―11―
茶封筒の上に放られた携帯電話。
電源はもちろん落としてしまっているから、何も知らせてくることはない。
―― ……ちょっとくらい……良いかな?
少しだけ上体を起こしてケータイを手に取った。
申し訳ない気持ちもあったけれど、私は遮光カーテンも閉められた薄暗な部屋の中で、それに電源を入れた。
運が良いのかどうか、まだ充電は残っている。
ぽっと私の手元だけに小さな明かりが広がった。
未読メールの数には正直驚いた。いつまで読み込むのかと思った。
その大半があやと克己くんのもので、今朝一件だけ葉月チーフからも入っていた。
とくん、とくん……と鼓動が早くなる。
けれど、そのどれも内容は想像出来たので、申し訳なさと悲しさで私は一通も開くことが出来なかった。
留守番電話も、数件入っていた。
私は、耳にするかどうか少し迷ったけれど、ハンズフリーに設定して、膝辺りの布団の上に置くと、用件を取り出した。
―― 『あたしだけど、大丈夫? 会社には風邪だといっといたから……ねぇ? 本当に大丈夫なの?』
ピー……ッ
―― 『―― ……』プツ……ッ
ピー……ッ
―― 『碧音? 生きてるの? 連絡してくれない? どうしたの? 大丈夫? あ~あれよ……その……嘘でも良いから、克己に連絡いれときなさい。心配してるわ』
ピー……ッ
―― 『白羽さん。風邪ひどいみたいね。明日の会議資料どこにあるのかしら? 弥生にも探させてるんだけど見つからないのよ。良かったら連絡頂戴』
ピー……ッ
大半……こんな感じのものだった。
この部屋の外では日常が何一つ変わりなく流れている。
変わってしまったのは、私だけ……。
そう思うとそのどれも頭の上のほうを通り過ぎている感じがして、その内容を考える力はなかった。
何度か、無言で切れたものがあったのは、きっと克己くんだろう。留守電とか入れるの苦手そうだもの。
延々と続く留守番電話の内容を聞きながら、ぽろぽろと涙が頬を伝い、シーツの上に、ぽつんっぱんっと軽い音を立てて落ちていった。
―― ……みんな……ごめんね……。
私が、ここでこうしているせいで、みんなに迷惑かけていることは分かってる。
心配してくれてることも分かってる。
とても嬉しい、ありがたいとも思う、思っている。
―― ……でも。
今。その返事をする勇気も、嘘を並び立てて取り繕う気力も……私には……ない。
ピー……ッ
―― 『―― …………あ~……、その、大丈夫か? ……えぇと……怒ってないから、早く帰って来いよ?』
ピー……ッ
「っ! ……克己くん……!」
克己くんの戸惑いを隠せない声が、私の身体中に反響する。
大きく響いて、深く染み渡る。
静かに頬を伝った涙は今や溢れて止まらなくなってしまっていた。
「怒ってないから」だなんて……あやにでも釘刺されたのかな? ……そう思うと泣き笑いになってしまう。
ぎゅっと何も伝えなくなったケータイを両手で握り締める。握り締める手は小刻みに震えて止まらない。
色んな感情が一度に溢れて、どうして良いか分からない。
自分の考えも望みも何も分からない。纏まらない、私は今何を考えているのか……だから……
「ごめん……ごめんね……」
ただ、謝罪の言葉しか出てこない。繰り返し、繰り返し、重ねる。
しんっと静まり返った病室に、私の嗚咽と謝罪の言葉が染み渡っていった。
ごめんね、ごめんね、ごめん、…… ――
何度も何度も何度も……無意味に……
「―― ……ひっ!」
そうしている間に、ぎゅっと強く握っていたケータイが振るえ苦しげに小さな音を発した。
今必要ない謝罪なんて放っておいて、電源を切って置くべきだった。何故、無闇に電源なんて入れてしまったんだろう。
ケータイを握る手に益々力を込める。
ばくばくと、息苦しくなるくらい心臓が高鳴る。
もう、自分の手が震えているのか、ケータイが震えているのか分からない。
じわりじわりと指の力を緩めて、ディスプレイを確認する。
克己くんからの……着信だ……
どうしよう……。どうしよう……。どうしよう……。
無理矢理に電源を落としてしまえず、鳴り続けるケータイを見詰めているのは私の弱さ。
声が聞きたい……。
今、たった一つボタンに手を掛ければ叶う。
何もいわなくても、きっと問い掛けてくれるだろう。名前を呼んでくれるだろう。
『碧音さん』
聞きなれた声が頭の中で鮮明に蘇る。
助けて、助けて欲しい。
迎えに来て欲しい。
大丈夫だと、悪夢は去ったといって欲しい。
もう一度、もう一度だけ……克己くん、克己くん、かつ、み…… ――
苦しい、苦しい、よ……助け、て……
浮かんでは消えを繰り返す。悲痛な本音。
でも、それは決して私が口にしてはいけないのだと、ぐっと堪える。そして、しっかりと噛み締めた唇には血が滲み、口の中に流れ込む。
『ただいま、電話に出ることが出来ません……』
余りにも長くそのままにしてしまっていたから、留守番電話に切り替わった。電源を落としているときより遥かに遅く切り替わった。だからきっと克己くんは気が付く……っ
切らなくちゃ、電源をっ!
慌ててケータイを引寄せてボタンに手を掛ける。
ピー……ッ
『碧音さん?』
っ!
息を呑んだ。電源ボタンに添える指が震える。切らなくちゃ、切らなくちゃ……今、切らないと……
『碧音さん? もしかして、今、聞いて、る?』
克己くんの声が不安に揺れている。
私は洩れそうになる嗚咽を噛み殺して、代わりに大きく息を吐いた。その瞬間、唇に滲んでいた血液が、ぱんっと真っ白なシーツに赤の染みを作る。
どくんっと身体の中の何かが鈍い音を立てた。
―― ……赤……赤い、
「っ」
声にならない悲鳴が漏れ視界がガンガンと揺れる。誰かに殴られ、揺す振られている感覚が私を襲う。
助けて、助けて、たす、け、て……嫌だ、い、や、恐い、恐い、こわ、い……よ……いた、ぃ、よ…… ――
もう、誰の悲鳴か分からない。




