―26―
***
「行くな」
「―― ……」
名残惜しくないわけではなかったけれど、これだけはちゃんと伝えないといけないから、最後に、碧音さんの唇を甘く噛んで、そっと唇を離すした。
そのままぽすりと俺の腕に抱かれる碧音さんを抱き留めながら、出来る限り穏やかにそう告げると小さく首を横に振った。
―― ……本当に……強情だな。
「頼むから、行くな。小雪はもう分かってるはずだ」
「それだけじゃないよ」
「昨夜もいっただろう? ちゃんと、納得行くようにするって。それに……」
「それに?」
俺が途中で言葉を切ると、その先を催促するように、碧音さんは顔を上げた。また、一筋涙が頬を伝っている。強くて弱くて脆い。だからきっと、とても愛しい。そんなことを思ってしまう自分が可笑しかった。
―― ……泣くな。
俺は静かに、頬の涙を片手で拭き取った。
「泣くなよ。今、ここから、逃げ出したら。一生痛いぞ」
「―― ……だろうね」
予想以上に冷静な一言。これから先、ずっと辛いと分かってて……それでも……本当に、全く、どうして……。俺が驚いたのが分かったのか、碧音さんは再び視線を俺から離した。
「どうして、一人で我慢するんだ?」
「……だから……」
「え?」
「好きだからだよ」
俯いたまま、俺のシャツを握る手に力が篭る。
俺の手より一周りも二周りも小さな手が拳を作る。微かに震えているのが分かる。
好き……。
とくんっと胸が高鳴る。
おかしいな、好きなんてありふれた台詞。何度も、そう、何度も聞いてきた。誰だって必ず口にした。
好き。愛している。
その類の台詞に今更心が揺さぶられると思わなかった。
好きなら離れなければ良い。そんな風に思う、思える俺は、きっと碧音さんのことを理解出来ていないのかもしれない。
***
―― ……好きだからに、決まってるじゃない。
私は今までいうべきではないと思い、留まってきた言葉を小さく吐き出した。
でも、心の枷が一つ外れたようで、ほんの少し、どこかの痛みが取れたような気がする。
好き。大好き。
何度も胸の中で繰り返していた。
でも、別れることが決まっていたから、私が口にしてはいけない言葉だと思っていた。
「初めて聞いたな」
「初めていったもん」
別に、そんなこといわれなれてると思ってたから、想像以上の克己くんの動揺が少し可笑しかった。
子供のような部分がほんの少し、見え隠れする瞬間が彼にはあって、だからこそ、私は頑張った。いや、強がれた? 素直になれなかった? いや、それでは克己くんのせいになってしまう。
違うよ。
そうじゃない……
”せい”ではなく”ため”なんだ。
「情けないな」
「え?」
「俺はそう思ってくれてる碧音さんに、ずっと、苦しい思いを抱えさせたままだったんだな。気が付かずにずっと、曖昧なまま自分の気持ちを押し付けてきた」
―― ……はぁ……。
と重たい溜息を吐いて、克己くんは私から手を離した。
「ちょっ!」
ごとんっ
握って離していなかったスーツケースを取り落としてリビングに派手な音が響く。
でも、私の驚きは当然のもので、克己くんが突然私の前へ腰をかがめたかと思ったら、膝の後ろに手を回して担ぎ上げたのだ。
もちろん私の身体は、持ち上げられる。
……普通に……お姫様抱っことかにしてくれたほうが良いんだけど、獲物か……私は……。
吃驚しすぎて思考回路が上手く回らない。
***
人の背中をぼこぼこ叩いて、暴れる碧音さんを無視して、そのまま、ソファまで運んで下ろした。
逆さになっていたためか、それとも残っていたアルコールが回ったためか、碧音さんの顔は真っ赤になっていた。
「もうっ! 急に何するのよ」
「ふふ、変な顔」
「っ! なっ!」
「悪い悪い、嘘々。とりあえず、ほら、ここ」
噛み付きそうな碧音さんに向ってぽすぽすと自分が座った隣りを叩いた。勢い余って立ち上がってしまった碧音さんは、俺の様子に赤い顔のまま眉を寄せたけど、ふぅと軽く深呼吸すると、俺が促したとおり腰を下ろした。
「何か、何か、さ。物凄く難しく考えてるみたいだけど」
「うん?」
「そんなに、難しくはないんだ」
俺の一言に、心底驚いたような顔をして話の続きを待っていた碧音さんの肩を抱き寄せて髪に静かにキスをした。
柔らかい、いい香りが碧音さんを包んでいる。
「俺の親父のこと知ってる?」
「んー、と、実はあやに克己くんとこの病院のサイト見せてもらったから、ちょっとは知ってる。克己くんにお父さん似だよね。あやがうっとり見てた」
残念ながら俺は見たことない。
というか普通見ないよな。うん。なんか別に個人サイトというわけじゃないんだからあれだけど、微妙に居た堪れない恥ずかしい感じがするのはなぜだ。
「ま、まぁ良いや。それなら、多少は知ってるんだよな?」
こくこくと、碧音さんは上下に首を振った。
「それであいつが俺に後を継がせようとしていることは確かなんだ」
碧音さんは尚もこくこくと頷く。……なんか土産物の類にこんな動きをするやつがあったような気がする。
「で、実際の継ぐ継がない……の話は良いとしても、継ぐのはあの病院だ。親父のコネまで継ぐ気もなければ、必要も無い。あいつはあいつのやり方で、あそこまでにした。俺も俺のやりかたで、追いついて見せる」
「で、でも」
「それに、あいつもそんなつもりはないと思う」
分かっていない! とでもいうように、話に割って入ろうとした碧音さんの台詞を最後まで俺はいわせなかった。
***
「でも、風見製薬さんとこの株主もしてるでしょう?」
そうだ。この克己くんのお父さんは風見製薬の筆頭株主でもある。だから、私はこの話を半ば信じがたいと思いながらも信じていた。
「は? そうだったか? あいつ、いろんな会社の役員になってたかもしれないな。まぁ。それも、どうでも良いさ」
「どうでもって!」
「俺の親父に引けを取らないくらい、風見の社長も軽いんだ。まぁ……大事な一人娘だ。得体の知れないような男に任せるよりは……小雪が望むなら。ぐらいの感じで、頷いたんだと思う」
「―― ……な……何よ、それ……」
吃驚しすぎて、気が付くと涙も止まっていた。
冷静に、克己くんの腕の中で彼の話を聞いていると自然と頭がすっきりしてきた。
そう、そうだよね。
中世の英国貴族とかじゃないんだから……結婚相手があらかじめ決まっていて、なんて……そんなの……いって行く先の無い言葉の代わりに溜息が零れた。
「と、このくらいでは、納得しないだろうな。碧音さんは」
やれやれというように、私の頭を撫でながら克己くんは呟いた。
今の時点で、両方の親が小雪ちゃんとということを、望んでいるんだとしたら。
うん。
私は、克己くんの言葉だけでは納得いかない。
「まぁ、その辺は、明日にでも解決させるから、今は少しでも、寝とけ」
「え?」
そういってぎゅっと私を抱きしめると、そのまま倒れた。
ぽすりと柔らかいソファが心地良く私たちを包む。
さっきまで、ひどく痛んでいた、どこもかも。それなのに、今この時は不思議と痛まない。
克己くんもそうなのかな? ちらりと顔を上げると、克己くんと目があった。
彼は微かに目を細めて「早く寝ろ」とでも、いわんばかりに腕に力を込める。
私の居場所を、克己くんが守ってくれようとしてくれていることはなんとなく分かった。自分だけの独断ではなくて、私のことも考えてくれて、それで、結果を出そうとしてくれている。
そんな彼の腕の中で私は、もう少しだけでも……ここに居たいと改めて思ってしまった。