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あんなことがあってからは、別段何事も無く季節は巡っていた。
毎日が穏やかで平和。同じことを繰り返す当たり前の日々だ。
小雪ちゃんの名前が挙がることもないし……ああ……一度だけ、私の方が話を振ったような気がする。
ほんの少し、彼女のことが心配で元気にしているかどうか気になっていたからだ。
その質問に克己くんの答えは「さぁ?」とそっけないものだったが、らしいといえばらしいのかもしれない。そのことに少しだけほっとしたとかいったら、私はとても嫌な奴だと思う。
「おはよう。碧音」
「あれ? おはよう」
ここ最近、前にワインバーで偶然出くわした唯人くんには時々こうして出会うようになった。
約束して会うとかではなくて、どうやら、職場が私たちのマンションに近いらしい。私は今までそんなことに気がつきもしなかった。
「今日も暑いね」
ふぅ、溜息混じりに朝からガンガンに日が照っている空を見上げて、ぽつりと呟く。
真夏といわれる時も過ぎ去ったはずなのに、今年はまだ暑いということばから開放されない。「だなぁ」と相槌を打って、唯人くんも空を見上げてすぐに視線を戻すと「じゃ、溶けないようにな」といって足早にすれ違っていく。
それがいつものことのような感じになっていた。
変化に乏しい毎日。
それでも、私は満足だった。
克己くんは、あんなに自信満々にいっていたのに、どこか心配が残るのか『X―クロス―』でのバイトの回数が減った。その代わりに、よく部屋に篭るようになったがそこにはもちろん私の場所もあって。机に向かう克己くんの邪魔にならないように、そこにいるのも苦痛ではなく寧ろ共有できる空間が幸せだった。
***
平凡で平穏な日々なんて退屈なだけで、嫌なことしか思い出さないと思っていた。
暇な時間は、過去しか思い返せないと思っていた。けれど本当はそうではなくて、確実にこれからを先を紡いでいくものだと初めて気が付いた。
「克己ーっ!」
図書館でぼんやりと資料を眺めていた俺に突然声が掛かり、どかっと衝撃が走った。前に回された腕にぐいぐいと遠慮なく力が込められる。時々こいつは俺に殺意があるんじゃないかと思う。
「透……何か、げほっ……はなれ、ろ……お前久しぶりだな?」
「そうそう! 克己くんってば俺が恋しくて恋しくて、寂しくて死にそうだった?」
「―― ……馬鹿」
暑っ苦しく抱きついて離れない透を何とか引き離して隣りへ座らせた。透は椅子を跨ぐように座って、背もたれを抱え込み、落ちつかな気に、かたんかたんっと揺らしながら話を続けた。
「講習にも来てなかったな。何やってたんだ?」
「ちっと、実家に帰ってた」
「吉野さんの……か」
「感が良いな。克己」
―― ……いや、単純計算でもそろそろだろうと思っただけだ。
にこにこと嬉しそうに、これまでの経緯を俺に聞かせたくて仕方ないといった顔をする透を止めることは、俺にも出来なかった。
暫らくごたごたしていて、今こうしていられるということは、納まるところに納まったということだろう。俺はまだ未経験だからなんともいえないけれど、聞くくらいなら問題ない。
***
「珈琲淹れたよ」
「―― ……ん」
いつものように、私室に篭った克己くんのもとを珈琲片手に訪問した。
パソコンの画面から視線を上げることなく、小さく短く返事した克己くんの傍においてあるコースターの上に静かにカップを置く。
そして私は読みかけだった本に目を落とすため室内の隅にあるソファに腰を下ろした。
カタカタとテンポの良いキータッチの音を聞きながら私はページをめくる。
「……なぁ」
「ん? どしたの?」
コトリと、掛けていた眼鏡を机の脇に置き、目頭を抑えながら声をかけられ私は顔を上げた。
「親ってどんな気持ちなんだろうな」
「―― ……は?」
呟くようにそういった言葉がいまいち理解出来なくて私は思わず聞き返す。
その声もどこか上ずったものになった、そんな私の顔を見るために克己くんは視線を上げた。
「いや。別にたいしたことじゃないんだ。何となく、どんなもんなのかな……と思って」
そんなことを聞かれても。という感じだけど、克己くんがわざわざ話題に挙げるくらいだからきっと口でいうよりも気にかかっているということだよね。
ここは大人として真面目に答えてあげないと! とはいえ
「どんなもんなんだろうね。克己くんはどう思うの?」
何も浮かばない。質問に質問で返した私に、ふぅ……短く溜息を吐くと、克己くんは小さく首を横に振った。
「よく分からないな。俺の親父は碧音さんも知っての通りあんな感じで、どうしようもなかったし。何か、透が物凄く大人になったような気がしたから。それに遠くに感じた」
「透? ああ。あの克己くんの友達のちょっと可愛い感じの男の子でしょう。え? 親になったの?」
私の驚きに克己くんは頷いた。静かに頷いた。
学生結婚という奴なのだろうか? 親がどうというのだから産みそして育てていく決心をしたのだろう。
はぁ。今の子は凄いな。学生結婚だなんて。私は次に続ける言葉を失った。
「弘雅さんや真葛さんはどんな感じ? 弘雅さんって、何やってるの?」
「え? うち? 別に普通だよ。ええっと……何っていわれるとあれだけど……うう~ん……自営かな?」
「―― ……ふーん」
私は克己くんの問いに、嘘のような本当のような答えをした。
間違ってはいないと思うけれど、あれは自営だろうか? 疑問が残り、あってるという自信も無い。
しかし、幸いなことに、克己くんはそれ以上追及しなかった。
***
要するに、今の俺には透の気持ちも親父の頭ん中も分からないってことだな。
親父に関してはあんまり、分かりたくないような気もする。ろくなことは考えていないと思うから。俺の突然の質問に碧音さんは心底困ったような顔をして見つめていた。
「休憩」
すっと、デスクから腰をあげ、俺は碧音さんの隣りにマグカップをもって移動した。
ソファの脇においてある小さなテーブルにマグを置くと、そっと碧音さんの髪に触れる。少しだけ癖のある猫っ毛。柔らかくて、ふわりとしていて気持ち良い。
静かに引き寄せて、頬を寄せるとされるままになっていた碧音さんがぽつっと口を開いた。
「克己くんは、子供好きなの?」
「え? あ~……いや。どうかな」
碧音さんの素朴な質問に少し困った。
キライかといわれるとそうでもないかもしれないけれど、小児科だけは勘弁してもらいたい……という気持ちも無いわけでもない。
それに俺、好かれないだろうしなぁ……ガキには。
「碧音さんは好きそう」
「―― ……う~ん。どうかな? 分からないや」
意外だった。
碧音さんのことだから二つ返事で「うん」と簡単に答えてくれると思ったのに、実際は返答を濁した。
碧音さんなら無条件で子どもに好かれそうな気がするんだけどな? そう思った俺に気が付いたのか、碧音さんは俺の腕の間から俺を見上げて困ったように笑った。
「あんまり小さいこと関わる機会とかないし、ね。想像付かないでしょ?」
「ま。そうだよな」
これから先のことを考えないわけではないけれど、今はまだとても遠い先のことのように思える。結婚も、子どもも……俺はきっと透のように器用ではないから、同時に全てこなすのはきっと無理だ。ふとそう思い至ると、透が偉大な存在に思えた。あの、透が……。
「はぁ、今に関係ない話はよそう。別に良い、どっちでも、今はどーでも……」
ぐいと碧音さんの身体を強く引き寄せて、頭の上に顎を乗せて呟いた。碧音さんが微かに笑って、俺の顎の下で「うん」と小さく頷いたのが感じ取れた。
このぬるま湯が今はとても心地良い。




