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全く、酷い目にあった。
反射的に避けたので、傷は深くは無かったが刃物で切られたため、多少なりとも血が流れる。それに、浅くても傷口はずくずくと鈍く痛む。
痛む腕を押さえながら、ふと、透がいっていたことを思い出した。確かに透のいう通り恐い女だった。
エレベータの中に乗り込んだ俺の後ろに続いて、碧音さんもおずおずと乗り込んできた。
当たり前の反応だとは思うけれど、動揺は隠しきれないようだ。
胸の前で組み合わされた手が、小刻みに震えている。
「おい。大丈夫か。驚かして悪かったな」
「―― ……うん。私は何ともないよ。腕……大丈夫?」
何ともないわりには声が震えてるぞ。
よっぽど怖かったんだな。そう思うと少し可笑しかった。
「笑い事じゃないよ! もし、もっとひどいことになってたらどうするの?!」
思わず笑ってしまった俺に、切り替えし声を張り上げた碧音さんの目は呆れるほど本気だった。
―― ……ったく、そんなに本気になるなよ。大したことなかったんだから。
ま、それもらしいといえばらしいのだろうけど。
真摯な眼差しを受け、不意に抱き寄せたいような気持ちにも駆られたが、両手とも血だらけだ。だから、それは叶わなかった。
それからあとは無言で部屋に向った。何とか平常心を取り戻そうと、頑張ってるんだろうなーと、どこか他人事のように考える。
ちらりと碧音さんを見てもこちらに気がつくことはない。きゅっと苦しげに下唇を噛み締めて足元を見つめている。
なんで俺より、碧音さんの方が傷付いた顔をしているのか。考えたら可笑しくてまた笑ってしまいそうだったから、俺は碧音さんから顔を逸らした。
「ええっと。克己くん、消毒液とか無いの?」
そして、部屋に入るなり、その台詞だった。
「無い。こんなの洗っとけば良いって。で、それ何?」
荷物の一つの中身は確認するまでもなく分かったが、もう一つ後生大事に抱えてるそれは何かわからなかった。
「ああ。これはね。『ジュ・アンジェ』のチーズケーキ。これすっごく美味しいんだよ。でもね。いつもすぐに売り切れちゃうから、なかなか手に入らなくて、今日はどうしてもこれを持ってきたかったから、2時間も並んじゃったんだ」
……チーズケーキ食べたさに二時間。
俺には到底わからない感覚だ。絶対嫌だ。それなら自分で作るほうが良い。
即座にそう思った。そう思ったけど……碧音さんはそうは思わないんだろうな。すげー嬉しそうだし、尻尾でもあったら盛大に振り回していそうだ。
ぷ。
その姿は容易に想像が出来て、俺は笑いを噛み殺してから話を続けた。
「じゃあ、俺は傷口洗って着替えてくるから、その辺ので、何か淹れといて」
「あ、ああ、うん。分かった。あの、あそこに置いてあるサイフォン使っても良い?」
「良いけど、インスタントもあるぞ」
一通りのものは揃っている。その一つにサイフォンもあるけれど、俺はあまり使わない。なんとなく面倒臭いというのが先にたってしまうから。だから、簡単に済ませたので良いという俺の言葉にも、良いの良いの。と、にこにこしてそういいながら、俺はしっしと追いやられてしまった。
―― ……まぁ、良いか……。
俺はシャツのボタンを外しつつ、洗面所に向かった。
***
その場を離れる克己くんを見送ってから、私はそこら辺にあるものを適当に持ち出して、買ってきたケーキをのせた。
やっぱり、美味しそうだ。ここのケーキ食べるの久しぶり。
自然と緩む頬は仕方ない。私は現金なのだ。気分良く、珈琲を淹れはじめた。
はっきりいって、料理とかちょっと苦手だけど、珈琲と紅茶を淹れるのだけは、そこそこ自信と定評があった。
私はそのためのお湯を沸かしつつ、ぼんやりと揺れる炎を眺めていると不意にさっきのことが頭を過ぎる。
あんなことドラマとか漫画の中で起きることで、現実的じゃないと思っていた。二人の間に何があったのかまでは分からないけれど、越えてはいけない一線でもあったと思う。
それにしてもあの綺麗な子、克己くんと同い年くらいなのかな。よっぽど好きだったんだなぁ。好きな気持ちというのは理解出来ないでもない。出来なくはないけど、でも、刃物は持ち出しちゃ駄目でしょ。 うん。それはやっぱし犯罪だし。
―― ……犯罪、だよねぇ?
克己くんは何でもないといっているし、きっと通報なんてしなくて良いんだと思うけど、でも、無罪放免でほったらかしにして良いのかな?
あれじゃ、根本的な解決にならないよね。
解決できないんじゃ、また繰り返すかもしれない。ちゃんと話し合いを……話し合い、といっても、まあ、無理かな……もっと距離と時間を置いてから。じゃないと、ね……。
「おい。湯沸いてるぞ」
「あっ! わわっ」
つい考え事に熱中してしまった私の横から、にゅっと手が出てきて火を止めた。
片手を私の肩において、多い被さるように腕を伸ばすものだから、驚いて大きく肩を跳ね上げてしまった。
ちらりと背後を振り仰げば「何?」というような視線を向けて首を傾げた。