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「清明っ!」
ぼんやりとそんなことを考えてる中、悲鳴に近い叫び声が耳に届いた。
その声と同時に、俺を掴んでいた清明の手が硬直したのが分かる。
ゆっくりと俺の身体を離した清明は立ち上がると、声の方へ振り返った。俺はようやく開放された身体を何とか片手を付き支えると少しむせた。
「無抵抗な相手に何てことをしているのっ!」
―― ……凄い大声だ……こんな声は聞いたことないな。
「いや……だって、碧音が……」
「それとこれと関係ないでしょう! 彼に責任はないっ! 謝りなさいっ! ちゃんと謝るのよっ!!」
ちっ……と舌打ちをした清明はまだ憎しみに満ちた目で俺を見下ろしてくる。
何とか俺は自力で立ち上がった。
清明の向こうに、怒った碧音さんがノースリーブのワンピースにコットンカーディガンを羽織って立っていた。
明日香さんにいわれたことに思案を巡らせる間もなく、結局、俺は碧音さんと顔を合わせてしまった。立ち上がった時、ほんの一瞬碧音さんと、視線が絡みとくんっと心臓が跳ねる。
「別に構わない」
碧音さんの方を向き直ることなく、ぐいっと口元を手の甲で拭って俺はそういったのに、それに食って掛かったのは碧音さんだ。
「構わなくない! 清明っ!」
「だって!」
「清明っ!」
「―― ……」
清明は、ぎりりっと音が聞こえてきそうなほど、歯を噛み締めると俺と目を合わせずに
「……悪かったな」
と蚊の鳴くような声で呟いて、がっと足下の玉石を蹴り上げるとさっさと家に戻って行ってしまった。余程、碧音さんに頭が上がらないんだな、清明。
「ごめんなさい……普段はあんなに乱暴な子じゃないんだけど……」
「いや……俺も悪い」
すまなさそうに俺の顔を見上げたが、当然、視線は俺を捕らえては居なかった。
「消毒した方が良いよね」
緩やかに微笑を浮かべて、来た道を戻って行く碧音さんに俺は黙ってついて行く。
―― ……普通なんだ……。
本当に、驚くくらい。怖いくらい。
さっき怒鳴ったときは置いておいたとしても、物腰も穏やかで……いつもと変わらない。いや、それ以上に落ち着いて冷静に感じた。
そんな碧音さんは、あの人がいったように……決して『傍を離れない』ほうが良いように見えた。
俺を自室に案内した碧音さんは、枕元においてあった救急箱を取り出してきた。座ってと座布団を勧める。
俺はいわれるがままにそこへ胡坐をかいた。
ベッドの隣にそっと掛けてある点滴はまだ半分以上残っている。
もしかしなくても、自分で引っこ抜いたとしか思えない。
「碧音さん……点滴終わってない」
「平気だよ、別に」
「良くないだろっ!」
何の感情も込めないようにそういって俺の前で膝を立て、ガーゼに消毒液を含ませていた碧音さんに驚いて思わずその腕を掴んだ。
―― ……その瞬間。
碧音さんの身体が強張ったのが分かった。
そして、その後は微かに震えていた。
その反応に驚愕した俺は碧音さんの顔を見上げる……その瞳に写っていたのは……
―― ……怯え……?
「あ……っ……と、悪い……」
俺の心の空洞に冷たい風がふっと吹き込んだような気がして、慌ててその手を離した。
碧音さんは小さく首を左右に振ると、落としてしまった消毒液を拾い上げ、再び何事もなかったように作業を続ける。
***
「沁みるかもしれないけど、我慢してね」
自分でもよく分からない。
一瞬、急に動いた克己くんが凄く怖かった。
まだ、震える腕に気付かれないように、そっと伸ばして消毒液を含んだガーゼを克己くんの口元に添える。
沁みるのか一瞬ぴくりと軽く閉じた瞼が動いた。
その姿が不謹慎にも微笑ましくて、私の口元は緩んだ。何の意識もしないで、頑張らなくても、頬が緩んだのは克己くんが相手だったからかもしれない。
「吃驚した……まさか、こんなところまで来てくれるとは思わなかった」
「―― ……そんなに薄情じゃない」
「そっか、でも、私は薄情だよ」
消毒し終わった手を下ろすと、ゆっくり克己くんは目を開けて意地悪く笑った。
「確かに、あれは非道いな」
「だよね」
つられるように私は苦笑し、後は二人して沈黙した。
「碧音さん……」
そしてそんな沈黙を破り、急に神妙な顔をした克己くんは、きちんと座り直して私としっかり視線を合わせた後、畳に両手をつき頭を下げた。
「悪かった」
低い声でそう仰々しく謝ると、一段と深く頭を下げる。
畳に額を押し付けこれ以上頭を下げることなんて出来ないほど低頭して、謝罪を重ねる。
「ちょっ、克己くん! やめてよ、別に貴方は何も悪くない。悪くないんだから、さっきもいったでしょう?」
私は余りに急なことで、焦りと驚きとで顔が一気に紅潮したのが分かった。
それでも克己くんは頭を上げなかった。
「お願い。お願いだから……頭を上げて」
殆ど懇願だった。
その声がやっと届いたのか、ゆっくりと上体を起こした克己くんは申し訳なさそうに微笑んでいた。こんな克己くんは初めて見た。いつもどこか自信有り気な表情を残しているのに、今にも
―― ……泣き出しそうな顔だな。
ふと、そんな気がした。
「泣かないで」
私の言葉に克己くんはびくりとして慌てて自分の顔を撫でると、ほっとしたように肩を落とし拙そうな表情のまま苦笑して「泣いてないだろ」と口にする。
そっか、克己くんは私のために泣いてくれていたんだな。
だから意識しないでも、もしかしたら泣いているのかもしれないと慌てて……私のためになんて流す涙なくて良いのに……。