―10―
***
じわりと袖口に血が滲む。それほど強い力ではなかったと思う。思うけれど、真新しい傷口に受けた衝撃はかなり大きかった。
「いってぇ……」
ぎゅうっと、腕を押さえて身体を小さくする。
俺は、何てことを……。
慌ててバッグとコートを手に取り逃げ出した碧音さんの気配が完全に消えてしまっても俺は顔を上げることが出来なかった。
何をやっている。
俺は何をやっているんだ。
どのくらいの間、俺は放心状態にあったんだろう。
「ひどいよ……」
部屋を出る間際、そういった碧音さんの言葉が頭の中を木霊して俺の中の罪悪感を掻きたてた。
確かに酷いことをした。
そこらの女ならあのくらい何とも思わないかもしれない。
あわよくば最後までいっていたかもしれない。しかし、相手はあの碧音さんだったんだ。
確実にあいつを傷つけた。
……俺はあいつの信頼を裏切った。
これは、優しい『嘘』とはわけが違う
―― ……俺は、酷いことをした……。
微かに残る唇の感触に俺は涙が出そうだった。こんなに、心が苦しいと思ったのは一体いつ以来だろう。
人を傷つけるくらいなんともないと、考えていたのに、明らかに俺はあいつを傷つけたことにショックを受けていた。
我ながら、参った。
いつもと変わらないはずの一人きりの部屋の中がやけに広く感じた。
―― …… ――
あんなことをしてしまうなんて。
やっぱり、こういう場合は謝らなければいけないのか?
このところ、俺はそのことばかり考えていた。講義もバイトも心ここにあらず。謝るか謝らないか頭の中でぐるぐると迷走していた。そして、こんなことでも相談する相手が
「なぁなぁ。最近口もきいてくれないのか?」
こいつしかいないあたり、俺の人生も寂しい限りだ。
いつものように俺に纏わりついてくる透に俺は何となく話す気になっていた。
今日は良い具合に麗華の姿が見えない。
あいつがいると簡単な話まで、もつれてしまうから、出来るならば同席は避けたいものだ。
「世間ではクリスマスが近いっていうのにお前は」
「クリスマス……か……。もう、そんな時期だな。と、最初にいっとくがそのあたりはバイトに行ってるからな。誘うなよ」
「え~~~……」
明らかに何か、たくらんでいたようだ。
身体全体で脱力していた。
「で、何か話したいことあったんじゃないのか?」
透はちゃらちゃらして軽そうに見えるものの実は割りと人を見ている。そして、他人の機微にも敏感で俺としてもそのあたりだけは評価に値すると思っている。
ちらりと、透の顔を見ると、にこりと笑われた。なんでもいえといわんばかりのその表情に、張り詰めていたものがなんとなく和らぐ。
分からないことは聞く。とても初歩的なことだと思う。
それまでそんなことを必要としなかった自分はとてもちっぽけだ。
俺は、一つ大きな深呼吸をしてから「あのな……」と口を開いた。
***
「白羽さん。大丈夫? このところミスばっかりよ。ほら、一部で良いっていったのに」
「―― ……え?」
気がつくと、葉月チーフが隣に立っていて、さっきコピーした書類がとんっと置かれていた。
「えっと、どうかしましたか?」
きっと、何か話しかけていたんだろうけど……ちっとも耳に届いていなくて聞き返した私に、チーフは呆れた顔を見せたが「ま。良いわ」そういって自分の席に戻ってしまった。
「何かあったんですか? 白羽さん」
「ああ、弥生ちゃん」
その後に続いて、弥生ちゃんが私の隣席の椅子を持ち出して座り話しかけてきた。なんでもないよと微笑めば、それ以上は深く突っ込んでこない。今の私からすればとてもありがたかった。そして、それは実はメインの話ではなく私と話をするきっかけに過ぎなかったようで、直ぐに話題は変わってしまう。
「そうそう。あの、ショットバーの子。何ていったかな?」
「克己くんのこと?」
「そう、その克己くん。結構イイ線いってましたよね」
「―― ……」
「今度、お店のほうに会いに行きましょうよ」
そういった弥生ちゃんは屈託のない笑顔をしていた。私は、是も非も答えることは出来ずに口篭る。弥生ちゃんはそのことも気に止めることなく話題はどんどん変わっていく。昨夜のテレビ番組とか、昨日買った雑誌の話とか……。
私はそれに相槌を打ちながら、頭ではあの日のことでいっぱいだった。
傷、治ったかな。
必死になってしまっていたとはいえ、傷口をあんなに強くひっぱたくことはなかった。相当痛かったと思う。
刃物傷は見た目よりずっと痛みが強い……。
気にはなる気にはなるけれど、だからといって、もう一度会うのも少し怖かったし。
それにどんな顔して会えば良いのか分からなくて、私が悪かったのかもしれないし、私が謝ることなのかも知れないし。
だとしたら、なんていって謝ったら良いのか、ちっともわからなかった。
弥生ちゃんのマシンガントークを聞きながら小さく溜息。ちらと扉へと目を向けると助け舟が来ていることに気がついた。
「ちょっと、ごめんね。その話は、また今度」
そういって私は席を立ち、手招きを部屋の前でしていたあやの元へ駆け寄った。
きっとランチのお誘いだろう。
私の腹時計がそういっていた。