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―― サアァァァァァ……
暖かいシャワーで冷え切った身体が徐々に温かくなってくる。
手足は氷のように冷たくなってしまっていた為、お湯が痛いような感覚にさえなってしまう。
肌を包む暖かな湯気のぬくもりにほっと息をつき、ふぅ……と、小さく、そして重たいため息を吐いた。
―― きゅっ
止まったシャワーの先端からぽたぽたと雫が落ちる音までもがにぎやかに聞こえる。
腰のあたりまで伸びた栗色の髪から落ちる水滴も気にすることなく、バスローブを羽織ってバスルームをあとにする。
別に、お酒に逃げてるわけじゃないんだけど。
私は、自分にそういい聞かせながら、途中で購入したワインのコルクを抜いた。
グラスになみなみと注いで、リビングの椅子に腰掛けて、ぐいっと飲み干す。
体が一瞬熱くなるのを感じたけど、このくらいで酔いが回って眠ってしまえるわけもなく、私は2杯目を注いだ。
テーブルの上に結局口にすることの出来なかった缶コーヒーが行き場をなくしてぽつんと、鎮座している姿が何だか自分のようで見ていられなくて、私はそれを冷蔵庫へ突っ込んだ。
「おはよう」
がっくりと落ち込んで自棄酒を呷ってベッドに横になると朝だった。
容赦ない朝日はカーテンを閉め忘れた私に、無遠慮に陽光をあててきて二日酔い気味の頭を刺激する。
―― ……でも、仕事にはいかないと
這うようにベッドから抜け出して、ようよう出勤してきた私に掛かる聞きなれた声は、朝の喧騒のように晴れやかだった。
私が気だるい雰囲気を全身にまとって振り返ると、その視線の先では、今朝もかっちりとブランドスーツに身を包んで襟には一枚ん万円のスカーフを小器用に巻いた私の良き友人:泉あやが予想通りの笑顔で立っていた。
そして力なく返答した私の肩をぽんっと叩くと
「何、あんた。また朝まで飲んでた口? すごい顔してるわよ」
と遠慮のない言葉を投げてくる。
いつものことだが、あやの言葉は的を得ている。言い返す言葉もございません。
とはいえ
「んん。それも、あるんだけど。何か風邪っぽいのよね」
ようよう辿りついた社内のロッカールームで、脱いだコートをハンガーに下げながら付け加えた私にあやは奇声を上げた。
―― ふ、二日酔いの頭に響くのでやめてください。
ほろりと心で涙して、私はどうしたの? と問い返した。
あやは悲劇のヒロインのようなオーバーリアクションを取ってくれる。
「今日またコンパに付き合ってもらおうと思ったのに。風邪っ?! 風邪ですって? 参加できないなんてことないわよね」
「え? 何、また人数足りないのに予定したの?」
あやは当然っ。という顔で深く頷いた。
「あのねぇ。私を頭数に入れてコンパ組むのやめてよ」
何度同じ台詞を口にしただろう。
個人的にコンパという席が私は苦手だったし、紛いなりにも今現在彼氏持ちだ。彼女探し中の男性のお力にはとてもなれそうにない。
「まぁ、今回だけでもお願いよ。碧音。このとーり」
―― ぱんっ!
と、あやは顔の前で両手を合わせて、私に哀願の目を向ける。
私はこのあやのお願いに弱かったりする。頼まれるといやと言えないこの性格。
「あやのお願いには弱いな」
私は小さく息を吐き、眉を寄せたまま笑顔を作った。
ありがとうっ! 感極まったあやが私にタックルし抱きしめてくる「うげぇ」女の子なのに、思わず蛙を潰したような可愛らしくない声を出してしまった。
「決定。7時に『X―クロス―』で待ち合わて行こう」
そういい捨てると、私の返事も待たずにあやはさっさと更衣室を後にしエレベーターに乗り込んだ。
全く持って不思議なんだよね。
あやと私ってばちっとも、似てないのに仲が良い。
あやのほうが2つ上でここの「情報処理室」チーフをしている。
簡単にいうと、この会社に集まってくる情報は一度そこを通って、各部署に分けられるわけで広い意味で社の中枢みたいなところのトップだ。
所謂、キャリアウーマンって、やつかな。
私の前であんな風にはしゃぐと思ったら、伊達に近い眼鏡を掛けてパソコンのディスプレイに向かう仕事モードの彼女の姿は圧巻だ。
そのギャップが彼女に人気を生むのだろう。
若干、人――この場合男性を主に指すのだが――の気持ちをお金で計る節があるところが私としては、心配だけど。それ以外は、非の打ち所のない完璧な女性だ。
そして私はといえば、まぁ、普通のOLさん。
企画処理みたいなことを主にやっている。
雑務が殆どで5年保存の義務のある書類などの管理までやらされている。
私は、少しむくんだ顔をぺちぺちと叩いて仕事場へと向かった。
ちょっと、早かったかな。
私は、あやとの待ち合わせで場所である「X-クロス-」のある雑居ビルの前に来ていた。
あやが時間通りに来ることなんて最初から期待してないけど、今日は残業もなく早めにきりがついてしまったのだ。
私は静かに開いた自動ドアをくぐった。
運良くエレベーターが下りてきたところだった。私はぽちっと上向きの△ボタンを押して開いたドアの中へ気分良く乗り込んだ。そして当然『X―クロス―』が店舗を置く階を押した。
正面の壁に掛けてある鏡でそっと前髪を直しながら、閉まっていくドアに目を向けた。
そしてドアの閉まる瞬間!
―― がんっ!!
何かが派手にぶつかってきた。
私はびくっと肩を強張らせて恐る恐る振り返った。
殆どしまっていたドアから手っ! 手が生えていたっ!!
私は声に鳴らない悲鳴を上げて、どんっと後ろの壁に背中を着いた。
「ちょ! 待って!」
挟まった手に気が付いたエレベータは、ゆっくりと閉まったドアを再び開き、挟まった人物を快く招き入れてしまった。
倒れこむように入ってきた男の人は両膝に手を突いて肩で息をしている。
「だ、大丈夫ですか?」
恐る恐る問いかけた私に、彼は片手を挙げて「大丈夫」の意思表示をしているようだ。
「何階?」
「っ、はぁ、は? え、何?」
「だから何階ですか? ――って、克己くん?」
階数のボタンに手を添えて、大丈夫だという彼に続けて問いかけた私に素っ頓狂な声を上げた彼に見覚えがあった。
彼も私に覚えがあったらしく、真っ直ぐに立ちなおすとちらりと光っている階数を確認してから鏡に寄りかかり
「ああ、あんたか」
と一言。
随分な挨拶だ。
しかし! あくまで彼は年下でまだまだお子様なのだ。
ここで大人の私が目くじらをたてるわけにはいかない。
それに、彼には少なからず借りがある。
「そうだ。昨日はありがとね」
にしてもまさか、こんなとこであうとは思わなかった。
とりあえず、話題もないので礼を告げた私に、克己くんは記憶の糸を辿るように逡巡してから「あぁ」と頷いた。
そんなに昨日はいろんなことがあったのだろうか?




