―9―
―― ……遅いな。
鍋の中のスープをかき混ぜながら、時計に目をやった。
かれこれ1時間以上たっている、と、思うんだが一向に出てくる気配が無い。
―― ……ったく、子どもじゃあるまいし、何遊んでんだ?
俺は鍋のかかった火を弱めて確認しに行くことにした。
「おい。何やってんだ? のぼせるぞ?」
擂りガラスを、どんどんっと叩いて声を掛けた。しかし、中からは全く返事がない。明らかに静か過ぎる。風呂で寝てるか……もしくは、躊躇している余裕はないだろう。
俺は小さく溜息を吐くと思い切ってガラス戸を開けた。
―― ……案の定。そこには湯だった碧音がいた。
かけてあったバスローブを無造作に取り上げ、湯で上がったそれを抱き上げくるんだ。
「ったく、世話がやける!」
俺は寝室に運び、誰にいうでもない愚痴を吐き続けていた。
そして、エアコンの設定を冷房に切り替え、目の前のゆでだこを冷やした。えーっと、こういうとき他に何してやれば良いんだ? 誰かの世話を焼くことにまだ慣れていなくて、何をどうすれば良いのか、ぽんっと思いつかない。
暫らく悩んでいる間に、気がついたのか最初の一言が。
「さむっ」
―― ……こいつ!
俺は安心したというよりは呆れてしまった。
「寒くない? 克己くん」
「ああ。ああ。寒いだろうよ!」
―― ……ああ! もう、あったまくる!
人の気も知らないで、ぼんやり起き上がった碧音に俺は勝手に切れた。そして、碧音を寝室に一人残して鍋の様子を見に行った。
後は勝手に休んだら回復するだろう。
俺は単純にそう考えて、鍋の中身を小皿にちょっとよそって味見をした。
―― ……んん。流石、俺。
そして満足感を得た俺はそれをマグカップによそって、もう一度寝室に戻った。
「おーい? 寝てんのか?」
さっきまで冷え切っていたはずの部屋の中は、十分に温まっていた。て、いうよりも、寧ろ、暑い。
ベッドの上でぐったりとしている碧音に声掛け、サイドテーブルに持ってきたカップを置く。殆ど知りもしない男の寝室で寝てるとか、無防備にもほどがある。呆れつつも、俺は碧音の傍に腰を下ろした。
顔を覗き込むと眠っているというよりは、苦しそうな表情を見せていた。
覗き込んでいた俺にやっと気がついたのか、碧音は静かに瞼を持ち上げてどこかとろんとした視線を向けた。
「ごめん。ちょっと、寝ちゃったみたい。そろそろ、帰るよ」
そういって、上体を起こそうとしたんだろうが、どうも体がいうことを利いていないようだ。
大きな瞳は今にも溢れそうなくらい潤んでいた。
明らかに、熱でもあるんだろう。
頬も赤いし、この常夏な室内で少し震えているのも確認出来た。
「馬鹿いってないで、そのまま寝てろ」
ええっと、バスローブで寝かすわけにもいかないな。そう思った俺は立ち上がり、適当に見繕ってスウェットの上下を引っ張り出してきた。
「自分で着替えられるか?」
碧音は俺の問い掛けに小さく頷いた。苦しいのか声は出ていない。
***
苦しかった。
喉も焼けそうなくらい熱かったし、頭も横になっているにも関わらず船に揺られているようでぐらんぐらんしていた。
だからといって私は、こんなところでお世話になっているわけにはいかない。
早く起きて、タクシーででも家に帰らなくては…… ――
しかし、そうは思っていても体がいうことを効かない。もぅ、いやんなっちゃう。どうしてこんなことに……。
苦しいよぉ、助けて
いろんな考えが私の中を駆け巡る中『P・P・P』可愛らしい機械音が小さく響いた。
「ほら、出して」
その音が鳴り止まないうちに克己くんの手が伸びていた。私はしぶしぶ脇から体温計を取り出した。
「38度5分。俺、薬買ってくるわ」
「え?! 良いよ。私、帰るし」
「馬鹿いってないで寝てろ。帰せるわけ無いだろ! 大体っ家帰っても一人だろうが。それとも何か? 彼氏でも呼べば飛んできてくれるのか?」
返す言葉も無かった。
分からない。それに、そんなの恐くて知りたくない。だからきっと私は家に帰っても、小西さんに連絡したりはしないと思う。
私は、返事の変わりに布団を頭からかぶった。
そんな私を確認してか、克己くんは短く嘆息すると静かに立ち上がってドアへ向かった。
「ああ、そうだ。他、何か食べたいものある?」
ほんの少し、いつもより気を遣うように……ほんの少し、いつもより感情のこもった克己くんの声が降ってくる。
それが何となく心地良かった。
「―― ……プリンと、桃缶。白桃じゃないと、嫌だ」
「そんなもんでいいのか? まぁ、良い。じゃあ、ちゃんと寝てろよ」
静かにドアが閉まる音がした。
その音を確認すると火照った顔を出した。自分が吐く息が熱くて気持ちが悪い。氷とか頼めば良かった。
体は冷えるが、頭は湯だったように熱い。
「はぁ」
私は、ぼんやり揺らぐ天井を眺めた。本当に、今日はついてない。
ごろりと寝返りをうつと、ベッドサイドでマグカップが湯気を上げていた。克己くんが用意してくれたのかな?
私は這うようにベッドサイドまで出て、枕を支えに身体を起こすとカップを両手に包み込んだ。
「あったかい」
ほんわりと手に伝わってくる暖かさにほっとする。
いい香りがする。インスタントとかそういうのじゃないっぽい……わざわざ作ってくれたんだ。あの生活感のないキッチン使えたんだな。とか、そこに立つ克己くんを想像すると可笑しかった。
普段から、バイトで台所には立つだろうけど、それと家では違うだろう。
ちょぴっと口をつけたけど、あまり味が分からない。
でも不思議と、喉は通った。
こくんこくんと飲み干してから、申し訳ないと思いつつも甘えてベッドの中に潜り込んだ。そして、克己くんが戻ってくるまで、なんとか起きていようと思ったのに、瞼はいうことを聞いてはくれなくて、どんどん、どんどん、重たく、な、……た。