―22―
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「嫌です」
思った通りの返答に、とりあえず納得した。
ああ……納得してる場合じゃないな。と自嘲的な笑いが零れてしまう。けれど、小雪からしたら「はい、そうですか」とはいかなくて当然だろう。そのくらいは俺にも分かる。
「だって、わたしとっても頑張ったんですよ。ずっと、信じて」
「―― ……だから、そのことは俺が悪かった。あの時は、何にも考えてなかったし、こんな状況に俺がなるとも思ってなかった。とにかく、あの時とは、状況が違うんだ」
「分かりません。分かりませんよ!」
風呂上りのため、ほんのり色づいていた小雪の頬は、興奮のためかますます紅潮していた。俺を真っ直ぐ見据えて、離さない瞳からは今にも涙が溢れそうだ。
「克己さんにとって、あの人がなんだっていうんですか? 今、克己さんは離れていこうとしてるあの人を引き止めたいだけなんです! それは『今』の感情なんでしょう?! そんなのっ! そんなのっずっと続くわけ無いじゃないですかっ」
ずきんと、胸が痛む。
続くわけがない。その言葉に苦しくなる。俺の傍から離れていった連中の後姿と、碧音さんの姿が重なる。
永遠なんてないと俺は知っていた。知っていたから拒絶していた。続くものは、続くかもしれないというものは必要ないと思っていた。でも……でも今は違う。他人から与えられるものに永遠なんてないかもしれない。ないかもしれないけれど、自分が作るのならそれは無理じゃないと思う。そう、思えるようになった。
「―― ……」
黙ってしまった俺に、小雪は震える声で続ける。
「良いんです。別に、もう少し、待つくらい。今まで待っていたんです。少しくらい伸びたってわたしはかまいません。克己さんの酔いが醒めるまで待ちます」
こんな状況下でも、まだ、待つといってやまない小雪に正直どう説明してどう納得させれば良いのか、わからなかった。
今、俺が碧音さんに酔ってるだけだという小雪の言葉も聞き捨てなら無い。
―― ……そうなのか?
自問する。
―― ……そんなこと、ないよな。
自答する勢いがないのは、俺の中身に自信がないからだ。確固としたものが持てない。持ったことがないからこれだそうだというものが分からない。
でも、少なくとも俺は、碧音さんにここにいて欲しいし、離れたくなんてない。
この感情は持続されないのだろうか?
それだけでは、一緒に居る理由にはならない?
この思いは子どもっぽい我が儘でしかないのだろうか?
「克己さん。あの人は、今の人です。克己さんの将来に何の役にも立たないでしょう? わたしは、わたしだったら……邪魔にもならないように気をつけます。今すぐじゃなくてもかまいません。だから、わたしに、もう、二度と可能性のないようなこといわないで下さい」
碧音さんが今いなくなったからといって、俺は小雪といるのが正解とは思えない。というか、こいつといるということがいまいち想像出来ない。
邪魔……?
確かにそうだ……。
「克己さん?」
「―― ……なんでも、ない」
思わず黙り込んでしまった俺の顔を覗き込んでくる小雪の頬には一筋涙の伝った後が残っていた。
「考えなしだった自分を悔いてるだけだ」
頭を抱えてしまう。
今のこいつに一体何をいえば納得してもらえるんだ。
「克己さん」
「―― ……俺は、お前と付き合うとか、社長やお前が考えてるような、そんな先のつもりは、さっきからいってるように全くない。社長だって今の俺を見たらきっと反対すると思う」
小雪が泣こうが喚こうが、これだかははっきりいっておかないと埒が明かない。
目の前の小雪の表情がどんどん曇って、いくのを見詰めながら淡々と、そしてはっきりと口にする。ぎゅっと拳に力を込めて……今、分からなくても、分かったといって欲しい。俺の勝手だけど……分かるのはいつかで良いから、昔の俺を許して忘れて欲しい。
ぽとぽと……っ
溜まりに溜まった涙は、留まるところをなくして静かに落下していく。小雪の膝は自ら流した涙でじんわりと濡れていった。
ぎゅっと胸が痛んで苦しくなった。
こんなことに、罪悪感を感じるようになったということは、きっと俺自身変わってるんだろう。昔はこんな光景よくあったし、それに何かを感じることなんて無かった。
強いていうなら「くだらない」「うるさい」「鬱陶しい」「面倒臭い」そう思うくらいだった。ていうか、俺空気読まないにもほどがあったんだな。
でも、今なら小雪が何故泣いてるのか、どうしてそう思うのか、分からないでもない自分がそこにいた。
***
―― ……かつんっ
「あ~……ダメだ……敵わないな」
空になりきらないグラスが、カウンターに置かれた。
名前も知らないサラリーマン風の男性。こんな日の私に、挑戦したのが運の付き。最近お酒にばかりお金が飛んでいくので私にとっては丁度いい話だった。
「ご馳走様です」
カウンターに突っ伏し腕の隙間から、私の顔を見て「ははっ」と笑う彼に、空いたグラスを振って私はお礼をいった。
「名前聞いても良いかな?」
「内緒です」
「えぇ、固いなぁ」
「固いんです」
酔いが回ってるのか、彼は身体を起こすことなく、そのままの体制で話しかけ続ける。本当は早く一人になりたかったんだけど、成り行き上仕方ない。
「ははっ。良い心がけだよ。碧音ちゃん」
「―― ……え?」
突っ伏したまま、私の名前を呟いた彼に私は目を丸くした。
おかしい。私、名前なんていったかな? このお店は『X―クロス―』ほど行き着けというわけでもない。だから、店員さんも私の名前なんて知らないはずなのに……どうして、目の前の彼は私の名前を知ってるんだろう。
目を白黒させながら、見詰める私にけたけたと愉快そうに笑った彼は、ようやく沈み込んでいた身体を起こして、改めてこちらに向き直ると、今度は穏やかににっこりと微笑んだ。
―― ……あれ。どこかで?
その笑顔にはどこかで見た覚えが。記憶の片隅に残っているような気がする。
「白羽、碧音ちゃん、だろ?」
「―― ……」
フルネームで知られていることで益々怪訝そうな表情になってしまう。そんな私に彼は肩を竦めた。
「まだ、思い出さないかなぁ」
何をいってるのか分からない私。分からないのだから何も答えることは出来ない。そんな私に、良く見て。と身を乗り出してくる。彼が乗り出してきたのと同じだけ後ろに引いて、じっと見詰めるけれどやっぱり、どこかで覚えがある気がするけど、残念ながら辿り着けない。
「ほら、もっと良く俺の顔見てよ」
「え?」
躊躇いなく、すっと私の手を取った彼はそのままその手を自分の頬につけにっこりと笑った。
……どこか、いたずらっぽいその顔……そういえば……どこかで?
「あ、唯……人……くん?」
「そそっ。良く出来ました」
―― ……今川唯人
声に出してみると曖昧だった記憶がはっきりとしてくる。
間違いなく私は彼を知っていた。
確か、中学校まで一緒だったんだ……で、そこから引っ越しちゃって……そのまま……それまではそこそこ仲が良かったような気がする。
「よく覚えてたね、私のこと……ていうか、私もしかして子どもの頃とあんまり変わってない?」
片方だけ記憶にあったということに少々不満を持った私は子どもっぽいと分かっていながらもそう聞いてしまった。
その質問に、にこにこと唯人くんは「まぁねぇ~」とだけ答えた。
店員さんがそっと置いてくれた、グラスには、冷たい水が注がれている。それを片手で揺らしながら、ぼんやりと唯人くんは眺めていた。
「ちぇっ。俺はこんなとこでの再会に、運命感じたんだけどな」
「え?」
「だってさぁ、こんな広い町の中で、普通会わないでしょう? まぁ、偶然といわれてしまえばそれだけだけどね」
「偶然は必然。会うべくして会った……って? またいいたいんだ」
彼の昔と変わらない話口調に私は、少し親近感を覚えた。
「お? 記憶戻ったか? 昔から抜けてたからな。碧音は」
それから、何とはなしに、昔話に今どうしてるかとか……いろいろと、懐かしいような話に私たちは花を咲かせた。
久しぶりに、楽しくて笑ったような気がする。
ここ数日ずっと思いつめていたから、久しぶりに落ち着いて、凄く安堵した。
唯人くんは、克己くんを知らない。
今、私がどんな立場に立たされているかも知らない。
だから逆に、私はこの時間を寛ぐことが出来た。