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桜の下で君を待つ  作者: 汐井サラサ
第八章:bruise
160/166

―33―


 *** 



 翌日は憎らしいほど良く晴れていた。

 

「昨夜は眠れた? 民宿みたいなところで嫌だったでしょう? 他のお客さんとかもいそうにないしさ」

「―― ……いや、良いんだ」


 碧音さんは昨夜俺がここに居たことすら知らなかった。

 きっとその方が良いという判断で伝えられたのだろう。流石に俺から「居た」とはいう気にはなれなくて、何となくその話にあわせた。


 例の女医さんの往診を済ますと、俺と碧音さんは昨日倒れていた庭先で話していた。

 この庭に繋がる縁に腰掛けて足をぶらぶらとさせながら、いつもと変わらない碧音さんの様子に、碧音さんの強勢ぶりは凄いなと思いつつ、俺は桜の木の下にあった岩に腰掛けていた。


「今日帰るんでしょう?」

「―― ……あぁ」


 もし、もし碧音さんが本当に俺を、恨んでいないというなら「せい」でないといえるのなら……俺を許すというのなら……一緒に戻って欲しかった。


 ―― ……あの場所に……。


 一緒に帰ろう? そう伝えたかった、手を取って「俺が助けるから」「一緒に居るから」といいたかった。

 でも、俺の口からは何もいえずにいた。

 昨夜の弘雅さんとの約束もあったし……それに、何より俺にそんな資格はないような気がして、たまらず俺は大きく一つ溜息を吐いた。


「幸せ落としちゃうよ?」


 飲み込んで。というように自分の胸を張り、とんとんっと叩いたいつもの調子の碧音さんに俺は力なく微笑んだ。


「克己くん」

「―― ……うん……」


 にこにこと笑っていた表情を消し去って急に目を合わせるもんだから、俺の背筋に緊張が走り心臓がどくんっと強く脈打った。


「あのね。克己くんが、帰って後悔したら嫌だからいうけど……別に、そんなこと思ってなかったら、私の自惚れでいいから聞いて」


 すとんっと危なっかしく、縁から飛び降りると足に響いたのか「つぅ……」と一瞬屈んで「大丈夫。大丈夫」と一人で頷きながら、すっと顔を上げた。


「もしかしたら、克己くんは私を迎えに来てくれたのかな? って思ったんだけど」」


 俺は、心臓がきゅっと締まったような気がした。


「でも、克己くんはそれを口にしなかった」


 ―― ……出来なかった。が正解だ。


 俺の心の声が聞こえるはずもなく、碧音さんは話を続けた。ゆっくりと一言一言噛み締めるように


「もしも……克己くんが『一緒に帰ろう』といっていたら……私、泣いちゃったかも」


 へへっと悪戯っぽく笑うと、自分の頬を両手で包んだ。

 その涙の理由はなんだろう。嬉しくて? 悲しくて……? それとも、もっと否定的な意味で? いろんな可能性が頭の中で渦を巻いて、たった一つの答えを飲み込んでしまう。


「私、あそこが大好きで……だって、あそこにいれば、克己くんが絶対帰ってきたでしょう? 遅くても、研修に出ていたって……何があっても」

「うん……」

「だから、私……大好きだったし、とっても居心地が良かったの」

「―― ……うん」


 座っている俺の元に、ゆっくり静かに歩みを進める碧音さんを、俺はただ……黙って見つめていた。


「でも、ごめんね? 今は……とても居心地が悪いの。どうしても、あの場所にはいられない」


 当然の判断だろう。

 間違っていない、そう思うことは極自然なことだ。


「だから私は帰らない」


 続けられた台詞に、胸が痛んだ。

 いつも俺は心のありかを碧音さんに教えられる。これまで誰も俺に教えてくれることはなかったことだ。


「これは、私の最大級のわがまま。だから克己くんが、気に病むことはこれっぽっちもない」


 そ……っ

 壊れ物でも触るようにそっと俺の頬に触れた指先が冷たかった。

 微かに震えていた……。

 その指先の緊張が俺の中に流れ込んでくる。


 俺はその手を掴んで引き寄せて……抱きしめたかった。強く、強く、抱き締めたかった。離したくないと伝わるように強く……。


 けれど……きっとまた、昨日のように拒絶されるだろう。

 どんなに、普通を平然を装っていたとしても、碧音さんの心は……病んでいる。


 湧き上がってくる感情の全てを押し殺して、俺はその全てに蓋をした。



 ***



 恐る恐る触れた彼の頬は、暖かくて……。

 何かされるのではないかという恐怖はあったが、克己くんはその気持ちを分かっていたかのように、軽く私から視線を外すと、そのまま瞼を落として私の好きにさせてくれた。


 ゆっくりと、確認するように彼の輪郭をなぞり……瞼から鼻筋をなぞって……唇にその指を落とし、その柔らかな感触を楽しむように、指を這わせた。

 昨日清明に手を上げられた傷も痛々しい……。


 ―― ……痛い、かな? 痛いよね。


 でも……微かに、克己くんの目元と口元が緩む。


 ―― ……くすぐったいのかな?


 ちょっと思って、私は自分の顔が紅潮し、綻んだのが分かった。

 静かに。少し名残惜しそうに、その顔から距離を置くと、ゆっくり克己くんは瞼を上げた。

 何か私からの次の言葉を待つように、その微かに潤んだ瞳は私の顔を見上げていた。


 私は、克己くんに触れた手を、もう片方の手で包み込むように胸元で握った。

 そして、瞑目しゆっくり深呼吸。


「さようなら……だよ」


 そう告げるのが私の唇からになるなんて、考えたことも無かった。

 きりきりと身体の中心が傷む。悲鳴を上げる。で、私は間違ってない。


「―― ……克己くんは克己くんのやらなくちゃいけないことを……自分の進むべき道を行かなくちゃ」


 それはもう私と一緒では駄目だと私は知っている。

 それを告げるのは、年上である私の役割だと知っている。

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