―17―
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「んんーっ!」
やっと会社から解放されて、大きく伸びを一つ。
遅くなってしまった。
流石にサボっていた付けは大きくて、結局こんな時間になってしまった。
あまり星の見えないどんよりとした夜空を仰いで、瞳を細める。
でも、この時間なら、確実に克己くんはバイトだろうから、顔を合わすのは小雪ちゃんだけで済みそうだ。
良いのか、悪いのか、私はそんなこと考えながら帰路につき、マンションのドアに手を掛けて、深呼吸。かちゃり、と玄関のドアを開けた。
今日は、ぱたぱたと迎えに出てくる小雪ちゃんの姿はなかった。
―― ……出かけてるのかな?
どういうわけか決まって小雪ちゃんは私まで迎えに出てくれていたから、そう思っていたけれど、よく考えるまでもなく、私を迎えなくてはいけないような理由ない。
これが通常だ。
それはそれで良いんだけど。
ぽち……っと廊下の照明をオンにして、リビングに入っていった。
「あれ? 小雪ちゃん?」
とても静かだからやっぱり出かけているのかと当たりをつけたところだったから、人影があったことに驚き目を凝らす。真っ暗だったリビングのソファに静かに腰を降ろしているのが小雪ちゃんだとなんとか目視できた。
「どうしたの? 電気も点けないで……。えーっと、調子でも悪い?」
「―― ……」
泣いていたのか、どうなのか、真っ暗で表情も読み取ることが出来ない。とりあえず、私はリビングに電気を点けた。
「今日も、飲んでたんですか? それってわたしのせいですか」
「え? いや、今日はただの残業だけど」
―― ……えーっと。
確かに私は良く飲んでるから否定しない。寧ろ出来ない。
昨日もかなりあおったし。
でも、それを小雪ちゃんのせいにするつもりは毛頭ないしそんなこと一言も口にしたつもりはないんだけど。
一体どうしたっていうんだろう?
私の頭に疑問符が、ぽこぽこぽんっと飛び出る中、小雪ちゃんはぽつりと口を開いた。
「白羽さんは、」
「ん?」
蚊の鳴くような声で呼ばれた私はとりあえず小雪ちゃんの隣りに腰掛けた。
さらりとした、長い髪が顔にかかっていて、表情は横からではいまいちつかめない。でも、私の名を呼ぶことすら苦しげな姿は、私の胸も締め付けて不安にする。
「白羽さん、は」
「うん?」
「―― ……克己さんのこと、どの位、本気なんですか」
「え」
喉につかえていたものを吐き出すように、小雪ちゃんはそういって俯いていた顔をあげ私の顔を見た。
小雪ちゃんの目は真っ赤にして、真っ直ぐに私を見る。
やっぱり、泣いていたんだろうなと確信を得ると、きりきりと胸が痛んだ。
克己くん、何かいったのかな?
小雪ちゃん個人のことを克己くんがとやかくいうとは思えない。だとしたら、やはりその内容は私に無関係な内容ではないだろうなということは想像に難くない。
本気の、度合い……か……。
「わたしはずっと、ずっと大好きでした。附属の学園に入る前から、もちろん。それからもずっとずっと」
「―― ……」
「克己さん、あんなんだから、女の子の間でも、凄く人気があったけど、みんな近寄りがたくて話すことも出来なかったみたいで……でも、わたしは、小雪だけは、そんな子たちとは違ってた。それで、みんなから疎まれてもわたしだけが特別なんだと思って我慢出来た。お父様たちも仲も良かったし……」
「うん」
ぽつぽつよ零していく小雪ちゃんの話に私は相槌を打つくらいしか出来ない。小雪ちゃんの痛いくらいの本気は分かってた。
分かるよ。
分かるに、決まってる……。
きゅっと私は膝の上に置いた手を握り力を込める。
「克己さんは小雪だけに、優しかったし、小雪にだけ……ずっとそうだったのに。だから、ずっと、ずっと大好きで、ずっと一緒なんだと思ってた。だから、だから、附属の大学にそのまま進むんだと思ってたのに克己さんは……わたし、物凄く驚いて凄く辛かった、悲しかった。小雪と気持ちは同じだと思ってたのに」
ぽろぽろぽろ……っ
綺麗な涙が、小雪ちゃんの頬を伝っていた。
「だから、約束したのに! だから、頑張ったのに! 頑張れたのに!」
「―― ……小雪ちゃん」
なんていって良いか分からなくて、もう、私と克己くんは関係ないから、心配しないでといえば良いのかも知れないけれど、それを口に出来ない私はとてもずるくて……自分で切ってしまったはずなのに、私はどこかでまだきっとしがみ付いている。
そんな私の心うちを見透かすように小雪ちゃんは涙を拭うこともしないで、吐き捨てる。
「白羽さんは! 白羽さんはずるいです! 酷いです!! わたし以上に克己さんを好きだっていうんですか?!」
―― ……小雪ちゃん……。
私は、堪らず目の前で号泣する小雪ちゃんを抱きしめた。小雪ちゃんは一瞬肩を強張らせたけれど、突き放したりはせず、ただただ、酷いよ、ズルイよと繰り返して身体を震わせていた。
―― ……ダメだ……。
「ごめん、小雪ちゃん」
それ以上その場に居られなかった。
私の気持ちなんて、今、この状況に何の影響ももたない。
やっぱり何もいうべきじゃない。何もいう資格もないし、何もいえない。小雪ちゃんの本気に私の宙ぶらりんな気持ちなんてぶつけてはいけない。
私は、痛む胸を押さえて、言葉をかみ殺し部屋へ戻った。
ぱたん
静かにドアを閉めた私は、部屋においてある小さな冷蔵庫を開けた。
胸が苦しくて、痛くて、本当はこんなことではいけないんだけど、他に何かこの痛みを紛らわせる方法なんて私は知らなくて、何か飲んでいたかった。
心は冷え切っていても、身体だけは暖かくなる。
だから、独りで耐えるために、私には他に方法がなかった。
苦しくて、悲しくて涙が溢れそうで、私だって好きだと正面からぶつかることは出来ない。私は別れることを、身を引くことを選択し、それを克己くんに告げた。
もう、終わっているのだと、そう告げたらきっと小雪ちゃんは救われたかもしれない。克己くんになにをいわれたのかは私には分からない。
けれど、傷付き胸を痛めているときなら、きっと自分に優しい言葉を受け入れると思う。それが、分かっているのに……。
「……あれ……?」
そこにはいつものようにビールも数本入っていたが、それより私の目に飛び込んできたのは、小さなパイだった。
―― ……克己くん。
それは私の大好きなもので、疲れたとき『X―クロス―』で何回か食べさせて貰った。メモもないし、どういう意図で置いたのか分からない、けれど、ここに置くということは、私のために作ってくれたのだと思う。
きっと疲れているだろう私のために……。
―― ……もう、私は涙を堪え切れなかった。
もう、私の本気を受け止めてもらえる先はない。あってはいけない。
分かってる、分かってる。
何度も何度も自分にいい聞かせる。
私は抱きしめてくれる腕も、優しく声をかけ、口付けてくれるその全てを、自らの手で切ったのだから。
克己くんは「分かった」とそういったのだから。
声に出来ない、言葉のために私はまた口の中に広がった血の味を飲み込んだ。
涙だけは止まらない。止めかたが分からない。
―― ……克己くんがこの先、幸せになるのなら、私なんて消えてしまっても良い。
居なくなっても構わない。私……は……私の本気、私の心、行き先もない……言葉。
大好きだといいたかった。
ずっと隣りに居たいといいたかった。
なのに……どうしても……いえなかった。私はこの結末を知ってたから、覚悟してたから、私の心の行き先が、いずれなくなってしまうことを分かっていたから。
いえなかった一言……いえなかった気持ち。
それでも尚消せなかった想い。
ぶぅぅぅ……ん……という機械音と、冷気だけが今の私を包んでいた。
もう、いっそ私なんて消えてなくなってしまえば良いのに …… ――




