―16―
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二本目のワインを開けたとき、私は口を開いた。
「あや……泣いてた」
「え?」
「私、あやは喜んでくれると思ってた。でも、泣かせてしまった。私、あやのあんな顔初めて見た。あんなに取り乱したあや……初めて見たよ」
しかし、そういった私の声は震えていた。涙すら零れはしなかったけれど、それを堪えるのは胸をえぐられるように苦しかった。
どうしても私には分からない。
あやがどうしてあんなに頑なに、小西さんを否定するのか。
あんなふうに否定されてしまっては、私の心に迷いが出る。
「克己くんも……前にどうして小西さんと付き合っているのかって訊いたことあるよね? あれ、どうして? どうしてそんなこと訊いたの?」
「―― ……別に、俺は理由なんてないけど」
「けど、何?」
「さぁ、何だろう。もう忘れたよ」
克己くんは明らかに返答に困っていた。克己くんもあやと同じ様に何かを知っているんだろうか?
何かを知らないのは私だけで、私はそれを知らなければいけないのだろうか?
そんなことを考えると、私は大人気ない自分に気がついて、言葉無くグラスの中のワインを飲み干した。
「私は、大丈夫だから、そんな心配そうな顔しなくて良いよ」
「そんなつもりは……」
いって克己くんは言葉を濁すけれど、明らかに心配してくれているのは分かる。私が黙って飲んでいる間も、そして今もカウンター越しにいてくれる。別に一人になってもなんてことないんだけど、それでもそこに居てくれたことは嬉しかった。
でもやっぱり甘えるべきでもないと思う。思っているからこそ
「仕事に戻ってあげて。二人とも急がしそうだから」
そう促した。私の台詞に克己くんは賑わっている店内へと視線を泳がせたあと
「―― ……あんまし、飲むなよ。これで最後だぞ」
といって、空になったグラスにそっとワインを注いで克己くんは傍を離れた。
私は、大きくグラスの中身を揺らす。ゆらり、ゆらりと揺れる湖面は濃密な香りをふわりと立ち昇らせる。その香りに、双眸を閉じ大きく深呼吸。お腹の底からじわりと熱くなる酔いを覚まし、少しだけ新たに口付けた。
そして、バッグの中から箱を取り出し、中身を確認すると重たい溜息が漏れた。
理由は分からない。でも、あやの説得にはもう暫らくかかりそうだ。
小西さんには悪いけれど、私はそれを避けては通れないと思う。うん。と決意新たに、私は、また、ぐいっとグラスを呷った。
***
「おや……。もうこんな時間ですね」
人気が引いてきた店内を見渡したあと、マスターは時計に目をやりそう呟いた。
「優。あいつに何本出した?」
碧音さんの座っていた席から空になった瓶を回収してきた優を捕まえた。優はひらひらと瓶を振りながら
「僕が出したのは、二本だけだよ?」
「二本?!」
って、あいつ……大丈夫なのか?
慌てて碧音さんの方を確認した。
―― ……駄目だ。完全に目が据わってる。
「あれは、一人で帰るのは無理ですね。きっと、立てないんじゃないですか? 克己が送ってあげてくださいね。片付けは私と優でやっておきますから」
「はぁ? 何で、俺が送らないといけないんだよ」
「何でって、貴方しか彼女の家を知らないでしょ? ということは、必然的にそういうことになるじゃないですか?」
マスターは、どうしてそんなことを聞くのかというように、平然とそういってのけた。
そういわれたら、その通りだと思うから二の句は告げない。
いや、でも普段ならタクシーとか呼んで乗っけて終わりだろ? 店員がわざわざ送り届ける必要はないし……やらないだろ、そんなリスクの高いこと。
思いつつ何やら訳知りが顔のマスターを苦々しい気持ちで睨み付けたものの、マスターの態度は変わらない。それに……確かに、あれをそのまま。というわけにもいかない。俺にだって、わずかばかりでも存在している、罪悪感が沸く。
―― ……仕方ないな。
はぁぁぁっとふっかい溜息をついてから、するするとカフェエプロンを外して帰り支度を始めた。
「おい。碧音さん。聞こえてるかー? 目ぇ開いてるか? 帰るぞ」
フロアに戻ったその時は、すでにカウンターに突っ伏していた碧音さんの肩を数回叩いた。「……ん」と、小さく反応はあったが、それ以上は動くこともままならないようだった。元来酒に強い奴は自分の限度を良く知らない。良く知らないから際限なく飲む。それで、こうなるわけだ。
「立てるか?」
―― ……まぁ、こんな時間だ。
外を行く人も少ないだろう。
着てきていたコートを羽織らせて、動けそうに無い碧音さんの片腕を首に掛けて反動をつけるとおぶった。
思ったよりは重くない。これなら、何とか家まではもつか。
「じゃあ、あとお願いしますー」
「はいはーい」
一応声を掛ければ、フロアを片付けていた優がにこやかに手を振ってくれた。
そんなことを、考えながらとりあえず店を出た。