―1―
俺はまた……この場所に立っていた。
柔らかな風が身体を包んで、そっと抜けていく。温かな日の光を受け、空を仰ぎ双眸を伏せる。この土地で育まれたものはみんな優しい。
静かに足を進めた。
まるで、昨日この道を歩いたような気さえしてくる。
そのくらい変わらない景色に俺は目を細めた。
―― …… ――
「はぁ~……俺には分からない」
荷物を纏めている俺の隣りで、机に腰掛けてうそ臭い大きな溜息。少し演技染みている真を軽く笑うと、真は、むっとしたように話を続けた。
「大体、お前大学残るようにいわれたんだろう? しかも、あの教授からだぜ? 俺だったら、残るなぁ~。しかも、あの臨床心理学の論文も絶賛だったじゃないか。そんなに急ぎ足にならなくても……」
「あ~……どうだったかな? とりあえず俺には時間がないからな」
「でも、古河が臨床心理を専攻するとは思わなかったけどな」
真はずっと負に落ちなかったのだろう。ことあるごとにその話題を出してきたから。
実際のところ、俺自身、真と同じ気持ちだ。他人に全く興味が無くて、自分ひとりで生きてきたと思っているような俺が、臨床心理学を専攻するなんて有り得ない話だ。
けれど、俺の選択は必然的なものだったようにも思える。
季節は幾度となく巡って…… ――。
小雪は、あの後すぐに大学をやめてしまった。
どこか他へ編入したと透から聞いたけど、詳細は分からない。別に俺がそこまで、推測する義理も無くて「ああ。そうか」と認識しただけだった。
そしてあれから、一度だけ、清明が俺の家を訪ねてきた。
何をしに来たのか本当によく分からないが、多分、あいつなりに俺のことを心配してくれていたんだろう。
あいつはこっちの大学に通うために、前まで碧音さんが住んでいた部屋を借りるようにしたため、出てきたんだといっていたけ。
他愛の無い話をしたが、肝心の碧音さんのことは、俺も聞かなかったし……あいつも口にしなかった。
ということは、別に碧音さんに頼まれて来たわけではないというわけで、だからこそ、俺は何も聞かなかったんだけど。
例の事件の方は、何だか大げさなことになっていて、今川の予想通り、芋づる式に出てきた被害者が後を絶たなくて……結構大きなニュースになっていた。
もちろん、容疑者は逮捕されていたが、裁判までもう少し時間がかかるそうだ。日本の裁判は時間がかかって仕方ない。
そのニュースを、碧音さんが目にしていなければ……良いのだけど……。
―― ……ふぅ。
と大きく溜息を吐いて、外を見下ろした。
早めの桜が、色をつけている。あそこの桜も、咲いてる頃だろうか。
「なぁ! 聞いてるのかっ?!」
「あっと……悪い? 聞いてなかった」
ちょっと、トリップしかけていた俺を呼び戻したのは真だ。
隣りで、ぶつぶつ文句をいいながら俺が纏めた本を、どんっと持たせた。
「古河って昔から俺の話しあんまり聞かないよな?」
「そうか?」
「まぁ、いいさ。とりあえず、今日のパーティでるんだろう?」
「いや。悪い……。俺、用事があるから」
にこにこと、嬉しそうに聞いてきた真に俺は、若干申し訳ない気持ちで断った。
俺はもちろん、無事卒業。
国家試験も無事に通過した。少しでも早く、親父まで追いつくために俺は奴の病院で働くことにした。これで、道は確保された。
真は試験資格を取得するところで止まってしまったわけだけど、一応無事卒業。瑠香に一足先を越されたのが面白くないらしいが、それも自分の頭の無さだ仕方ない。
「克己くんはー、一世一代の用事があるから、今日は無理」
「げふっ」
ひ、久しぶりに油断した俺は、透に後ろを取られて喉を詰めた。
なんだよな? と訳知り顔で俺の顔を覗き込んできた透の顔をぐいっと遠ざけて、前に回った腕を解きながら「何だよ」と分かったようにいう透をにらみつけた。
こいつも、何だかんだとふざけながらもやることは、ちゃんとこなしていたらしい。卒業後は実家の病院で研修医をするとのことだ。
「真は瑠香ちゃんと行ってくれば良いから、仲良く行くんだよぉ」
「何? 透も行かないの? 珍しいっ!」
「俺は行かない。うちは家庭崩壊の危機だからなっ!」
胸を張ってそういった透に――別に威張れるようなことは、いっていないと思うんだが――俺と真は同音を重ねる。
「「自業自得」」
そんな状況なのに、あははと笑ってしまう透はやっぱり大物だ。
少々呆れ気味に、長嘆息を落として、ちらりと時計に視線を送った。
やばいな。そろそろ行かないと……。
「ほら、行けよ」
どん
と透に背中を押されて俺は教室を出た。
「あいつ……どこ行くんだ?」
「さぁ、青い鳥でも探しに行くんじゃねぇの~?」
後ろでに、透の馬鹿な台詞が聞こえたが、無視して俺は急いだ。
途中、麗華にも絡まれたが、相手にしている暇はなかった。あの便に乗らなかったら、乗り継ぎが上手くいかないんだっ。
数少ない交通手段……。
逃すわけにはいかなかった。だから、俺は走った。