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じんじんと指先が冷える。
ブーツで固めた足先もかじかんでいるような気がする。足首から下が氷のような温度になっているだろうことは容易に想像出来た。
私は真っ白な息を吐きながら、ぎゅっと握り締めた携帯が、やっと、音を伝えたのに弾かれるように肩を強張らせ慌てて相手を確認する。
「碧音ちゃん?」
聞き覚えのある優しい柔らかい声。小西さんだ。
「はい」
悴んで震えそうな声を抑えて私は、短く返事を返した。
「今日はごめんよ。どうしても仕事が抜けられなくて、もう、家だよね」
心配そうな彼の声に私はまさか待っていたなんていえなくて、一度、息を大きく吸い込んでから落ち着いて答えた。
「はい。今、ご飯食べて家についたところです。仕方ないですよ。仕事だし。気にしないで下さい」
後は、何を話したかよく覚えてない。
かじかんだ手と、震える声を隠すのが精一杯だった。じゃあと、電話を切るまでこらえていた涙が溢れた。
零れた涙に冷たい風が当たって頬に針が刺すような痛みを感じる。
しばれるなー。
ごしごしっと乱暴にコートの袖で涙を拭って、タクシーを捜すが、都合よく見つかってくれる車はそうそうない。
もっと大通りまででないと無理かな。
私はがっくりと落ち込んだ肩を何とか奮い起こした。
***
「―― ……っ!」
通りを挟んであいつが立っていた場所を確認して驚いた。
―― ……まだ居る。
馬鹿だな、良くは確認出来ないが、明らかにすっぽかされているのは確実だ。
呆れすぎて声を掛ける気にもならない。というか、あれだけ肩を落としている奴に掛ける気の利いた言葉が自分の口から突いて出てくれるとは到底思えなかった。
やれやれと、振り返ると瑠香がタクシーに乗り込もうとしていた。
「瑠香。ちょっと待て、タクシー譲って」
空いたドアから乗り込もうとした瑠香の肩を掴んで、頼む。と、重ねると瑠香は不思議そうな顔をしはしたが「いぃよ」と頷いた。
恩にきると礼を告げた俺は、タクシーに頭を突っ込んで運転手に凍死寸前の馬鹿女を乗せてくれと頼んだ。
タクシーの運転手は面倒臭そうな顔をしたが、客が付くことには変わりないと思ったのか、承諾し、車を回してくれた。
あいつの前でタクシーがハザードをたいて停止し、再び走り出したのを確認すると俺は一息吐いた。
「へぇ、克己くんてあんな感じの子がタイプなんだ。意外かも」
瑠香の声で自分に連れがいたことを思い出した。
「そんなんじゃねーよ」
心底驚いたように声を掛けた瑠香に俺はそう軽く交わして、大通りへ進み出て新たなタクシーを拾うことにした。
「それより、お前こそ真と知り合いだったのか?」
自分のことを聞かれるのは懲り懲りだ。何か他の話をと、とりあえず振ったその質問に瑠香があからさまに身を強張らせたのを見て、返事を聞くまでもなかった。
「私たち付き合ってた、のかな?」
質問したのは俺だが、遅疑逡巡した結果瑠香が口にしたのは質問返しだった。
その質問に俺は怪訝な顔をするしかなかった。真に特定の彼女がいたという話は、聞いていないような気がしたからだ。
「知らない? よね」
小さな溜息のあと、彼女は言葉を続けた。
「私が、同じ講義受けてること。克己くん知ってる?」
それも初耳だ。基本、あまり関心がなくて講義のメンバーなんていちいち覚えていない。
「それも、知らないみたいだね。私ってばそんなに地味かなぁ」
地味か。一言で済ませてしまうなら、その言葉がしっくり来るのだろうか。 俺は記憶の糸をたどった。やっぱりはっきりは思い出せない。
いや、しかし、それをあえて瑠香が気にする必要はない。
俺が覚えているメンバーなんていつもつるんでるあいつらくらいのもので、他は余程でなければ2回目でも「はじめまして」の仲だ。
「私は知ってるよ。克己くんってば、目立つもん。麗華さんといつも一緒でしょ」
またこれだ。
俺は知りもしない奴でも俺のことを知っている。
これほど面倒なことはない。
俺を知っているというのは間違っている。見たことがある。
もしくは噂を聞いたことがある。
これが正解だろう。
何といっても俺が瑠香と話をするのは今日が初めてだ。(多分)それにしても……
―― ……麗華……ああ、あいつか。
「あれは勝手についてくるだけだ。好きで一緒にいるわけじゃない」
「学内一の美人を捕まえてそれはないでしょ」
学内一の美人。
そうか、麗華は確かそんな呼ばれ方をしていたかな? 確かに外見は目立つ。中身は根っからのお嬢様気質。自分の思い通りにいかないと気に入らない、俺が一番苦手なタイプだ。
自分に屈しない俺が余程気に入らないのだろう。付き纏われていい迷惑だ。
俺は歩道から一歩踏み出して、回送中のタクシーに手をあげた。
運が良い。
タクシーは一発で俺を見つけてくれた。近寄ってくる車に俺は歩道まで下がった。そして、そういえば、俺はふと思い出したことがあった。
「ありがと」
結局のところ、瑠香と真がどんな仲だったのかとか、まぁ、いろいろと詳しいことを聞かないまま、俺は瑠香をタクシーに乗せた。
瑠香は素直にタクシーを止めただけの俺に礼を告げて、少し淋しそうに微笑んだ。俺は思いだしかけた何かを探るように問い掛けていた。
「お前、上、何ていうんだ」
閉まり掛けたドアの向こうで瑠香は俺の質問に少し不思議そうな顔をした。しかし、結局は俺の意図なんて分からないとばかりに口元を緩めて
「川合。だよ。川合瑠香」
小さく笑いながらそう告げたのが早かったか、発進するのが早かったのか……いい勝負だった。
そして、俺は走り行くタクシーを静かに見送った。