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「碧音。今……調子悪いから、あんまり無茶いうなよ」
こちらを振り返らずに太陽がぽつりという。
「あいつ、大丈夫じゃないから……」
「何でそう思うんだ?」
「―― ……おれ、大丈夫か聞いたんだ」
「あぁ」
碧音さんが「大丈夫じゃない」とでも、こんな子供にならいったんだろうか。俺にだって頼ろうとしなかった碧音さんが……。
「大丈夫。って笑った」
「―― ……なら、大丈夫なんだろう?」
―― ……大丈夫……なわけないだろうに。
ふっ……と息を吐き出しながら、素っ気無く俺はそう返答すると太陽を見た。真っ直ぐ前を見て真剣な顔をしている。
西日を浴びて輝く表情は俺にはちょっと眩しすぎる。
「大丈夫じゃない。あいつ……大丈夫じゃないときに限ってそういうんだ」
「―― ……へぇ。じゃあ、本当に大丈夫なときはどうなんだ?」
俺にも、平気じゃないのくらいはわかる。
でも、ちょっと意地悪な質問をしてみた。太陽は前を向いて歩いていた視線を俺の顔に移し、肩を竦めた。
「そん時は『大丈夫じゃないと思う?』って聞き返すんだよ」
「なるほど」
―― ……こんな子どもにまでばれてやがる。分かりやすいんだよ……全く……。
「あ、おい? 寄り道してる暇はないんだけど?」
とんとんっと両サイドを木々に囲まれた石段を登り始めた太陽を慌てて呼び止める。
「何いってんだよ? 早く来いよ。碧音んちここだぞ?」
「は? いや、でも……」
手招きをして俺を呼び寄せる太陽に、俺は目を見開いた。
―― ……ここって、神社だろう?
疑問符が拭えないまま、迷うことなく登っていく太陽の後ろについていく。
数段登って、古ぼけた大きな石の鳥居を見上げる。『白竜御神』という文字がかかっている。
間違いなく神社だ。
でも、碧音さん……弘雅さんは「自営」だっていってなかったか? ……神主は自営なのか……?
あまりの驚きに今現在どうでも良いことが頭の中を横行して騒がしい。
「おいっ!」
「あ、あぁ」
太陽に急かされて、何とか石段を登りきった。
真っ白い玉石を敷き慣らした境内がオレンジ色に輝く。その眩しさに刹那瞼をぎゅっと閉じた。
「ここは白竜石ってのを御神体として祭ってある。結構由緒ある神社らしいぞ? 知らなかったのか?」
「知らなかった」
俺は静かに首を振った。
「ふーん、ま、良いや」
そんな俺の驚きは他所に、太陽は俺の手をとって走り出した。
社堂を避けて回り込むと、平屋建ての母屋が姿を現した。
「真葛っ! 碧音いるっ? お客さんだぞ」
―― ……ちょっと待てっ! 心の準備が……っ!
常連なのだろう。勢いよく引き違い戸をあけて大きな声で叫ぶ。
一瞬慌ててしまった俺のことなんてお構いなしだ。
子どもって奴は……。空気読めよ……。
脱力感に襲われ、奥から聞き覚えのある声が返って来て、近づいてくる足音に緊張する。
あぁ、俺はどんな風に思われているんだろう。碧音さん、なんていってあるんだろうか?
「あら。克己くん。いらっしゃい」
「―― ……あ、はい」
普通だ。
身構えた自分が恥ずかしくなるくらい普通に真葛さんは声を掛けてくれた。
思わず間の抜けた返事をしてしまう。
「太陽。碧音なら境内にいなかった? さっき出て行ったと思うんだけど? 探してきてくれる?」
「え? 境内には居なかったぞ? 裏かなぁ……? じゃあ、おれ探してくる」
ぽんぽんと俺の身体を叩くとにっこり笑って太陽は外へ飛び出して行った。
「克己くんは、中で待ってる?」
「あ、いや、俺も探してきます」
「そう?」といってにっこり笑った真葛さんに背を向けた瞬間、ひょっこり現れた弘雅さんと視線が絡み合った。
「あれ? 克己くん、いらっしゃい」
ぎくりと肩を強張らせてしまった俺に対して、こっちも普通だ。
「あ、はい。お邪魔してます」
「この前は真葛ちゃんが迷惑かけてごめんね?」
「いや、いえ、そんなことないです」
どうして普通なんだろう。その冷静さが逆に怖い。
にこやかに普通の会話がなされる。妙な気分だ。「娘に何をしたっ!」ぐらいいわれる覚悟はあったんだけど。
俺は笑顔を作ったつもりだったけれど、きっとそれは中途半端なものになっていただろう。
「それより、弘雅くん。碧音ちゃん見なかった?」
「さっき、玉掻きしてくるって言ってたけど? 境内にいないの?」
その返答に「いないのよ」と真葛さんはお手上げポーズをとった。
「俺探してきますから」
何だかあまりに自然すぎて逆に俺はいたたまれなかった。
ぽっとそういって玄関を後にする。
後ろ手に二人の「気をつけてね」という声を聞きながら、情けない気分で俺は脚を進めた。
―― ……太陽の奴どこ行ったんだ?
勢いよく出て行った太陽のことだ、とっくに碧音さんを見つけてることだと思っていたのに。
じゃっじゃっと、玉石の擦れ合う音を聞きながら、俺は何となく境内を歩いて回った。
「おいっ!」
突如叫ばれた声に顔を上げると、太陽が渡り廊下を越えた奥の庭から慌てた様子で手招きをしている。俺は嫌な予感に襲われて、太陽に駆け寄った。
「あ、あんたっ! 碧音を頼む。俺、明日香さん呼んでくるからっ!」
堰きつくようにそういった太陽は、渡り廊下の下を潜ってその奥を指差しながら走っていってしまった。
―― ……明日香さんって誰だよ?
走り去った太陽を横目に太陽が走ってきた方へ移動した。
その先は、建物から続きの縁があって箱庭のようになっている。無造作に生えているように見える木々や草も何だか雰囲気があって、一つ一つまるで意味あってそこにあるようだった。
そしてその中でも一際目を引く大きな桜の老木の下の石の影にちらりと足が見えた。
「っ!!」
慌てて駆け寄れば人が倒れている。
小柄な身体を横たえて、肩口で切り揃えられた髪で表情は見えない。でもここで誰かが寝ているわけはない。
俺は一度大きく深呼吸して、傍にしゃがみこむと少しだけ横に倒れていた身体をずらす。ふわりと流れた髪のが地面に落ちて、顔が見えた。
―― ……碧音、さん。
ばくばくと心臓が強く打つ。色々とぐるぐる頭の中を駆け巡ったが、今はそれどころではなくて……ざっと状態を確認してから、上体を上げて呼吸を確認する。
―― ……大丈夫だ……。
あまりに青白い顔をして倒れていたので、俺自身血の気が引く想いだった。
そして、そのまま抱きかかえるように腕を回した。もともと、華奢だったその身体は、ますます小さくなっているように感じる。
両手首と足首に巻かれた包帯と、額のガーゼにも胸が痛む。抱きかかえた腕が震え、目頭が熱くなる。
さらりと緩やかな波を描いていた綺麗な栗色の長い髪は、肩にもつかないほど短く切られていたことにも驚いた。
そして、ぐったりとうなだれた首筋に微かに残る赤い痕に、俺は五臓六腑全てを抉り取られるような感じを覚える。
「碧音……碧音さん……っ」
片手でその身体を支えて、軽く頬を叩く。
何度か繰り返すと、ぴくりと瞼が動いてほんの少し瞳が姿を現した。
俺はもう一度名前を呼ぶ。
その瞳に俺の姿が映ると、碧音さんは、どこかぼんやりと虚ろな瞳のまま、力なく手を挙げ俺の頬にそっと触れ、微かに口元を緩めた。
「―― ……か つ み……く……ん?」
「あぁ、ああ」
消えそうな掠れた声で俺の名前を呼ぶ碧音さんが、あまりに儚くて……俺はその一言に何度も頷いた。
「夢かな……ふふ……やっと……会えたね?」
柔らかく微笑んで、そういった碧音さんは、そう呟くと静かにまた双眸を伏せた。
口元にはまだ笑みが残っている……その姿が愛しくて……愛しくて……たまらず、俺は強く、強く抱きしめた。