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「何って?」
「よく一人で飲みに行くのか?それとも、また」
「ん? たまには、一人で飲むのも良いでしょ」
「たまには……か。いや、あやも、一人で来てたからさ」
その言葉にちょっと驚いた顔を見せたが、すぐに目を伏せてしまった。
「あや、何かいってた?」
「いや、特に何も? ああ。人事異動がどうのとか、マスターといってたかもな」
「そっか」
なるほど、その「人事異動」とやらに関係があるわけか。
まぁ、あやが楽しむっていったら、そんなとこだな。
「昇格すんのか?」
「さあ。どうかな? 私ははどっちでも良いし。ていうか、降格といわれなかっただけ、私結構買われてる?」
「まさか。フツー、客に突然『降格ですか?』とは聞かねぇだろ? にしても、フツー仕事してる以上、上に立ちたいもんじゃないのか?」
その一言に、小さく溜息が漏れた。
「その時と場合によるよ。私は」
そこで言葉を切った。なんとなく、ぴんと来てしまった。
「ふ~ん。なるほど、男がかんでるわけか?」
「別に」
しまった。また、俺に関係ないことに首を突っ込んでしまった。「別に」ってそうだって、いってるようなもんじゃないか。
溜息吐きたいのはこっちのほうだ。
「あのさぁ、あんた。そんなに彼氏に気ぃ使うことないんじゃねぇーの? 疲れるだろ?」
「―― ……」
「仕事、あんた何の為にしてんの? 彼氏の為とかじゃないだろ? 彼氏だってそんなとこに気ぃ遣って欲しくないんじゃねぇの?」
「―― ……く、ん……だって……」
俺の質問に小さな声で何かいった。
声は震えているように聞こえたが、顔は下を向いていた為、表情は伺い知れない。
肩が小刻みに震えている。
寒いのか?
いや、この場合は怒りをかったのか? それとも……このまま放っておけば良い。そう思うのに、俺は問い返していた。
「なんて?」
「だらかっ! 克己くんだってどうなの? どうして、お医者さんになりたいの?」
「俺? 俺は家も病院やってるし、なんとなくこうなってたって感じで別に理由なんて」
「ほら、理由なんてないでしょ? 私だって、そうだよ。別に働いてる理由なんて」
「んじゃぁ、男とは付き合ってる理由があるわけだ?」
だから首を突っ込むなっ! 俺の中の誰かがブレーキを促したが、その時にはもう口からその言葉は吐き出されていた。
俺を無遠慮に見上げてきた瞳にじわりっと涙が溜まる。
「か、関係ないでしょうっ?! 理由くらいあるわよっ! 理由くらい」
「あそ。ならいぃんだけど」
何だか、やけにつっかかってくるなぁ。
―― ……やれやれ
いきり立ってぷいっと顔を逸らした頭をぽんぽんと叩くと、言葉は続いた。
「どうして! どうして克己くんは、そんなことばっかり訊くの? 訊かれたくないことばっかり、その上、いわれたくないことばっかりいうし! 私のこと何も……そうだよ、名前だって知らないくせに」
そういえば、知らなかった。
最初に聞きそびれると、なかなか後になると訊きにくくなるからな。妙に納得したのもつかの間。
良く考えると、なんだか、こいつは好きなこと羅列しやがって、俺だっていいたくもないこと、いわされて、聞きたくもないこと訊かされて、挙句の果てにはひっぱたかれるし、泣かれるし、怒られるし。
―― ……ろくなことないと思うんだけど。
***
「知らない、くせ、に……」
いつもはなんともない、ていうかさっきまでなんともなかったアルコールが回ってきた。血が頭に昇ってきているのかもしれない。
私は、必死で堪えたけど。止まらなかった。
―― ……ぽろぽろ
大粒の涙が落ちてしまった。
あぁ、情けない。私、何泣いてんだろう。
もう、どうしてこうなっちゃうんだろう。
あまりに情けなくって無造作に頬を伝う涙を手で拭った。
「もう、うちそこだから! 送ってくれてありがとう」
これ以上、格好悪いところなんて見せられない。
「後、これ! これも、ありがとう。じゃあ、バイバイ」
買って貰った靴を指差しそういって、私はその場を走り去った。
走り去った。というよりは逃げ出した。
そう、そんな感じだった。
「おいっ! あんた待てよ!」
後ろから克己くんの困惑しきった声が聞こえた。
ほんとに名前も知らないんだな。私はかつんっと踵を鳴らし、肩越しに後ろを振り返ると
「あおねだよ。白羽 碧音! じゃぁね」
「碧音?」
「そう、私の名前っ!」
それだけ告げて後は止まることなく家まで猛ダッシュした。