんの優しさを思うと、いかに小西を信頼していたかということを痛切に思い知らされて胸が苦しくなった。
「―― ……っ」
呼び鈴に手を伸ばしかけた。
これを押して、まだ鍵の掛かっていない扉を開いて、どうする?
その自問の答えを導き出すことが出来なくて、俺は押すのを思い留まった。まともな恋愛すらしたことのない俺が、今のあいつにかけてやれる言葉なんて、安っぽいものしか思いつかなかったから。
そんな自分の不甲斐なさを責めながら、俺も帰路に着くことにした。