―6―
***
碧音さんは一体何をどんな風にこいつから、聞いたんだ?
何もかも堪えたような顔をしている碧音さんの後姿を見送って、俺は大きく息を吐いた。正直、頭の中が混乱していて、どう整理をつけて良いか分からない。何から考えて何から処理すれば良いのか……さっぱりだ。
「克己さん? 聞いてます? わたしの話」
「ん? ああ。聞いてる。大学に受かったんだろう。そんなことより、暫らく泊まるってどういうことだよ」
とりあえず、目の前には小雪がいる。こいつの話を聞こう。
「はい。私が借りるようになってる、マンション。新築で、入居が少し先なんです。とはいっても一週間くらいなんですけど。でも、早く克己さんに会いたかったから、先に来たんです!」
―― ……来たんです……って……
そんなこと、何の予告もなしに突然やってきて……何を考えてるんだ。
「社長は知ってるのか?」
「ええ。克己さんのところなら、かまわないってお許しいただいてきました」
何考えてんだよ。
頼むから俺の許しも取ってくれ。
俺はあまりの脱力感に二の句が告げなかった。そして、力なくリビングのソファに身を沈め、長嘆息して頭を抱える。
「お電話おかけしたんですよ? 携帯の方に……でも、繋がらなかったし」
「あ? ああ。研修にでてたからな。私用のは持ってなかったんだ」
「そうだったんですか。でも、良かった。丁度お帰りになる日で。これは運命ですね」
―― ……何の運命だよ
そんな運命があるなら、運命の女神ごと追放してくれ。そんなもん、俺は微塵も小雪に感じてないから本当にマジで、そんなチワワみたいにきらきらと、自分の行ったことに酔いしれてる視線を投げてくるな。
ちらりと、小雪を見て改めて溜息を重ねる。
「もう、物凄く頑張ったんですよ。でも、入れたのは薬学部だったんですけどね。あ、学部は条件に入ってなかったから良いですよね」
「条件? 条件って、何の条件だよ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺に、小雪は少々むくれっつらをして、ひょいと正面に正座した。フローリングに正座は痛いだろうに。
「克己さんとの婚約ですよ」
―― ……は?
「克己さんいったじゃないですか、あっちを出るときに、同じ大学に入れたら考えても良いって。忘れたんですか?!」
「は? いや、忘れたとかそんなじゃなくって、お前……。そんなこと信じてたのか? ていうか、それなら、それで、今の状況見れば、わかるだろう?」
いや、分からなくても良いからある程度察してくれ。もんの凄く迷惑だ。迷惑千万だ。そんな俺の心中を察することなどなく。小雪はにこりと話を続ける。
「今の、状況?」
「そうだよ、今の状況だ」
「ああ。白羽さんのことですか? わたし気にしませんよ。ちょっとの浮気くらい。それに克己さん口癖みたいにいってたじゃないですか『誰にも本気になることはない』って」
だから、白羽さんのことも本気じゃないんでしょう? と何の毒を含むことなくあっさりと告げる小雪に胃の裏側あたりがきりきりと痛む。
「気に、しない……って……」
小雪が本当にさらりと簡単に流してしまうので、動揺しきってしまった俺は上手いこと言葉が出なかった。言葉に詰まった俺に助け舟なのか、どうなのか、こつこつと小さな音で壁を叩き廊下に立っていた碧音さんがにっこりと告げた。
「お風呂の準備も出来たよ? 克己くんも疲れてると思うけど、小雪ちゃんが先で構わないよね?」
「―― ……え、あ、ああ」
恐いくらいに普通の碧音さんに反射的に頷くと、小雪は俺と碧音さんの間で少しばかり遅疑逡巡したが「話す時間はまだあるよ」と付け加えた碧音さんの言葉に頷いて「分かりました」と立ち上がった。
それでもまだ少しだけその場を立ち去ることを迷っていた小雪を「早く行けよ」と追い立ててその後姿を見送った。
微かに聞こえるドアの開閉の音に、俺は、ふぅと嘆息する。やっと息が出来た気がした。
「お疲れ様」
そんな俺を見て、静かにそういった碧音さんのお疲れ様の矛先が分からない。
研修のことについていったのか、それとも小雪のことを指していったのか……出来れば後者で、大した事じゃないと、俺が何とかすると信じてくれていれば良いのだけど……。
そう、願ってしまうのは安気過ぎるだろうか。