―22―
今川は、碧音さんの負った傷の説明をした。
俺はそれを聞けていたのかどうか。頭の中でぐるぐると回って思考回路は上手く働いていないようだった。
「おい……克己くん? 大丈夫か?」
俺は今川に肩を揺すられ我に返った。
「―― ……ぇ?」
「君、いや……克己で良いか? ―― ……その、知ってたか?」
―― ……知ってた? 俺が? 何を?
俺は何も知らない。いつも、何も知らされていない。
俺は力なく首を振った。
「いや、事件のことじゃなくって……その」
いい辛そうに、今川は言葉を濁した。それで、ようやくぴんときた。それこそ、俺が知っていて良い情報なのに俺はやはり知らなかった。
「―― ……それは、知り合いにこの間聞いた」
「あぁ、そうか。その、それも……ダメ、だったんだ」
『碧音、本当に嬉しそうだった。幸せそうだった』
あやの言葉が俺の中に響き渡った。
どうして……どうして碧音さんは、こんなに沢山のことを一人で抱えたまま、ここを出て行ったんだ!『もう一人で大丈夫』って全然大丈夫じゃないじゃないか。
また、一人きりで悩んで、泣いて、どうしてすぐにいわないんだ。
「俺は……なんなんだよ……」
誰にいうでもない言葉が口をついて出た。
「君は”克己”だよ。碧音はずっと呼んでた。君に何度も詫びていた」
「じゃ、なんで! なんで! そこに居たのはお前なんだ? 俺は何も知らされなかった。知ることが出来なかった。何であんたは知ってるんだっ?! うるせぇよっ!! ふざけるなっ!!」
「ふざけてるのは君だよっ!」
先に胸倉を掴みあげたのは俺だ。
でも先に手を上げたのは、多分、今川だ…… ――。
ゴッ!
鈍い音が頭の中に響き、床に椅子が転がる派手な音が響いた。
俺も、何度か応戦したが、現役の刑事に敵うわけも無い。
「痛っ」
簡単にねじ伏せられてしまった。格好悪い。
「あぁ、ごめん。綺麗な顔に傷がついてしまったね」
人の腹の上に座って、俺を見下ろした今川はにっこりと口の端を上げた。悔しいが完敗だ。
「頭、冷えたかい?」
「―― ……あぁ。そこをどいてもらうと助かる」
ふっ……と鼻で笑うと、今川はゆっくりと腰を上げ、椅子を元に戻すとそこへ座った。
俺は何とか上体を起こし、そのままフローリングに胡坐をかいた。やっぱり、何度かは入っていたようだ。今川の口元も血がにじんでいた。
「まぁ……。分からないでもないけど……灰皿ないの?」
「ねぇよ」
今川は、タバコをポケットから取り出したが、俺の返答にしぶしぶ元に戻した。
「君が、いわなかった碧音を責めるのはお門違いだ」
「―― ……」
「本当は、君に助けて欲しくて、救って欲しくて堪らなかったんだと思う。だから、ずっと君の名を呼びうなされ続けた」
「だったら……」
出そうな愚痴を飲み込んで、床を睨みつける俺に今川は「分かるだろ」と重ねた。
「―― ……碧音はいわなかったんじゃない。いえなかったんだ」
―― ……いえなかった? どうして……。
俺は今川の顔を見上げて次の言葉を待った。
「俺は碧音に、被害届けを出すことを進めた。そうでないと、俺らも大手を振って動けないしね。でも、碧音は断固拒否した。まあ、その気持ちも分からないでもない、でも」
「―― ……」
「最後に、碧音はこういったんだ」
そして、今川は俺の方へ身体を折り、顔を近づけるとそっと耳打ちした。
『彼らは、私の名前を知っていた』
続けざまに
「君に心当たり……あるんじゃないのか?」
そう、付け加えた。
「碧音は昔から、馬鹿がつくほどお人好しで優しかった。人が傷付くくらいなら、自分が傷付くのを進んで選ぶような子だ。それは……知ってるよね?」
俺は頭で心当たりを探しながら、今川の言葉に頷いた。
「碧音は君にいうことで、君が傷付くと考えたんだろう……その心当たりのせいで……ね?」
「―― ……お前は、俺にどうして欲しい? 碧音さんに口止めされていたことを話してまで、俺に何をさせたい?」
ようやくそこに辿り着いたか……とでもいうように、俺の言葉に今川は静かに笑った。
「碧音の様子を見てきて欲しい。」
「―― ……」
「居場所は俺が知ってる。『実家』に帰るといっていたから。碧音の実家は引っ越したりしないだろうし、間違いなく俺の知ってる場所だ」
―― ……会いたいだろう?
そう続けられて目の奥がじんっと熱を持った。
そして今川のほんの少し、愁いを帯びた声に俺は力なく頷いた。
会いたい……会いたい? ……もちろんだ……。
「事件のことは俺が何とか調べを進めるよ。ああいう事件はね。基本的に一度じゃないはずだ、きっと他にも同じ奴らに同じ様に苦しんでる子がいるだろう。俺はそっちを当たる」
「あんた、さぁ」
もう、俺にはそんなことどうでも良いことだけれど、何となく気になった。
その表情を読み取って、今川はぽんぽんと自分の膝を叩いて何も無い天井をふと見上げた。
「―― ……うん……。好きだったよ。碧音があんなに鈍くなかったら伝わってただろうけどね……俺が引っ越す前に、ね。もう、昔の事だよ。それに、今の俺には碧音を救うことが出来なかった。つまりは、そういうこと」
そういって視線を俺に戻して肩を竦めて笑った今川の瞳は泣いていたような気がする。
俺は力なく「そうか……」と一言告げることしか出来なかった。碧音さんの鈍さは筋金入りだ。そのくせ、変なところにだけ聡いから困る。