―15―
***
「大丈夫?」
ぼんやりとベンチに腰掛けていると、男の人に声を掛けられてしまった。全くほっといてくれて良いのに。少し苛々としながらとりあえずは無視した。それでも気にしないようで、彼は勝手に話を続ける。
「あんまり、楽しそうじゃなかったね」
―― ……ああ。さっきまで一緒だったのかな? 覚えてないなぁ。
私は何となくはっきりしない火照った頭をフル活動させて思い出したが、今目の前で愛想を振りまいてくれている男の人に覚えはなかった。
「本当に、大丈夫? どっか、そこら入って休んだ方が良いんじゃない?」
「結構です。私のことは、大丈夫ですから、二次会にでも行ってください」
普段の思考回路より薄く、私はいつになくそっけない返答しかできなかった。別に悪気があるわけではないと思うけど、下心はありそうだしね。当然といえば当然の対応だと思っている。
「ええ~。女の子一人、おいてくなんて心配だよ。ほら、休みに行こうよー」
「ああっ! もうっ。結構ですってばっ!!」
しなっと、人の腕を取っているのに気が付いて、私は必要以上の力で振りほどいてしまった。その反動は、目の前の人ではなく自分自身に振り返ってきてしまって、私はふらついてしまった。
「おっと。ほらね。大丈夫じゃない」
尻餅ついでに、座り込んでしまった私に、けたけたと笑いながら手を差し出してきた。
「取り込み中悪いんだけど。それ、俺の連れなの」
その手を取る気は全くなかったけれど、聞こえて来た声に驚きは隠せない。思わず、立ち上がることも忘れてぼんやりと見上げた。
「克己くん?」
その人の後ろでに、立っていた克己くんの言葉はまだ柔らかかったけど、目が笑っていなかった。その威圧的な、雰囲気に耐えかねたのかどうなのか「なぁんだ、迎えが来るならそういってよ」とかいいつつ彼は、そそくさと退散してしまった。
「ほら、大丈夫か?」
ぐいと、私の手を掴んで立たせた克己くんは、ちょっと、いや、結構。息が上がっていた。
「う、うん。私は、なんとも……大丈夫? 息あがってるよ?」
「あのなぁ」
私の声に一気に脱力したのか、両膝に手を当てて「あ~、しんでぇ」と大きく肩で呼吸していた。
***
―― ……全く、あやにはやられるな。
普段運動らしい運動もしていないため、急に走ると結構辛い。やれやれと、一息吐いた俺は、隣りにあったベンチに腰掛けた。川風が身体を心地良く包んで抜けていく。
「ほら」
俺がわざわざ走ってきたのに、疑問を感じて拭いきれない様子の碧音さんに、俺はケータイを突き出した。家を出てすぐくらいから、あやからメールが数回に分けて入った。
内容はもう、あまり触れたくないな。
「―― ……な……何これ。あや」
それを見て笑いが堪え切れなかったのか、くすくすと笑いながら俺にケータイを返した。
「信じたの?」
「―― ……」
別に、信じてねぇけど、無茶飲みしてるっていってたし、迎えに来い。なんて電話、初めてだったんだから焦るだろうが。
実際、本当に男に絡まれていたわけだし。
全く。
すとんっと俺の隣りに腰を下ろした碧音さんは、黙り込んでしまった俺ににっこり、本当に嬉しそうに笑って「ありがとう」といった。
この顔は久しぶりに見たような気がする。久しぶりの全力疾走に乱れた息とは別に胸の奥がきゅっと苦しくなる。
「克己くん。そういえば、これどうしたの?」
そういいつつ、自分の手首を掴んだ。
「ああ、悪い。研修中に切れちまった」
「―― ……そっか。良いよ、うん」
気が付いてたんだな。と少し驚いた。ずっとつけていたときも、なくなってからもそんなこと、一度も触れたことなかったから、別段気にもなってないのかと思った。
碧音さんは、ああそうか。と重ねて、深くベンチに腰掛けるとぶらぶらと足先を揺らす。そして「あのね」と切り出してきた。
「あや、あれでも気遣ってくれたんだと思うよ」
「ん?」
「二人で話すこと、出来ないでしょう?」
酔ってるせいで本音が出るのか、見たこともないくらい物憂げな表情で、ぽつりとそういった碧音さんは、胸が詰まりそうなほど苦しそうだった。
「悪か……」
「そういえばさぁ。私、前から気になってたことがあるんだけど」
謝罪しようとした俺の言葉をあっさりと遮って、碧音さんはにこっと俺の顔を覗き込んできた。酔いの回ってるやつのテンションにはいまいち付いていけない。俺ははぁと溜息を重ねて「何?」と続きを促した。
「いや、どうして、私だけ『さん』付けなのかなぁ? って思ってさぁ」
「はい??」
「だって、克己くんってあんまり『さん』とか、つけなくない?」
「覚えてないのか? 碧音さんが『さん』くらい付けろっていったんだぞ」
素っ頓狂な質問をしてくるから思わず声が裏返りそうだった。
「ええっ? そんなこといったっけ?」
「……いった。最初は呼び捨てだったんだ。でも、人ん家に転がり込んで大熱出したとき、そういって怒るから……でももう馴染んだから変えられない」
文句いうなよ。と続ければ、にこりと微笑まれた。
ああ、もう。そんな無防備に笑われると弱い。俺、気持ち悪い。
***
―― ……そっか、私ってば朦朧としながらそんな偉そうなことをいっていたのか。
おぼろげな記憶を辿っても、いまいち思い出せない。出せない、けど
「そんなこともあったんだね……」
何だか、無性にそのことも懐かしく思えた。
「ああ。大変だった」
苦々しくそう零す克己くんの台詞はとても深いものがあって私は申し訳なく苦笑する。本当、私迷惑掛けっぱなしだった。だから、これまで一度だって克己くんに年上らしいことなんて出来ていない。大人らしいところなんて見せることが出来ていなくて、情けないところばかりだ。本当、情けない。
「ごめんね」
でも、気持ちとしては、懐かしくて、とても楽しかった。そんな思いの方が強く残っているのだから不思議だ。
何だか、お互いに振り回されてたような気もしないでもないけど、いつの間にか一緒に居て、それが普通で……そこが私の居場所になっていた。
大好きで大切で……だからこそ、私が何を守りたいのか悩んだ。
すっと不意に立ち上がった私は、川辺の柵まで足を進める。水の香りがする。ここは海が近いからほんの少し、潮の香りもするような気もしないでもない。
風が気持ち良い。
「―― ……なぁ」
ぽぉっと、風に吹かれる私の隣に歩み寄ってきた克己くんは、柵に寄りかかると、そのまま、しゃがんで私を見上げた。真っ直ぐに私を、見つめる瞳に緊張した。
克己くんは時々、こういう風にどきっとするような表情をする。
「―― ……」
そして、暫らく私を眺めたあと、よっと。しゃがみこんだ姿勢から、すっくと立ち上がり、大きく息を吐いてもう一度私の顔を見つめた。
「碧音さんは」
「うん?」
「碧音さんは、本当はどう思ってるんだ? どうしたい?」
克己くんの真っ直ぐな視線に、真っ直ぐな質問。
私は、それから、逃げ出すわけには行かなかった。緊張のあまり小刻みに震える手を自分で握り締めて深呼吸して……口を開いた。
「私は」
私が守りたいのは
「―― ……」
「私は、別れるべきだと思う。そうしなきゃいけないと思う」
克己くんだ。彼の歩む道を守りたい。彼の未来を守りたい。私には、もう大した道は残っていないだろうけど、彼はこれからだから。
はっきりと告げたあと、ごくりと唾を飲み込む音が身体の中でやけに大きく響いた。
ぶつかっている視線が痛い。
体中の血が頭の先っぽまで一気に上って、そして引いていくような……なんとも表現しがたく苦しかった。
私の出した返答に、克己くんがどう答えるのか怖かった。
「―― ……分かった」
けれど、克己くんは静かに一言そう答えて、私から視線をそらした。
そして、柵から身を離すと、私の手をとって歩き出した。
「克己くん?」
「帰る」
必要以上に、何もいわない克己くんの後姿が少し切なかった。
「一人で歩けるよ」
以前は慌てて手を離したのに、克己くんはその手を離さなかった。
するっと力を緩めて、離れ落ちるかと思った私の手を、指を絡めてしっかりと繋ぎなおす。アルコールで火照った私の手に、ほんの少し体温の低い克己くんの手はとても心地良くて、私からこの手を話さないといけないと思っている、分かっているのに家に戻るまでその手を離す事も力を緩めることも出来なかった。
―― ……二人とも、何も話せなかった……。