―9―
「ここにあんたを連れてはいるのは嫌じゃない。他のやつならパスだ」
でもこれは本当。
偶然が重なって仕方なかったとはいえ、今日は嫌なら断れなかったわけじゃない。それなのに俺は断らなかった。
「それって、俺が碧音さんのこと“好き”だからだろう?」
誰かに好きなんて冗談でも口にしたことはない。今、演技としてもそんなことを口にする自分に寒気がする。それでも俺は碧音さんの反応が気になる。どう、交わすのか興味がある。俺は本気じゃない。でも、疑わない碧音さんはきっと俺の言葉を信じてくれる……信じて、くれる? それは何かを期待しているようで、不思議な響きを持っていた。
困惑する。自分で思ったことが奇妙すぎる。
それじゃあ、まるで俺が誰かに信じて欲しがっているみたいだ。嘘も、本当も……。
動揺した俺は碧音さんの視線から先に逃げてしまった。
そんな俺にようやく碧音さんは現実に戻ってきたのか、ふふっと笑いを溢した。そして、ゆっくりと子どもを諭すように口にする。
「それは、違うよ」
違うと重ねられ、俺はもう一度碧音さんの顔を見た。碧音さんは真っ直ぐ俺から顔を逸らすことなくずっと見ている。黒目の大きな瞳に困惑気味な俺の顔が移っている。
「克己くんって、一人っ子でしょ」
「―― ……そうだけど?」
俺の心中を見事に察することなく、脈絡のない台詞を吐いた碧音さんに曖昧に頷く。実子は確かに俺だけだ。俺は一人で育った。
「だと思った。私ね、克己くんより一個下くらいの弟がいるの、だからかなちょっと親近感もちゃって。ちょっといろいろとずうずうしかったね。もしも克己くんが、私を大切に思ってくれるならそれはきっと姉弟が欲しかったんじゃない?」
―― ……姉って感じかよ。全く。
当たり前のように紡がれたその台詞に酷い違和感を覚える。
「ふーん……じゃあ、俺の気持ちは姉を慕う情だというわけだ」
あんたにとって俺は弟だと? と重ねれば、間もおかずに
「うん」
屈託のない笑顔で答えられてしまった。全く持って情けない。俺は静かに手にしていた本を閉じた。もうさめてしまった珈琲が入ったカップの隣に本を置く。
弟?
弟ってなんだよ……。
胸の奥がざわざわとざわついて、熱くなる。
にこにことなんの気負いもなく俺の次の言葉を待っている碧音さんに、正直ムカついた。
「でも、実際はそうじゃないわけだ」
「―― ……え?」
俺の中で何かがはじけた。
華奢な肩を掴み、ぐっと押せば簡単にぐらりと傾く。
「ちょっと、克己、くん?」
「俺は碧音さんの弟じゃない。そう、思うのはあんたの勝手だけど、今自分がどういう状況なのか、良く考えたらどうだ」
碧音さんの視線は泳いでいた。
どうして、俺がそんなことをいうのか全く分からないという顔で見つめていた。俺に組み敷かれた碧音さんは両腕の自由も奪われているというのに、驚きすぎて身動ぎすることすら忘れてしまっている。
「冗談やめてよ」
ようやっと口にした声が震えている。マジだけど? と好戦的に口角を引き上げれば碧音さんはようやく暴れたけど……そんなものに大した抵抗力はない。
「克己くんってば! 離してよ!」
「嫌だっていったら? 一人暮らしの男の部屋へ一人で入り込んだのは、碧音さんのミスだろ?」
それでも尚、俺の手を振り解こうと腕に力は入っていたが、到底、俺の力にはかなわない。
「それは、克己くんを信用してたから!」
「簡単に男を信用するもんじゃない」
「―― ……っ!!」
俺は正論をいっている。間違ってない。間違っているのは目の前の馬鹿な女だ。間違えている。間違っている。
間違いすぎて何も見えなくなっているのは、俺じゃなくて、あんただ。あんたを見ていると苛々する。苛々しすぎて、壊れてしまえば良いと思ってしまうくらい……。
「やめてよ……」
掠れる声でそう告げる碧音さんを無視して、無理矢理、碧音さんに唇を重ねた。ぎゅっと固く閉じられていた唇をこじ開けて強引に割ってはいる。
もちろん、噛み付かれたらこっちの方がダメージはデカイと思う。でもそうされない自信もあった。碧音さんは人を傷つける術を知らなさ過ぎる。自衛の本能すらあまり働かないだろう。
俺の予想通り、大した抵抗も出来ない碧音さんの手首を片手で捕まえて空いた手で顎を固定する。重ねた唇を軽くずらして、口内を深く貪る。
それから強い抵抗もなく、碧音さんの両手に入っていた力は抜け、かわりに大きな瞳から大粒の涙が、はらりと頬を伝いソファをぬらした。
―― ……ずきっ
痛い。
きりきりと痛む。胸が……。
「克己、く、ん。ごめん」
当然のはずの涙に動揺した俺は、いつの間にか碧音さんの手を解放していた。なぜ碧音さんが謝ったのか分からない。分からなかったのに……それはすぐに理解出来た。
―― ……ごつっ!
「っ!!」
***
―― ……ひどい……ひどい、よ……。
私は家路を急ぎながらも涙が止まらなかった。
すれ違う人たちが私を振り返っていることに気がついても、この涙は止めることが出来なかった。
心の中に「ひどい!」と克己くんを攻める気持ちと、確かに男の子の部屋へ一人で入った自分の浅はかさを後悔する気持ちが入り混じって、自分自身考えが全く纏まらなかった。
ただ、心臓は口から出そうなくらいバクバクいっていた。
『簡単に信用するものじゃない』
そういった克己くんのことを考える頭の中もドクドクと強く脈打って、ひどい頭痛がした。
唇に残る感触と唇越しに味わった珈琲の苦味が、私の心を揺るがして止まなかった。