―5―
「お久しぶりです。克己さん」
「は? 何でこんなとこに? 碧音さんは?」
俺を待ってる客っていうのは、小雪のことだったのか。
ああ。だから、碧音さんの様子がおかしかったわけか……。
また、何か勘違いでもしたんだろうな。いや、するなというほうが無理かもしれない。そう思うと苦い笑いがこみ上げてきて、とりあえず、荷物はそのまま玄関に放置して部屋に入った。その後ろを、ぱたぱたと小雪が追いかけてくる。
「克己さん、聞いてください! わたし、ちゃんと通ったんですよ。来週から克己さんと同じ大学に通えます」
「ああ、そうか。入学祝ならあとで、考えてやるから」
「えーっ、小雪そんなのいらないです」
「分かった分かった」
後ろで騒ぎ立てる小雪を殆ど無視して俺はダイニングに続くドアを開けた。碧音さんは多分小雪にでも出していたんだろう珈琲カップを片付けていた。
「おかえりなさい。克己くん」
「―― ……え、あ、ああ、えと、ただいま」
予想以上に落ち着いた物腰で俺を迎え入れた碧音さんに拍子抜けして、かけるはずの言葉が思い浮かばなかった。その代わりに出たような、条件反射はかなり間抜けだ。
「小雪ちゃんが、首を長くして待ってたよ。何か作ろうか? それとも何か飲む?」
「え、あ、いや。何も」
「そう? じゃあ、座ったら? 二人とも」
物凄い違和感を感じる。違和感を感じるのに、それを指摘させない威圧感があって俺は遅疑逡巡した。
***
―― ……普通に……普通に……普通に……
そうすることが、私の精一杯だった。
まだ、状況を把握しきれない克己くんは可愛らしく目を白黒とさせている。
何はともあれ、元気そうで良かった。
怪我はもちろんだけど、体調も悪くないようだし……少し、疲れてるみたいではあるけど……。
「えーっと、話す事もあるでしょう? 私、席外すね」
「別にかまわないから居ろよ」
「良いよ。私、明日も仕事だし。それに、小雪ちゃん暫らく泊まるらしいからベッド用意しておくよ」
私は、気丈に振舞えてると思う。ちゃんと普通に出来ているはずだ。お腹のそこの方で黒いものがぐるぐると渦巻いて鉛のように重く感じる。
でも、平気。
二人の前で、箍を外して泣いたりしない。
泣きそうになる必要なんてないのに、なんで私目の奥がこんなに熱いんだろう。
一分一秒でも早く。早く早く……この場を離れたかった。
だから、まだ、何かいいたそうな克己くんを半ば無視して、私は逃げるようにその場を後にした。
駆け出したいのを押さえて、いつも通りにゆっくりと歩く。
ゆっくりと歩いて、自然にドアのノブに手を掛けて開く……そして、
―― ……パタン……。
寝室のドアを閉める。
限界。
ずるずるずる……と、私は、扉を背に座り込んだ。膝に額を擦りつけて、息を殺す。気取られないようにこっそりと……音を出さないように……。
ぽたぽたぽたっ
溢れ出した涙は止まらなかった。
吐きそうなほど胃が痛かった。
息が止まりそうなほど苦しくて、肩を大きく揺らした。
―― ……泣いちゃ駄目、泣いちゃダメ、泣いちゃ、だ、め……
痛いくらい下唇を噛んで、零れてやまない涙を堪えようとした。
口の中に、血の味が広がり、ますます胃が疼く。
覚悟していた、分かっていたことだから。最小限の傷で済むように何度も何度もシュミレートしたはずだ。……確かに、そのどれも上手く行かなくて、毎回隣で眠る克己くんにすがり付いていたけれど……。
それにしても、こんなに早く来るなんて思わなかったな。
もっと、ずっと、あとで、もっとずっと……ずっと……大丈夫だと思った。
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