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克己くんの姿が見えなくなっても、私は暫らくその場から動くことが出来なかった。
「碧音ちゃん」
後ろから弘雅さんの声が聞こえて、必要以上に驚きながら私は振り返った。竹箒を片手に、普段どおりの彼がにっこりと微笑んで立っていた。
「……どうかした?」
「―― ……克己くんは?」
「帰ったよ」
「碧音ちゃんは?」
「私は…… ――」
彼の方へ歩きながら、弘雅さんに情けなく微笑んだ。
その微笑をどう受け取ったのか、弘雅さんも私と張り合うくらい悲しそうに微笑んでいた。
「私も手伝おうか?」
弘雅さんの持っていた箒に手を添えるとそういった私の頭をまるで子供でもあやすようにぽんぽんと優しく撫でると、その反動で私の瞳からはぽろぽろと雫が落ちていった。
「よく泣かなかったね」
「うん」
―― ……うん。うん……。
私は泣かなかった。何度も何度も、泣きつきたかったけど。今の私は克己くんには重すぎる。
「生きるって辛いね」
泣き笑いをしながら、私は掠れる声でそう呟いた。
涙が止まらなくて、なんだか本当に笑えてきた。情けないな……小さな子どもじゃないのに……。
「そうだね……でも……だからこそ」
「「楽しい」」
二人そろってハモったため、自然と笑いも重なっていた。
「さぁ、顔を洗っておいで。美人が台無しだよ」
「うん」
そう言っ私の背中を押した弘雅さんに、小さく返事を返すと母屋の方へ歩いていった。
少しいくとまた弘雅さんに呼び止められたので振り返った。
「想いは捨てなくても良いと思うよ」
風に乗るように、私の中へ届いたその言葉は、やんわりと身体に広がっていった。
私は、それには何も答えずに自室へ戻った。
―― …… ――
「……あれ……?」
昨日は気がつかなかったのに、机の上に懐かしいものが置いてあった。
―― ……捨てなくて良い想い、か……。
電源の落ちていたそれに、そっと電源をいれると置いてきた時と変わらない画面が立ち上がり、ほっと胸を撫で下ろす。
もう、いらないと思ったのに、そんな気持ちになるなんて自分自身に苦笑する。
何となく……あの時確認することのできなかった大量のメールを確認する気になった。
***
駅につくと、もういい時間だった。
日が西に傾きかけている。
家まで、歩く気力も失せてしまっていた俺はタクシーに乗り込むと、ぐったりと、その身体をシートに預けた。身体が異常に重たいのを感じながら、俺は静かに目を閉じていた。
いつの間にか眠っていたのか、運転手に起こされて車を降りた。
出かけたときよりも、ずっと暗く沈んでしまった気持ちと身体に鞭打って、俺は何とか部屋まで帰った。
どっ……。
半ば倒れこむように、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた俺は、無造作に携帯を取り出して、あやに電話をかけた。
しつこいくらい鳴らしてようやく電話が取られる。
いっつも遅いんだよ。
「おせぇよ……」
『悪かったわね。会議中だったのよ! これでも抜けたんだからね。用件は手短にいって。何?』
相変わらず、あやは忙しいようだ。俺は思わず苦笑した。
「碧音さんの届けは、そのまま受理してやって欲しい」
『―― ……』
俺の台詞に一瞬あやが固まったのが携帯越しにも伝わってきた。
『―― ……そう……』
「あぁ、そう……だ……」
『ええ、分かったわ。手続きは、おってしていくから、連絡先は、分かるわね?』
「―― ……あぁ」
『そう。なら、それで良いわ』
あやは、それ以上聞かなかった。
「……じゃぁな……」
『お疲れ様』
最後にそういったあやの言葉が、彼女にとっての最高の慰めの言葉だということは、明らかで……何の音も伝えることもなくなったケータイをそこら辺に転がすと、俺はテーブルに肘を付き頭を抱えた。
「……っ…………ぅ……」
ポッ……ポツ……
一粒落ちてしまったそれは……もう、どうにも止めることが出来なくて…… ――。
悲しいのか、情けないのか、溢れてくる感情に蓋も出来ずに、俺は声を上げて泣いた。さっきまで、きちんと全部飲み込んでいたのに。
溢れたら、もう、止まらない。
俺は、俺、は、
碧音さんを目の前にして、何も
何もしてやれなかった……
それどころか、只、彼女に気を遣わせてしまっただけで。
情けなさすぎ……カッコ悪いにも程があるだろう。
「―― ……ぁお……ね……っ……」
触れたかった。
抱きしめたかった。
そのどれも許されることなくて。
―― ……「あれ? 今日もお見送りサービスなの?」
「―― ……あぁ。まーな」
続いてエレベータに乗り込んだ俺に、にっこりと微笑んでそういった碧音さんに、素っ気無く俺が答えるとくすくす笑って……何だかそれが妙に愛しくて……抱き寄せると驚いている隙に、唇を重ねた。
「もうっ! 誰かに見られたらどうするのよっ!」
そういって真っ赤になった顔で怒るのも楽しくて、もう一度キスを落としたところで、エレベータが開いてしまって中断された。
「気をつけて帰れよ」
「うん。家で待ってるね」
笑顔で走り去っていく碧音さんを……見送って……
見送って……
どんっ!
力任せにテーブルに拳を叩きつける。
見送らなければ良かったんだっ!
どうして、俺はあの腕を離してしまったんだ……!
どうして、あの日に限って閉店まで居させなかったんだ!
どうして……
……どうして
あれが、最後になるなんて……。
『さようなら』
だなんて…… ――




