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「ほら、さっさと来いよ」
そういった克己くんは私の了承など待つこともなく、腕を引っ張ってマンションに入っていった。
正面フロアの奥にあるインターホンにカードキーを差込、部屋番号と暗証番号を押す。すっとカードを引き抜くと自動ドアが静かに開いた。
そして、その奥のエレベータに乗り込んでも、今いち実感が湧かない。
「何かいいたいことがあるのか?」
私は馬鹿みたいに唖然として克己くんを見ていたらしい、怪訝な顔をした克己くんの声が頭に響いた。
「ここ、克己くんち?」
「そうだけど?」
「い、いや。私、克己くんって、てっきり苦学生かと思ってたから」
克己くんは、そういってしどろもどろになった私を面白そうに見ていた。思わず的外れな自分の想像にこの寒さにも関わらず頬が紅潮するのがわかった。
「苦学生? 何だよそれ」
「いや、学校も大変なのに、夜のバイトとかしてたし」
私の答えに、ますますつぼにはまったのか、こらえきれない笑いが零れていた。
「あんた、馬鹿じゃねぇの? 俺がバイトしてたのはくだらない誘いを断ったりする言い訳に丁度良かったからで、別にどっちでも良いんだよ」
また、馬鹿にされてしまった。
何だか私ってば克己くんに馬鹿にされてばっかりのような気がする。
負けてなるものか! と、妙な対抗心で、何か切り返そうとしたときエレベータは17階で止まった。
克己くんは、すたすたと足早に部屋へ向かった。
私は彼に引きずられるように手を引かれ小走りになる。自分の足に躓かないようにするのが精一杯だ。
克己くんが足を止め、鍵を開け中に入ると、思ったとおりかなりの高級マンションだ。玄関フロアと廊下を抜けると広いリビングとキッチンが目に入った。
一人暮らしなのに手入れが行き届いているのか、ほとんど家に居ないのか、とにかく生活感が無いほど片付いていた。
―― ……このキッチンとリビングだけで私の部屋は入っちゃうな。
「こっちの廊下の先、右手の奥が風呂だから、さっさと入って来いよ。着替えは適当に後で持っていくから」
克己くんは私を振り返ることもなく、廊下の奥を指差しつつ受話器を手に取っていた。
「え? いや。良いよ、お風呂なんて、タオルでも借りられたら」
「何いってんだよ。風邪引くだろうが。さっさと入って来いよ!」
ごねると、少しきつい口調で繰り返された台詞に、私はしぶしぶ従った。
確かに体は冷え切っていて、すぐにでも温まりたかったのは事実だけど、それが、克己くんの部屋だとは思いもしなかった。
「ふわぁっ」
凄いだろうなとは思ってたけど、思った以上だな。
私は克己くんの適当な説明を許に奥へ進み目的のドアを引いた。脱衣所だけで……いや、もう私の部屋と比較するのはやめよう。比較対象が惨め過ぎる。
すりガラスの扉に手をかけて、ゆっくり慎重に開いた。
―― ……かちゃ。
「ほー」
浴室を見てまたまた驚いた。
ジャグジーだ。
良いなぁ。
克己くんってお金持ちのお坊ちゃんなんだなぁ。こんなとこに一人で住んでるなんて……一人? 一人なのかな? ふと通ってきた生活感のない部屋を思い出す。他に家族が一緒に住んでいる、とは、考えにくい。そう思うと自然と複雑な気持ちになった。
さむっ。
そんな思考を遮るように、ぶるっと足元からの震えに襲われた私は、つまんないこと考えてないで早く入ろう。と、入ってきたドアを閉めた。
***
「今日、ちょっと用事が入って。遅くなるか、もしかしたらいけないかもしれない」
別にほったらかしにしてバイトに出ても問題ないとは思うものの、何となくマスターに電話を入れていた。マスターはいつもの調子で、是非来てくださいねーと軽口叩いていたけれど、行かなくても何もいわないだろう。そういう人だ。
ことっと、スチールボードの上に電話を戻して、ふと息を吐く。そういえば、俺、ケータイどこおいたっけ……親密な関係を築いている人間も居ないから、緊急などに使われることもなく、一応持っているだけのケータイだから、よく置き場を忘れる。
親密な関係、ね……この部屋に自分以外の人の気配がしたのは引越しのとき以来だな。
ふと、なんとなくそんなことを考えてしまった。
「あっと。タオルと、着替え、と」
寝室から、適当に着替えになりそうなのを持って風呂場へ入った。
すりガラス越しにシャワーの音が聞こえあいつの影が映っていた。その俺の姿に向こうも気がついたのか、
「ねぇ。お湯はっても良い?」
少し高揚した感じの声で話しかけてきた。
「ご自由に。こっち、服乾かしとくぞ。後、何か飲むか?」
「うん。ありがと」
切れ切れにそんな会話がなされ、俺は乾燥機で何とかなるものはそこへ放り込んでその場を後にした。
スープでも作るかな。
そんなことを思いついて俺は台所にたった。