―21―
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翌朝、出社する碧音さんを掴まえて、大丈夫だから心配しなくて良いといったけど、あれは多分、心配している。というか、疑っているというか……当たり前の反応だろうと思うけど、もっと信じてくれても良いと思うのは俺の勝手だろうか?
「じゃあ。そういうことで、頼んだぞ。ああ、かまわない」
―― ……ぴっ。
静かに受話器を置いた俺は、小さくため息をついた。
連絡を取るだけで一日近く掛かるとかないだろ。朝から電話してメールしているというのに、時間の確保が出来たのが、日が暮れてからとか有り得ない。……とか、滅多に連絡しない俺がいうのは間違っているのか?
兎に角、小雪とのことだけはハッキリさせておかないと、話をややこしくしてるのは基本的に俺だ。
意を決した俺はバイトは休みにして、風呂から上がってくる小雪をリビングのソファに腰掛けながら、待ち受けていた。
夕飯はいらないとメールが届いた。どうも、今夜も碧音さんは遅いようだ。
本当にここ数日、泣き顔ばかり見てるような気がして、こっちまで滅入ってしまう。俺のせいだから、やっぱり早くなんとかしないとと気持ちだけが焦る。
―― ……ふぅ。
結果俺は深い溜息を吐き出した。
「どうかしたんですか?」
俺の溜息を聞きつけて、風呂から上がった小雪は、後ろから声を掛けてきた。
ほんの少し、驚いた俺は静かに振り返ると長い髪をタオルで拭きながら立っている小雪と目が合う。小雪は不思議そうに首を傾げていた。
「どうもしない。どうもしないが、ちょっと、ここ座れ」
ぱんぱんっ。
俺は自分の隣を、空叩きし小雪を呼び寄せた。
ソファ自体5人掛けなので、ある程度の距離をとって話せると思ったのだけれど……。なぜか嬉しそうな小雪は俺の直ぐ隣りに腰掛けた。膝頭がぶつかりそうな距離だ。
近い……。
俺は微妙に下がったけれど、直ぐに肘掛が脇腹に当たって止まってしまった。この際距離は諦めた。そして、特に見ていなかったTVは雑音としかならないので、とりあえず音量を下げた。
***
―― ……はぁ。
溜息がどうしても漏れてしまう私。
克己くんの笑顔が心に痛かった。
どうして、そっと、しておいてくれないのか。もう何が何だか分からない。
克己くんは一体どのくらいの先まで考えてくれているんだろう?
きっと、今しか見えてないんだよね。だから、きっとあんな風に強気で断言できるんだ。でもそれできっと充分なんだ。一緒に居る私は大人なのだから、私がしっかりと線を引いて……離れてあげれば良い。
何とかしようという克己くんの気持ちは嬉しい。でも、それに甘えているわけにも、素直に手放しで喜ぶわけにはいかない。オトナは自分の気持ちだけでは動けない。時には大切な気持ちに蓋をすることだって必要なんだ。
私はそれをよく分かっているつもりだ。
分かってる、大丈夫、分かってる。
はぁ。
結局、今日も真っ直ぐ帰りそびれてしまっていた。
不動産屋巡りをしようかとも思ったんだけど、思っただけで終わってしまった。新しい生活というのが全く想像出来ない。時間はそんなに重ねていない筈なのに、そのくらい、私にとって大切な場所だった。
まぁ……暫らくはあやの家にでも転がり込もうと一人で決め込んで、会社で少し時間をつぶした私は、その足で、何だか懐かしいワインバーに足を運んでいた。
―― ……本当、どうしよう……。
私は、ぼんやりと頭の整理も付かないまま、ワインを淡々と進めていた。
折角の物なのに、ろくろく味わう余裕もなく、ただ何となく喉に流し込んでいる感じだ。
そんな感じだから、いつの間にか私の座っていたカウンター席の隣りに、他の客が腰掛けたことになんて気付くはずも無く「こんばんわ」と声を掛けられて、びくりと必要以上に驚いてしまった。
「あ、えと、はい。こんばんわ」
突然、私に挨拶してきた、スーツに身を包んだ同年代くらいの男性はにこやかに微笑む。雰囲気から私と同じように仕事からの帰り、というところだろうか? この店は静かで落ち着いていて、一人でも気兼ねしなくて良い。
「一人?」
「……えぇ。まぁ、見ての通り一人です」
わけわかんない人の相手をしてるほど、私には余裕もなく、返事はやはりそっけないものになってしまう。そんな返答に苦笑いしながらも、相手は特に気にはしていないようだ。
「そか。結構、飲める方?」
「―― ……そう、ですね」
お酒に飲まれるような経験もうない。
それがどうしたというのか、私のつっけんどんな返答を他所に、彼はにこにこと気さくに話を続ける。
「飲み比べしようか?」
「え?」
そんな私に、彼はにっこりと微笑みながらそんな提案を持ちかけた。
普段の私だったら、そんな話適当に聞き流すんだけど……今日は何かおかしかった……というか、どれだけ飲んでも、酔う気がしなかったから。自信もある。
「良いですよ」
そういった私は、普段しないような意地の悪い笑顔を作っていたに違いない。
「やめたほうが、良いですよ、お客様。もう、結構飲んでらっしゃいますし」
止めに入ってくれた店員さんの声を、静止して彼は私の前においてあった、空のグラスにワインを注いだ。
「君が勝ったら、ここは僕が持つよ」
「はい」
「で、僕が勝ったら僕のいうことを一つ聞いて」
その勝負は、何だかかなり私にとって、とても不利な気がした。
でも、まぁ、良いか。
「良いですよ」
そして、私も彼のグラスにワインを注ぎいれて「乾杯」と小さくグラスを合わせた。
―― ……チンッ……
澄んだ綺麗な音が微かに響いた。