―25―
ちっちっちっち……
時計の秒針がやけにうるさい。
うるさい……うるさい……うるさい。
まだ、ぐらぐらとする頭をようよう起こし時計に目をやった。何だかんだといいながらも、少し眠っていたようだ。
あと、1.2時間もすれば夜が明けるだろう。
そろそろ、出て行く準備を簡単に。
どこで、どうして、身体が痛みを訴えるのか、わからない。
それでも私は何とか老体に鞭打って、身体を起こし部屋の隅においてあった、いつかのボーナスで購入したスーツケースに手をかけた。
何日か、ここにいたおかげでこの部屋にもある程度の着替えを持ち込んでいたから、とりあえずはそれでなんとか過ごせるだろう。
そんな身の回りのものを乱雑にそれに詰め込んでロックをし鍵をかけた。荷物が少ないせいもあって、その作業は大した時間を割くことも、体力を使うことも無かった。
―― ……よし。
私は部屋の中を静かに一周して自分の足元を確認した。
大丈夫……真っ直ぐ歩けるくらいにまでは回復している。
かちゃん……。
閉めた鍵をゆっくり、ゆっくり回して開ける。
そして、細心の注意を払って静かにドアを開けて頭だけを出し辺りを見回した。
電気の点いていない廊下は、しんっと静まり返りひんやりとしている。
―― ……ん……?
視線を落とした私は、ドアの隣で座り込んだままの克己くんを見つけた。
馬鹿だなぁ、風邪ひいちゃうのに。
えっと運ぶことは無理だから。
何かかけてあげようか……とも、思ったがそれで目を覚ましてしまってもいけない。良心は痛むけれど、私は心を鬼にして通り過ぎることを決断した。
私は、静かにそっと部屋を出てドアを閉める。
そして、気が付かれないように、ゆっくりそぉぉっと克己くんの前を通り過ぎた。
***
「―― ……おい」
足音を忍ばせるように、俺の前を通った碧音さんに声をかけた。
背中が、びくりと強張って、その次はその場に固まっていた。
「こんなところで、眠れるのは碧音さんくらいだと思うけど」
俺はこの期に及んでも、悪態をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
まだ、体中が痛む。
何かをしたわけでもないのに何でだ。
自然に寄ってしまう眉間の皺をなんとか取り払って
数歩近づいた気配に気が付いたのか、固まっていた碧音さんは振り返ることなく歩みを進めた。
「待てよ」
「―― ……」
ぐぃっ
と掴んだ手が熱かった。
まだアルコールが抜けきっていないんだろう。
でも碧音さんは足を止めなかった。つられて俺もリビングまで付いて出る。
「碧音さん?」
「離して」
「嫌だ。……っていったら?」
「離してよっ!!」
普段では考えられない大声に一瞬驚いて、手を離してしまった。
碧音さん自身も自分の声に驚いたのか、俺が掴んでいた手を抱え込んで、あわあわとまた一歩距離を取る。
「あ……っと、その、ご、めん。その……別に怒ってないから……ていうか、怒る理由も無いよね? やだな……」
こちらも振り向かずに、ぽつりぽつりと吐き出すように碧音さんはそういった。
―― ……痛い。
碧音さんは理由なんてないというけれど、理由は山ほどあるはずで、俺は本当は攻められてもおかしくない。おかしくないのに、碧音さんは怒らない。
まただ。また腹の奥のほうで激痛がする。
「大丈夫だよ。もう出て行くから。ごめんね。長居しちゃって。んっと……その、小雪ちゃんにも謝っといて」
「―― ……」
碧音さんの震える声が、身体に痛い。あんなに聞きたかった声なのに、必死に喉の奥から絞り出してくる掠れた声が……苦しい。
どうして、俺は碧音さんにまだそんなことをいわせてしまうんだろう。俺がまだ子どもで碧音さんを安心させてやれるだけの器がなくて……だから、碧音さんは自分ひとりで何もかも背負ってしまう。苦しくてきゅっと唇を噛み締めて痛みを堪えたあと、俺は開いていた二人の距離を一気に縮めた。
そして、立ち尽くしていた碧音さんを後ろから、しっかりと両腕で抱きしめた。
こんなに華奢で小さいのに、どうしてこんなにも強いんだろう。
どうして、こんなに……。
回した腕に、力が篭る。
碧音さんは一瞬驚いたように肩に力が入ったが、それもすぐに抜けていた。
「……ありがとう。止めてくれるんだね。去る者追わず。かと思った」
自虐的な切ない一言。そうさせてしまうのは普段の俺の行いのせい。
ごめん……本当に、ごめんな。
「他の奴なら……今までの俺なら……うん、否定しない」
そっと俺の腕に触れる碧音さんの手が愛しかった。
ほんの少し、痛みが治まった。
碧音さんが触れてくれると痛みが和らぐ。心を寄せてくれると凪ぎいてくる。今、これを手放してしまったら、俺はきっと一生痛みを抱えなくちゃいけなくなる。
それは、きっと、碧音さんも同じはずだ。
***
「俺、痛みに弱いんだ」
「え?」
「痛いのも、寂しいのも平気だと思ってた。そう思えたのは、ただ俺が、それらを知らなかっただけなんだな……今ならはっきり分かる」
ぽつぽつとそういって克己くんは私を抱き締める腕に力を込めた。
「どっちも大嫌いだ」
「……克己、くん」
気がつけなかった気持ちを私が与えられたなら、私がここにいた意味があったのだと思える。私でも、克己くんの日常に影響を与えることが出来ていたのだと思える。
それだけでも私はとても嬉しい。
ここに居て良かった。
克己くんの傍にいて良かった。
我慢しているのに、じわりと目頭が熱くなる。
「こっち、向けよ……」
あんまり、顔は見られたくなかった。
振り返るのは嫌だった。
でも、克己くんの力には敵わない。私は身体だけ向き直ると俯いた。
「顔上げないのか?」
「……うん……」
「そ、か……まぁ、良いけど……こうすればどうせ、見えない」
―― ……ぽす……っ
静かに抱き寄せられた私は、克己くんの胸の中へ納まった。
少し早いような鼓動が、心地良く私の耳へ届く。
私の大好きな場所。
克己くんはそのことを知ってるのか、知らないのか……万人が喜ぶと思ってるのか……分からない。分からないけど、暫らくそのまま、静かに抱きしめて大きな手で私の髪を撫でていた。
―― ……ずきずき……痛い……。
克己くんの優しい手が私に痛い。心に痛い。
「痛いの」
「え?」
「痛いの……克己くんが優しくしてくれたら……身体の奥の方が痛いの。とても……とても痛いの、涙が止まらなくなるの」
実際、私の目からは涙が溢れていた。瞳に留まりきらなかった涙がはらはらはらはらと落ちてしまって止まらない。
「俺も痛い。どこか分からないけど……すげぇ……痛い……」
「大、丈夫……?」
「じゃない。全然大丈夫じゃない。碧音さんが泣いてるのも、痛い、言葉を押し殺してるのも、痛い。全然大丈夫じゃない」
―― ……克己くん。
私は、ごしっと顔を拭って静かに顔を上げた。
克己くんは、泣いてこそ居なかったが、苦しそうな顔をしていた。眉間に寄せられた皺が、それを物語っている。
「やっと、顔上げたな」
はは……っと力なく笑うと、私の頬に新たに伝った涙を両手で拭ってくれた。
そして、そのまま頬を包み込んで私の顎を上げると静かに口付けた。
「―― ……ん……」
何度か軽く重なったキスは、徐々に深いものに変わっていく。
こんなことでは駄目だと、私は毅然としていなくてはと思って最初は、拒んで口を一文字に結んでいたけれど……徒労に終わる。
静かに、優しく進入してくる彼の舌を拒むことはそれ以上出来なくて。
一度進入を許したら我慢出来なくて私は彼に何度も応えた。