―13―
「碧音ちゃんの涙は始めてみたな」
そう声を掛けられて初めて気がついた。私の視界は揺らいで涙が溜まり、留まりきらなかった分が、はらりと頬を伝っていた。
泣くつもりなんてなかった。
しかも小西さんの前で……。
でも、そんな気持ちとは裏腹に目から零れ落ちる涙は止まらなかった。
小西さんはそんな私を見てどう思ったのかは分からない。優しい微笑をたたえたまま、ハンカチを取り出すと涙を拭ってくれた。
「僕はまだ、碧音ちゃんの怒ったとこも、悲しんでるところも見たことないけど。……て、今は、悲しいわけじゃないよね?」
私は言葉無くしきりに首を縦に振った。
「なら、良かった。だから、その、一緒にいたいんだ。碧音ちゃんといると何だか、落ち着くんだ。ちゃんと、信用されてるって実感できるし。ええっと」
ただただ、泣くことしか出来ない私に、小西さんの言葉は詰まっていた。
―― ……堪えなきゃ。
そう思うと余計に止まらなくなる。
店内は薄暗くて、声を荒げて喧嘩をしたりしているわけではないから、私が泣いているのに気がつく人は少ないと思う。それでも、ゼロではなくて……ちらほらと向けられる視線に、なんとか唇を噛むけれど、どうしようもない……。
「何か、驚かせちゃってごめんね。大丈夫?」
優しい言葉
気遣わしげに頬に触れる指先
「返事は今すぐじゃなくて良いから。えっと、そうだな。X’masイヴなんて良いんじゃないかな?」
声をなくしている私を攻めることも詰め寄ることもなく、優しく言葉を重ねながら、ゆっくりと答えを待ってくれる。
「ああ、でも、後一週間しかないか」
私は小西さんの一言一言に首を縦に振ったり横に振ったり忙しかった。
結局私は、小西さんの言葉に甘えて、その日に答えを出すことはせず、答えはイヴまで持ち越すことにした。もちろん、私は「Yes」と答えたかった。でも、大切な決断をする際は、時間を置く。というのが家訓のようなものだ。小さい頃からどこか抜けている私に慎重になれというものであったのだろうと思うけど、今も可能な限りは守っている。
「えっと、お茶でも」
「ううん。ありがとう。でも、今日は帰るよ」
家まで送ってくれる間も、小西さんは一人で話をしてくれていた。
私が部屋の鍵を開けるのも忘れていると、ちょんちょんと私を突いてくすくす笑う。わたわたと鍵を開けて、もう一度寄っていかないかと聞いたけれど小西さんは、にこにことして首を振った。
「今日もとても楽しかったし、僕もまだ緊張しているから……」
家に帰って飲みなおすよ。と締め括って私の肩を抱き寄せると、ちゅっと可愛らしいキスが降ってきた。ほわんっと私が頬を染めるとの同じように、珍しく小西さんの頬にも朱が差す。
じゃあね。と手を振って階段を降りていく小西さんが見えなくなるまで見送ると、私は部屋の中へと入った。とりあえず、玄関で躓いて膝を打ったことは、この際仕方ないと思う。
私は崩れるようにソファに身体を沈めて打った膝を擦りつつ膝を抱える。
「結婚。結婚だって……」
ぽつ、ぽつっと独り言を溢すと、じわじわと何か熱いものが込み上げてくる。てっきり別れ話だと思っていた。私と別れたいと思う人が居ても、結婚したいと思ってくれる人が居るとは思わなかった。
そんな風に思ってくれる人がいるんだと、そう思うだけで、舞い上がってしまう。
私は片方の腕で膝を抱えたまま、バッグに腕を伸ばし、一時預かりとなったアクセサリーケースを引っ張り出し、膝の上でぱかっと開く。
きらきらと幾重にも光を放つそれは、私には物凄い宝物のように思えた。試しにはめてみようかとも思ったが、そんなこともなんだか勿体無くて出来なくて。
やっぱり眺めているだけだった。
これまで考えたこともないけれど、誰かと寄り添って生きるってどんな感じだろう。
朝起きたときも、眠りにつくときも、大好きな人の傍らで……私にとってそれはとても満たされた時を刻んでいくものに思えた。
永遠に変わらないもの、そんなものを夢に見るのは私くらいだと昔あやにいわれたことがある。でも、そんなあやでも、そういった私を哂ったりはしなくて「あると良いね」と顔をほころばせてくれた。
だからきっと、きっと、あやは私の次に喜んでくれると思う。
あやは少し小西さんを警戒していたようだけど……あの小西さんの穏やかな表情を思い出すと、ただの杞憂にしか思えなかった。