―7―
***
「克己くん」
ゆっくりと落ちついてその名を呼ぶ。
私なんかよりきっと克己くんの方が今は動揺しているはずだから、私はちゃんと受け止められる。その手はずは整っている。
大丈夫。
大丈夫。
いつも通りの顔をして、いつも通りの声を出して
「気にしなくて良いからな。あいつのことは」
そんなにあっさり切り捨てないであげて。
簡単な問題じゃないのくらい分かっているし、私なら、大丈夫だよ。平気。慣れてる。
落ち着いて、笑って。お願い……顔の筋肉ってどうやって動かせば良かったんだっけ、いうこと、聞いて、よ、ね。
「克己くん、疲れてるでしょう? とりあえず簡易ベッドも用意したからそっちで、寝て良いよ。今日は私がそこで寝るから」
いって、ソファを指差す。
克己くんが逡巡し、私の声に困惑している。
どうして? 私何かいつもと違うかな。私ってこんなんじゃなかったっけ? こんな感じだよね。こんな感じが、私で……私は大人だから。
「碧音さん……」
「あっと、そういえばスーツケースどこに置いてきたの?」
「え? ああ。玄関に置きっぱなしだけど」
「そっか。じゃあ、持って入っとくね」
克己くんが、いいたいことは分かる。聞きたいこと分かる。
でも、今私が答えを口にするのは、恐い。
―― ……ぐいっ!
腕を取られた瞬間。咄嗟に身構えてしまったら、多少強引に引っ張られ克己くんの傍へと引き寄せられる。体温がじわりと伝わってくる距離に、心臓がぎゅうっと悲鳴をあげた。
「ちょっと待てって! いい加減にしろよ」
「……何……?」
何をいい加減にすれば良いの? 私、間違えてない、よね。
私、今、凄く頑張っているのに、お願い、そっとしておいて。さっきからきりきりと胃の裏側上がりがきりきりと締め付けられていて、痛いの。痛くて痛くて、どうしようもないのだから、私のことは……
こっちを向けよと、顎に手を掛けられ視線が無理に絡む。泣いてない。ちゃんと我慢している。
そのはずなのに、視界は緩い。克己くんの顔がはっきりと見えない。なんとか堪えようと息を呑み、頬が紅潮してくるのを堪えようと必死になる。
「口……切れてる……?」
もっと他の事をいいたかったのかも知れないけれど、克己くんはそういって静かに顎にかかっていた指先が私の唇に触れ、つっとなぞる。克己くんの手のぬくもりが愛しい。心地良い。このまま触れて欲しいと思うけれどそんな自分はもういちゃいけない。
「大丈夫だよ。何でもないから。ほ、ほら、きっとあれだよ、乾燥してて割れちゃっただけ」
そっと克己くんの手を取り、私の顔から離してもらう。
ずきん……と胸が痛む。この手が恋しい。このまま頬を摺り寄せることが出来たらどんなに幸せだろう。
「―― ……そうか?」
「うん。そうだよ」
名残惜しい気持ちを堪えて、手を離す。
「ああーっと、その、何だかあいつ勘違いしてるみたいだから、ほんとに碧音さんは何も気にしなくて良いからな? 俺が何とか追い返すから」
「良いよ。大丈夫」
***
―― ……ん? 何が良いんだ? 何が、大丈夫?
碧音さんの様子がおかしいことは分かるけれど、この状況がおかしいのだから、妙でも当たり前だ。当たり前の筈なのに……物凄い違和感を覚える。
色々、女がらみの揉め事はこれまでもあったけど、なんていうか、碧音さんは落ち着きすぎだ。
「私なら、大丈夫だから。えーっと、その、うん。ちゃんと出てくし……。うん……うん……。大丈夫だから」
「碧音さん? 何が良くって、何が大丈夫で、何で出てくんだ?」
自分に言い聞かせるように、うん……うん……と一人頷きながら、視線を彷徨わせる碧音さんの肩を掴んで俺は聞き返した。
出て行く。
なんで碧音さんが出て行かないといけないんだ。
出て行くのは小雪のほうで、異物はあいつで、碧音さんじゃない。
―― ……俺を……置いていくのか……?
俺は、また、捨てられる。
ぎゅうぅっと身体が軋む。
反射的に碧音さんの肩を掴んで、顔を覗き込むが逡巡し逃げられる。
そして、俺の問いに答えるのが嫌なのか、下唇を噛み首を小さく振った。
―― ……ああ……
だから、唇が切れてたのか。ふと得心した。そんなことから、ふと碧音さんの癖を思い出して、心のどこかがちくりと痛んだ。
「私、わたしは……」
「―― ……うん?」
「私……知ってたのよ」
「何を?」
一度も顔をあげない。俺を見ない。それでも話したいことがあるなら、口にしても良いけど……声はかすれているし、ちらりと覗いている頬は、赤みが引いて青ざめている。
「小雪ちゃんのこと」
「は?」
「だから、克己くんには決まった相手が居ること、こんな日が来ること。どっちも分かってたの」
ぼそぼそと紡がれる台詞に、苛立ちが募る。
「誰がそんなこといったんだっ」
自然と語気に熱が篭る。
「それ、は……」
「誰だって聞いてるんだよ!!」
あまりのことに思わず声を荒げてしまった俺を、不安そうに見上げた碧音さんは首を横に振るだけで答えようとしなかった。
でも答えは出ている。
あのときだ……。間違えなくあの時、碧音さんの様子はおかしかった。
「橘だな。橘にあの時そういわれたんだな?! そうだろ?」
思わず強い口調でそういってしまった俺を見つめて首を縦に振りはしなかったが、大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の抑えきれなかった涙が溢れてきていた。
碧音さんはあの日からずっと、そんなことを、腹の底に抱えて……苦しんで……悩んで……どうして……どうし、て、
「何で今まで、黙ってたんだっ! 一言聞けば良いだけだろう! どういうことなのかって!! あんな奴のそんな言葉を信じるくらいだったら、一言訪ねるくらい造作もないことだろう!」
「―― ……だ……って……」
俺はそのことを聞き出せなかった自分にも腹がたって仕方なかったが、そのことを心の奥に閉まったまま、一人覚悟をしていたという碧音さんにも頭にきていて、荒立った言葉を抑えることが出来なかった。