―27―
「あぁ。そこら辺に置いといて」
碧音さんちから、診療所まではそんなに離れてはいなかった。10分ほど歩くと小さな白い平屋建ての建物に辿り着きそこがそれだったのだ。
俺はいわれるがままに、診察台の隣の籠に鞄を置いた。
「座る? お茶でも入れましょうか? 私の名前は瀬田明日香。明日香さんで良いわよ」
何か妙な気分だ。
病気でもないのに、診療所の診察室の丸椅子に座らされる。
検査の結果でも知らされる気分になる……きっとその結果は良いものではないだろう。そんな俺の顔色で悟ったのか、
「あ。よく考えたら、ここじゃない方が良かったわね。私も動揺してたのかしら?」
くすくすと笑いながら、湯飲みを俺に手渡し「まぁ、良いわ。場所なんて問題じゃないわね」と自己解決。
「それより、抱き上げるとき彼女の意識を確認した?」
―― ……何かの講義でも始まるのか?
浮かんだ疑問に答えはないだろうから俺は、こくんと頷いた。その返答に明日香さんは「そう」と首肯して「それで意識はあったの?」と問い返してくる。
「……ゼロではなかったけど、かなり薄かった」
俺は何となく言葉を濁す形で答えていた。
「そう、じゃあ、碧音は夢だと思ったかもしれないわね?」
「え?」
「貴方に会った事よ」
「―― ……あぁ……うん。そう思うかも……」
碧音さん自身もそんな風に呟いていた。
それにしても、何がいいたいんだ? この医者……。
俺は怪訝な顔をして彼女を見つめた。
「貴方に選択権が生まれたわけよね。あ、ところで、何しに来たの?」
「―― ……え?」
「貴方のことは、前に真葛から聞いたわ。碧音の恋人でしょう? 医大学生の?」
強調された『学生』の部分が、やけに引っかかった。
「碧音に会いに? 会ってどうするの? 連れて戻るつもり? あの状態の碧音を? 貴方だって分かるでしょう? 私が『傍を離れるな』っていった理由くらい」
「―― ……あぁ……」
まじまじと俺の顔を見詰めながら、そういった彼女に俺は頷いた。
『傍を離れるな』ってことは……つまり……『死なないように見張っていろ』そういうことだ。
俺は息苦しくなって、大きく息を吐いた。
「私は、貴方がこのまま帰るのを望むけど……どう?」
―― ……どうって……
いわれても。
確かに、真葛さんの話やさっきの様子を見てたら、碧音さん自身かなり参ってることは分かる。でも、そんなことは想定内のことで……。
俺は頭を振った。
「そう……まぁ、目が覚めるまでまだ時間もあるし、考えると良いわ。貴方にとっての最良ではなく、あの子にとっての最良をね」
「何でそんなことをあんたにいわれないといけないんだ」
真葛さんにいわれるんなら分かる。弘雅さんにいわれるのも分かる。
でも、今目の前にいるこの人にいわれるのは納得行かない。
そんな俺の苦々しい台詞に、明日香さんは組んだ脚をゆっくりと組み替えて、ぎっと少しだけ椅子を回しぽつっと口にした。
「階段からこけたらしいわ」
「え?」
「碧音よ。何度聞いても、それしかいわない。私もね……紹介状を受け取った時点である程度のことは分かったのよ。でも、それだけ。それ以上はあの子がいわない限り分からない。貴方もいわないでしょうしね」
ふっと鼻で笑って俺の顔をじっと見つめた。その目に答えるように俺も頷く。
別に俺が、俺の責任から逃れたいから話さないわけじゃない。碧音さんがそう望んでいないからいわないだけだ……ぐっと、湯飲みを握る手に力が篭る。
「貴方の反発する気持ちも分からないわけじゃない、私がいいたかったのはそれだけよ」
本当はもっと、何かをいいたかったのだろうけれど、彼女はそれ以上何もいわなかった。
「ごちそうさま」
口もつけなかった湯飲みを静かに彼女の前に据えてある机に、とんっと置くと俺は静かにその場を後にした。
背中に刺さるような彼女の視線を受けながら…… ――。
日の落ち始めた空気は何だか涼しいような肌寒いような……何とも中途半端な感じだった。
田んぼの上を赤とんぼが悠々と飛んでいるのがこんなにのどかとは……。碧音さんの育ったとこらしい風情だな……とか思って何だか微笑ましい気持ちになる。
一本道を迷うことなく戻り、じゃりっと来たときと同じ様に、玉石の上に足を進ませた。
―― ……ふぅ。起きたかな。碧音さん。
そんなことを考えながら、俯いて歩いていたが、ふと人の気配を感じて顔を上げた。
俺と同じくらいの男が、大股でがつがつ俺に近づいてくる……気配……というか……俺が感じたのは『殺気』……それに違いなかった。
男との距離がどんどん近くなる……近くなる……近いっ!
ガッ!!
「痛っ」
鈍い音が頭の中に響いた。
何も身構えていなかった俺は奴の一撃で、尻餅をついてしまった。奴はそんな俺を跨いで膝をつくと俺の胸倉を掴み上げ憎々しく睨み付け怒鳴る。
「お前が克己かっ!」
―― ……確認してから、殴ってくれ……。
「……じゃあ、お前が清明だな」
顔を背けて口に溜まった血を吐き出すと、再び視線を目の前の直情型の男に戻した。
「清明」と確認を取ったことで、奴は俺を「克己」だと認識したのか、再び拳が俺の頬に入った。
「お前のせいだろっ! お前のせいでっ!!」
何度も打ち付けられる中、俺は反撃はしなかった。
清明のいってることは決して間違いでもない。
大体、俺と、一緒に居なければ、碧音さんはあんな目にはあわなかったはずだ。それだけでも、碧音さんの家族に恨まれる資格は十分にある。
何より、清明の反応の方がずっと、俺が考えていたものに近かった。