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翌朝、気分は最悪だった。
目は腫れていた。
ぼんやりとする頭をたたき起こして私はシャワーを浴びる。
別に昨日だって、今思えば、大した事じゃない。きっと、あやでも同じようなことをいったかもしれない。
そして、いったのがあやだったら、あんなに取り乱すこともなかったと思う。やっぱり、年下の子に言われたってのがネックなのかな? その辺、自分でも良くわかんないや。
うう。
暗くなる気分を持ち直して、私はコックをひねった。勢い良く水が飛び出してきた。
―― ……水っ?!
「ひゃぁっ!」
なんとも間抜けな声を出してしまった。そういえば、昨日の朝、掃除してから出かけたんだった。
はぁ。
お湯の温度くらい確認する心の余裕ってもんがあっても、良いのに。私は、一人で突っ込みながら、徐々に暖かくなってくるお湯を浴びていた。
―― ……心の余裕か。
最近の私にはちょっと足りないのかもなぁ。だから、あんなにすぐ、感情的になるんだ。
私の心は決まっていた。
辞令は末日。
会社に出かける準備を済ませ、玄関においてある靴に目が止まった。
昨日はあんまり、気にならなかったけど、よく見ると良い靴だ。ていうか、これきっと5万円近くするんじゃないかなぁ。
克己くん奮発してくれたなぁ。
とかそんな問題じゃなくって! 学生から、こんなの貰えないよ。といっても、相手は靴だし履いて外を歩いちゃったし、返品ってわけにもいかないし。
ここは、素直に貰っとくしかないか。
うん。かわいいし。私好みだ。
とりあえず、私はその靴を履いて会社へ向かった。
「あれ? 靴新しくない? あんたらしいわね」
「あいかわらず。目敏いね」
あやの顔を合わせての第一声がその台詞だった。あやは、ほんといろんなとこを見ている。思わず感心してしまう。
「誰かからプレゼント?」
「え? どうして?」
思わずどきっとした。
克己くんに買ってもらったなんていえないし。
「ん? 碧音らしいけど、きっとあんたなら買わないと思ったから。そんなブランド物の新作なんて」
「ああ。そうなんだ」
―― ……はっ! しまった。
そう思ったときには遅かった。あやは物凄く興味深げな顔で私の顔を覗き込んできた。
「ほら。早く行かないと遅刻になっちゃうよ」
「ええ? もう、後で絶対聞かせてよ」
私は何とかその場を切り抜けようと、あやの背中を押した。あやはしぶしぶとエレベーターに乗り込んで「ちゃんと教えてよっ!」と、念を押していた。
そして私はその日のうちに、昨夜辿り着いた結論を告げた。
「そう……それで良いのね」
「はい。本当に嬉しかったのですが」
「良いのよ。貴方ならそういうと思ったし」
私は、やはり断った。
そうするしか、思いつかなかった。
小西さんの上に立つなんて……無理。まだ、辞令が出ているわけではないから、きっと上層部でしかこんな話は上がっていないのだろう。
そうなら、小西さんにこんな話が上がっていたことはきっと届かないはずだ。
「私ね。貴方のこと結構かってたのよ」
「え?」
私をかっていた? その言葉に驚いた。
チーフはあやのように出来るって感じの人で、いつもちゃっちゃと仕事をこなしてて、誰かの力をかうとかそういう風には思えなかったから。そんな人に僅かでも認めてもらえる部分が自分にあったなんて信じられない。
「あのねぇ。私はこれでも、ここのチーフなわけ。みんなのことくらいちゃんと見てます」
チーフは私の心を見透かしたように、さも可笑しげに笑った。私は、ちょっと恥ずかしくなって視線をそらした。
「それで、この話を断ったら、どうしようかと私なりに貴方の身の振り方を考えたわけよ」
「―― ……」
「で、決めたの」
葉月チーフは思わず逡巡してしまった私の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。私は正直、この瞬間にいろんなことを覚悟した。
「私の補佐についてもらうことにしようって」
―― ……はい?
思わずチーフから出た言葉が私の耳に届いた時には、脳内で勝手に私に都合の良いように変換されているのではないかとさえ思えて……間の抜けた声を上げてしまった。
「え?」
「駄目? これも断っちゃう?」
「あ、いえ、その」
葉月チーフはその雰囲気すら楽しむように、胸の前で組んだ腕を組みなおして、私から決して視線を逸らそうとしない。
私は無茶苦茶動揺し、頬が紅潮してくるのが分かった。
「貴方、ほら、よく弥生に仕事押し付けられてるでしょ」
「え。いや、そんなことは」
「良いのよ。隠さなくても、出来上がったものを見れば、弥生が作ったデータじゃないってことくらいすぐ分かるわよ。弥生のは、確かに高度な出来ではあるし、その点では貴方の方が劣るわ」
「はぁ」
―― ……何もそんなはっきりと。
「でもね。貴方のは、第三者に扱いやすいのよ。その後の、処理も変更も誰でも出来るように考えて作られてる。その気持ちが私は欲しいわ。私の片腕になって欲しいのよ」
嬉しかった。すごく。言葉も出ないくらい、変わりに涙が出そうなくらい、嬉しかった。見ていてくれる人が居る。必要としてくれる人が居る。それだけでも、私にとって十分過ぎる評価だ。
私は、何か口にしたら、魔法が解けてしまうような気がして、言葉なく頷いた。