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明日の魚は、まだ海の中にいる

作者: 莉月 ノア
掲載日:2026/10/12

 どうせ死ぬのなら、海がいいと思っていた。


 どうして海なのかと尋ねられても、きっと私はうまく答えることができなかっただろうし、そもそも海辺で育ったわけでも、泳ぐことが得意だったわけでもない。


 これといって思い入れがあるような場所ではなかったはずなのに、人生の終わりというものを考えるたび、私の頭の中には決まって、どこまでも青い水が広がる景色が浮かぶようになっていた。


 大学の図書館実習で、一冊の絵本を読んだことがある。


 それは、亡くなったクジラが海の底へ沈んでいき、その大きな身体が長い年月をかけて、たくさんの生き物たちの命を支えていくというお話だった。


 クジラの身体には深い海に暮らす魚やカニが集まり、やがてお肉がなくなって骨だけになっても、小さな生き物たちが住みついて、別の命を育むために使われていくのだという。


 濃い藍色で描かれた海の底には、白いクジラの骨が静かに横たわっていて、その周りに散らばる小さな生き物たちの姿が、私には、夜空に瞬く星のように見えた。


 私は、その絵本が好きだった。


 亡くなってしまったクジラがかわいそうだとか、死後も身体を食べられてしまうなんて恐ろしいとか、そういうことはあまり考えなかった。


 むしろ、自分がこの世からいなくなっても、誰かのおなかを満たし、見ず知らずの命を支えることができるという、その不思議な仕組みに、何とも言えない安らぎを覚えたのだった。


 私もいつか、お魚のごはんになれたらいいな。


 そんなことを考えてしまったのは、たぶん、その頃から少しずつ、自分の生きている意味というものがわからなくなり始めていたからなのだと思う。


 もちろん、絵本を読んだ途端に死にたくなったわけではないし、それからもしばらくは、ごく普通に大学へ通い、友人とお昼ごはんを食べ、将来は図書館で働きたいという、子どもの頃から抱いていた夢のために勉強を続けていた。


 けれど、四年生になって就職活動が始まり、夢が何なのかわからなくなるうちに、私の中にあった何かが、少しずつ擦り減っていった。


 司書の募集は思っていたよりもずっと少なく、ようやく見つけた求人には驚くほどたくさんの応募者がいて、何度も試験を受け、面接の練習をし、志望動機を何度も書き直してみたところで、不採用を知らせる短いメールだけが届いた。


 ほかの仕事も探してみたけれど、その頃には、自分が何をしたいのかということ以前に、そもそも何ができる人間なのかさえわからなくなっていて、面接のたびに自分の長所を尋ねられることが、ひどく苦痛になっていた。


 朝、目が覚めても身体を起こせない日が増え、大学へ行こうと服を着替え、鞄の中に筆記用具を揃えても、玄関で靴を履いたまま動けなくなるようになった頃には、もう誰かに事情を説明する気力さえ残っていなかった。


 何よりもつらかったのは、大好きだった本が読めなくなったことだった。


 文字を目で追うことはできても、そこに書かれた文章が少しも頭に入ってこず、同じページを何度も読み返しているうちに疲れてしまうので、とうとう私は、本棚に並べた本の背表紙を見ることさえ避けるようになってしまった。


 本が好きで、本に関わる仕事がしたかったはずなのに、その本からさえも遠ざかっていく自分が情けなくて、何かをするたびに失敗し、何もしなければ何もしなかった自分を責めるという、出口の見えない時間だけが過ぎていった。


 そうして、ある日ふと、もう終わりにしてもいいのではないかと思った。


 大きな悲劇があったわけではないし、誰かにひどいことをされたわけでもない。ただ、明日も同じような朝が来て、同じように何もできない自分と向き合わなければならないのだと考えると、それがどうしようもなく恐ろしく、もう何も考えなくて済む場所へ行きたかった。


 最後に一度だけ、旅行をしよう。


 そう決めてから、私は地図を開き、なるべく遠くにある、まだ一度も訪れたことのない海辺の町を探し始めた。


 そして見つけたのが、汐町(うしおちょう)という小さな港町だった。


 汐町に到着したのは、十一月も半ばを過ぎた、よく晴れた日の午後三時頃だった。最寄り駅から何度か列車を乗り継ぎ、最後は一時間ほどバスに揺られて、ようやくこの小さな港町へ辿り着いた。


その町は、旅行案内の写真で見るよりもずっと小さく、どこか時間の流れから取り残されてしまったような、静かな場所だった。


 終点でバスを降りると、まず、潮の匂いがした。


 海の匂いというものには、もっと爽やかで心地よい印象を持っていたのだけれど、実際には、濡れた岩や海藻の匂いに魚の生臭さが混じり、さらに船の燃料らしい独特の臭気まで漂っていて、決して気持ちのよいものばかりではなかった。


 それでも、鼻の奥へ流れ込んでくるその空気を吸い込んだとき、私は、自分が本当に遠くまで来たのだということを、ようやく実感することができた。


 港へ続く坂道の脇には、青や緑の漁網が無造作に積み上げられ、色褪せた浮きや使い古された容器が並んでいて、その向こうには、白い船体をゆっくりと揺らす何隻もの漁船と、日の光を受けて鈍く輝く海面が広がっていた。


 空はあんなにも明るいのに、海の色は思っていたよりも暗く、岸辺から沖へ向かうにつれて青色が少しずつ深くなり、水平線の辺りでは、ほとんど黒に近い色に見えた。


 私はしばらく、その景色を眺めていた。


 この町へ来るのは初めてのはずなのに、不思議と懐かしい気持ちがして、どこか遠い昔から、私はこういう場所を探していたのかもしれないと思った。


「お嬢さん、旅行かい」


 不意に声をかけられて振り向くと、買い物袋を提げた小柄なおばあさんが立っていて、白い髪を後ろで小さく束ねたその人は、私の顔をじっと見つめてから、日に焼けた頬に深い皺を寄せて微笑んだ。


「はい。そうです」


「こんな時期に、珍しいねえ。夏なら海水浴に来る人もいるんだけど、今は何にもない町だから」


「そうなんですか。でも、私は海を見たくて来たので」


「そうかい。そりゃあ、海ならいくらでもあるよ」


 おばあさんはそう言って笑うと、私の足元に置かれた旅行鞄へ視線を落とし、泊まるところは決まっているのかと尋ねた。


「はい。民宿を予約していて、松枝(まつえ)さんという方のお宅なんですけど……」


「あらまあ、それ、うちだわ」


 思いがけない返事に驚いて顔を上げると、おばあさんは私の様子がおかしかったのか、今度は声を立てて笑い、それから、自分がその松枝だと名乗った。


「今日から二泊の、水野さんでしょう?」


「はい。水野澪(みずのみお)です。よろしくお願いします」


「澪ちゃんね。あたしは松枝。ちょうど買い物の帰りだから、一緒においで」


 松枝さんは私の返事を待たずに歩き出したので、私は慌てて旅行鞄を持ち上げ、その小さな背中を追いかけた。


 港から少し離れた坂道を上がっていくと、道の両側には古い民家が肩を寄せ合うように建ち並び、石垣の上には潮風に傷んだ植木鉢や、洗濯ばさみを留めたままの物干し竿が見えた。


 枝さんは途中ですれ違う人たちと親しげに挨拶を交わし、そのたびに私の方を振り返っては、ここは小さな町だから、知らない顔が歩いているとすぐに誰かが気づくのだと、おかしそうに話してくれた。


「遠くから来たの?」


「はい。電車を何度か乗り継いできました」


「大変だったでしょう。こんな田舎まで」


「いえ、楽しかったです。途中からずっと海が見えていたので」


「澪ちゃんは、海が好きなんだねえ」


 そう尋ねられ、私は少しだけ考えてから、たぶんそうなのだと思います、と答えた。


 自分でもずいぶん曖昧な返事だと思ったけれど、松枝さんはそれ以上尋ねず、ただ、そうかい、と言って笑った。


 案内された民宿は、港を見下ろす坂道の途中に建つ古い木造家屋で、玄関の脇には「潮の家」と書かれた小さな木の看板が掛けられ、その下では、ガラス製の浮き玉が二つ、風に吹かれて静かに揺れていた。


 二階の六畳間へ通されると、畳は少し日に焼けていたけれど、部屋の隅々まできれいに掃除されていて、窓の外には隣家の瓦屋根と、家々の隙間から覗く防波堤の先端が見えた。


「夕ごはんは六時半でいいかい。魚ばっかりだけど、平気?」


「はい。お魚は好きです」


「そりゃよかった。うちは魚しか取り柄がないからね」


 松枝さんは笑いながら、何かあったら下にいるから、と言い残して部屋を出ていった。


 襖が閉まると、私は窓際に腰を下ろし、旅行鞄の中から携帯電話を取り出した。


 画面には、三日前に友人から届いた『澪、最近どうしてる?』という短いメッセージと、昨日の夜に母から送られてきた『ちゃんとごはん食べてる?』という言葉が、未読のまま並んでいた。


 どちらも、私を責めているわけではない。


 それはわかっていたけれど、どうしても返事をする気にはなれず、私は携帯電話を伏せて、もう一度窓の外へ目を向けた。


 遠くから、海鳥の鳴き声が聞こえていた。


 あと二日。


 そう考えると、胸の奥にわずかな安堵が広がり、その一方で、せっかく遠くまで来たのだから、残りの時間くらいは穏やかに過ごしたいという、自分でも少し身勝手に思える願いが浮かんだ。


 夕食の時間になって階下へ降りると、食堂にはすでに料理が並べられていて、六人ほどが座れる大きな木のテーブルの上には、焼き魚と茄子の煮浸し、胡瓜の浅漬け、それから湯気の立つ白いごはんと、つみれの入ったお汁が置かれていた。


「今日は鯵だよ。今朝、うちの人が捕ってきたの」


 台所から顔を出した松枝さんは、つみれはイワシで作ったのだと教えてくれたあと、生姜を少し多めに入れてあるから、温かいうちに食べてね、と言い添えた。


 私は手を合わせ、いただきます、と小さく呟いてから、最初に鯵の身を箸でほぐした。


 薄い皮がぱりりと破れ、その下から現れた白い身には、焼きたての脂が細かく滲んでいて、口へ運ぶと香ばしい塩の味が舌に広がり、少し遅れて魚の柔らかな甘みが追いかけてきた。


 続けて白いごはんを食べると、鯵の塩気が米の甘さと混ざり合い、熱いつみれ汁をひと口飲めば、今度は生姜の香りが鼻の奥を通り抜けて、身体の内側からゆっくりと温まっていくような心地がした。


 おいしかった。


 思っていたよりも、ずっとおいしかった。


 私はいつの間にか夢中で箸を動かしていて、鯵の細かな骨を丁寧に取り除きながら身をほぐし、茄子を食べ、またごはんに箸を伸ばすということを繰り返しているうちに、大学のことも、就職活動のことも、自分がこの町へ来た本当の理由さえも、ほとんど忘れてしまっていた。


「おいしい?」


 顔を上げると、松枝さんが台所の入口に立っていて、私のお皿を見ながら、少し嬉しそうに微笑んでいた。


「はい。とってもおいしいです」


「そう、よかった。鯵はね、塩を振る時間とか、焼くときの火の当て方とか、ちょっとしたことでずいぶん味が変わるんだよ」


「そうなんですね。すごく上手に焼けていると思います」


「毎日やってるだけだよ。もう五十年も焼いてりゃ、嫌でも覚えるさ」


 松枝さんはそう言って笑い、空になりかけた私の茶碗を見ると、おかわりはどうかと尋ねてくれたので、私は少しだけ迷ってから、お願いします、と答えた。


 最近は、おなかがすいていても食べる気になれないことが多かったし、何を口にしても味がぼんやりとしているように感じていたのに、こうして知らない町で、初めて会った人の作ってくれたごはんをおいしいと思い、おかわりまで欲しくなっていることが、何だか不思議で仕方がなかった。


 私はもう死ぬつもりなのに、身体の方はそんなことを少しも知らないみたいだった。


 食事が終わる頃、玄関の引き戸が大きな音を立てて開き、ただいま、と低い声が聞こえたかと思うと、廊下から重たい足音が近づいてきた。


 現れたのは、背の高い、がっしりとした身体つきのおじいさんで、短く刈られた灰色の髪と深い皺の刻まれた顔には、長い年月を海の上で過ごしてきた人だけが持つような、日に焼けた色が残っていた。


「お客さんか」


「こんばんは。お世話になっています」


 立ち上がって頭を下げると、おじいさんは軽く頷いて、ゆっくりしていきな、とだけ言い、奥の部屋へ歩いていった。


「あれがうちの人。徳夫っていうんだけどね、愛想がなくてごめんね」


「いえ、とんでもないです」


「昔からああだから。若い頃なんか、もっと無口だったんだよ」


 松枝さんはおかしそうに笑い、徳夫さんが着替えて戻ってくると、何も言わずに別の茶碗へごはんをよそい、温め直したお汁と焼き魚を食卓へ運んだ。


 徳夫さんは黙って椅子に腰を下ろし、小さな声でいただきます、と言ってから箸を取ったけれど、その様子を見ていた私は、なぜだか、その何でもない仕草に目を奪われてしまった。


 二人は、明日の天気や魚の値段について短い言葉を交わし、時折、松枝さんが徳夫さんの言葉に不満そうな顔をして、それに徳夫さんが何も答えないままごはんを食べ続けるという、どこにでもありそうなやり取りを繰り返していた。


 けれど、その食卓には、互いの言葉を最後まで聞かなくても次に何をするのかわかっているような、長い年月を一緒に暮らしてきた人たちだけが持つ、静かな親しさが感じられた。


 私はそれを、少し羨ましく思った。


 ただ、その羨ましさが、夫婦という関係に向けられたものなのか、それとも、明日も明後日もこうしてごはんを食べることを、当たり前のように受け入れている二人の姿に向けられたものなのか、自分でもよくわからなかった。


   ◇


 翌朝、窓の外がまだ薄暗いうちに目を覚ますと、遠くから船のエンジンが唸る音が聞こえていて、その音に混じって海鳥の鋭い鳴き声が響き、しばらくすると、港の方角が少しずつ白み始めた。


 もう少し眠っていようかとも思ったけれど、不思議と目が冴えていたので、私は着替えて階下へ降り、台所で朝食の支度をしていた松枝さんに挨拶をした。


「あら、早いねえ。まだごはんまで時間があるよ」


「すみません、目が覚めてしまって」


「謝ることじゃないよ。そうだ、せっかくだから、港を見に行くかい。ちょうどうちの人が帰ってくる頃だから」


 私は少し驚いたけれど、魚が水揚げされるところを実際に見たことがなかったので、ぜひ見てみたいです、と答え、松枝さんと一緒に、朝の冷たい空気の中を歩いて港へ向かった。


 昨日の午後にはあれほど静かに見えた港が、今朝はまるで別の場所のようになっていて、何隻もの漁船が岸壁へ近づくたびに男の人たちの大きな声が飛び交い、濡れたコンクリートの上を台車が走り、魚を入れた容器が次々と運ばれていた。


 船の周りには海鳥が集まっていて、時折、こぼれ落ちた小魚を見つけると、我先にと降下しては、ほかの鳥に奪われまいと激しく羽ばたいている。


 魚の匂いは昨日よりもずっと濃く、足元の水たまりには銀色の鱗がいくつも浮かび、その上を長靴が通るたび、濁った水が細かく跳ねた。


 松枝さんが船の上にいる徳夫さんへ声をかけると、徳夫さんは顔を上げ、私たちを見つけて短く頷いたあと、邪魔にならないところにいなさい、と言って、また作業へ戻っていった。


 岸壁には、鯵やイワシ、細長い太刀魚など、いくつもの種類の魚が並べられていて、それぞれが違う色の鱗を朝日に光らせ、中にはまだ身体を動かしているものもいた。


 そのとき、近くの容器の中で何かが大きく跳ね、驚いて振り向くと、一尾の小さな魚が縁を越えて飛び出し、濡れたコンクリートの上で激しく身体を曲げていた。


 魚は何度も尾を打ちつけ、そのたびに小さな水音を立てていたけれど、近くで作業していた男の人がすぐに拾い上げ、手際よく容器へ戻してしまったので、その一連の出来事は、ほんの数秒ほどで終わってしまった。


 私は、さっきまで魚が跳ねていた場所を見つめた。


 そこにはもう何もなく、ただ、薄く赤みを帯びた水が、港の排水溝へ向かってゆっくりと流れていた。


「びっくりした?」


 松枝さんに声をかけられ、私は小さく頷いた。


「元気がいい魚は、よく飛び出すんだよ。油断してると、あっちこっちに跳ねていくからね」


 そう言って笑う松枝さんの声を聞きながら、私は、あの魚が何を求めて身体を動かしていたのだろうと考えた。


 水の中へ戻りたかったのだろうか。


 それとも、ただ、生きるために身体が動いていたのだろうか。


 どちらにしても、魚がそんなふうに動くことを知らないはずがないのに、実際に目の前で見ると、それまで知っていたものとはまるで違う光景のように思えた。


 しばらくすると、徳夫さんが大きな魚を一本、私たちのところへ持ってきた。


「今日はサワラがよかった」


「まあ、立派だねえ。これならいい値がつくんじゃない?」


「どうだかな。今年は魚が少ないからな」


 松枝さんは魚を受け取り、その重さを確かめるように両腕で抱えたあと、私の方へ向き直った。


「澪ちゃん、今晩はこれを食べさせてあげようかね」


 差し出されたサワラは、思っていたよりもずっと大きく、銀色の身体には青みがかった細かな模様が浮かび、尖った口元からは小さく鋭い歯が覗いていた。


「きれいなお魚ですね」


「そうでしょう。顔はちょっと怖いけどね、身はおいしいんだよ」


 松枝さんはそう言って笑い、魚を抱え直して歩き始めたので、私はもう一度だけ、岸壁に並んだ魚たちへ目を向けた。


 港では、誰も立ち止まることなく働き続けていた。


 魚を捕る人がいて、運ぶ人がいて、重さを量る人がいて、その魚を買う人がいる。


 生きている魚も、すでに動かなくなった魚も、同じように扱われていて、その光景の中には、特別な残酷さも、特別な優しさも見当たらなかった。


 ただ、みんなが忙しそうに働いていた。


 宿に戻り、朝食を終えたあと、松枝さんは台所でサワラを捌き始めた。


 大きなまな板の上に横たえられた魚は、港で見たときよりもいくらか小さく見えたけれど、それでも家庭用の包丁で扱うには十分すぎるほど立派な大きさで、松枝さんは慣れた手つきで身の状態を確かめると、迷うことなく刃を入れていった。


 包丁が魚の皮を切り開き、骨に沿って進んでいく様子は、どこか職人の仕事を見ているようでもあり、私は、これほど手際よく魚を捌く人を間近で見たことがなかったので、声をかけることさえ忘れて、その動きをじっと眺めていた。


「あら」


 松枝さんが小さく声を上げたので、私は何かあったのかと思い、まな板へ近づいた。


「これ、見てごらん」


 指差されたところには、取り出された内臓に混じって、小さな銀色のものが残っていて、よく見ると、それはほとんど形を失いかけた一尾の魚だった。


 細い尾びれと、小さな目。


 それだけが、かろうじて魚の姿を留めていた。


「……お魚ですか?」


「そう。サワラが食べたんだろうね。イワシかな」


 松枝さんは当たり前のことのように答え、もう一度包丁を手に取ろうとしたけれど、私はどうしても目を離すことができず、まな板の隅に残された小さな身体を見つめ続けていた。


 魚の中に、魚がいる。


 それ自体は何も不思議なことではないし、大きな魚が小さな魚を食べるということくらい、私だって知っていた。


 海の生き物について書かれた本を読んだこともあるし、食物連鎖という言葉なら、小学校の理科の授業で教わった頃から知っている。


 けれど、目の前にあるその小さな魚を見ていると、私が本の中で知っていた食物連鎖というものは、ひどく整った、きれいな仕組みだったのではないかと思えてきた。


 海の中には、小さな生き物(プランクトン)を食べる魚がいて、その魚をもっと大きな魚が食べ、さらに大きな生き物がそれを食べる。


 そうやって図にしてみれば、すべてが自然なことのように見える。


 けれど、この小さなイワシも、きっと少し前までは海の中を泳ぎ、何かを食べ、ほかの魚から逃げたり、群れの中で身体を寄せ合ったりしていたのだろう。


 その途中で、サワラに食べられた。


 そしてサワラもまた、今朝、徳夫さんたちに捕まった。


 もし私が今晩そのサワラを食べるのなら、私は、このイワシを食べたサワラを食べることになる。


 そんな当たり前のことが、急に恐ろしくなった。


「気持ち悪かった?」


 松枝さんに尋ねられ、私は慌てて首を横に振った。


「いえ、そういうわけではないんです。ただ……」


「ただ?」


「……お魚も、お魚を食べるんですね」


 口に出してから、ずいぶん間の抜けたことを言ってしまったと思ったけれど、松枝さんは笑うこともなく、そうだねえ、と頷いた。


「サワラなんか、よく小魚を食べるからね。おなかの中から出てくることも、珍しくないんだよ」


「このイワシも、何かを食べていたんでしょうか」


「そりゃあそうでしょう。何にも食べずに大きくなったわけじゃないもの」


 松枝さんはそう言うと、取り出した内臓を片づけ、魚の身を水で洗い始めたので、私は邪魔にならないように少し後ろへ下がりながら、もう一度、まな板の上のサワラを見つめた。


 私が絵本で読んだクジラは、亡くなったあと、たくさんの生き物の命を支えていた。


 そのことを、私は美しいと思った。


 けれど、目の前のサワラは、何かを養うためだけに生まれてきたわけではないし、食べられてしまったイワシだって、サワラのおなかを満たすために生まれてきたわけではない。


 どちらも、ただ生きていただけなのだと思う。


 そう考えると、あの絵本の中に描かれていた、星空のように美しい海底の景色が、少し違ったものに思えてきた。


 私は、亡くなったクジラの身体に集まる生き物たちの姿を、優しい命の循環として眺めていたけれど、そこに集まった生き物たちは、きっと、優しさのために食べているわけではない。


 みんな、おなかがすいているのだ。


 何かを食べなければ、生きていけないのだ。


 ただそれだけのことを、私は、今まで本当にはわかっていなかったのかもしれない。


 窓の外では、いつの間にか風が強くなっていて、庭先に吊るされた洗濯物が、乾いた音を立てながら大きく揺れていた。


   ◇


 午後になると、空はすっかり曇ってしまい、海の方角から吹きつける風には、朝よりもずっと冷たいものが混じるようになっていた。


 私は松枝さんに傘を借り、町を少し歩いてみることにしたのだけれど、港から続く通りには古い商店や食堂が点々と並んでいるばかりで、その半分ほどはシャッターを下ろし、営業している店にも、あまり人の姿は見えなかった。


 閉店した写真館の窓には、色褪せた家族写真が飾られたままになっていて、昔はきっと賑やかだったのだろうと思わせる小さな商店街には、海からの風が吹き抜ける音だけが響いていた。


 そんな通りを歩いているうちに、坂道の途中にある古い公民館の前で、「汐町立図書室」と書かれた木の札を見つけた。


 私は少し迷ってから、建物の中へ入った。


 扉を開けると、懐かしい紙の匂いがした。


 部屋の中には背の低い本棚がいくつか並び、その奥に小さな閲覧机が置かれていて、窓際では年配の男性が新聞を読み、受付の女性は、小さな子どもに絵本を渡しているところだった。


 蔵書はそれほど多くなく、背表紙が日に焼けた小説や、何度も借りられたらしい児童書、魚の調理法や釣りについて書かれた実用書などが、少し窮屈そうに棚へ収まっていたけれど、どの本にもきちんと分類のラベルが貼られ、古いものは丁寧に補修されていた。


 私は、しばらく本棚の間を歩いたあと、水産関係の本が並んだ棚から、一冊の魚類図鑑を抜き取った。


 ページをめくると、今朝見たばかりのサワラの写真が載っていたので、私は思わず手を止め、そこに書かれた生息域や食性についての説明を、ゆっくりと読み始めた。


 ほんの数行の文章だった。


 けれど、そこに書かれた言葉が、今朝の港の景色や、松枝さんのまな板の上に横たわっていた魚の姿と結びついたとき、私は久しぶりに、本を読むことが楽しいと思った。


 本を読む人は、必ずしも何かの答えを求めているわけではない。


 知らないことを知りたい人もいれば、自分と同じ気持ちの誰かを探している人もいて、ただ現実から少し離れたくて、物語の中へ逃げ込もうとする人だっている。


 私は、そのどれもが間違っていないと思っていた。


 それなのに、いつの間にか、自分自身が本から遠ざかってしまったことを、ひどく恥ずかしいことのように感じるようになっていた。


 司書になりたいのに、司書になれない。


 本が好きなのに、本を読めない。


 そんな自分には、もう何の価値もないような気がしていたけれど、この小さな図書室で魚の図鑑を眺めているあいだだけは、どうしてそんなに自分を責めていたのか、少しわからなくなった。


 図鑑を閉じ、元の場所へ戻すと、窓の外では灰色の雲が低く垂れ込め、遠くに見える海も、空と同じような色に沈んでいた。


 私はもう一度、本棚を見渡した。


 この町で暮らす人たちは、どんな本を読むのだろう。


 漁を終えた徳夫さんが、ここへ本を借りに来ることはあるのだろうか。


 松枝さんは、料理の本を読んだりするのだろうか。


 そんなことを考えていると、私は、あのクジラの絵本をもう一度読みたくなった。


 最後に読んだときと、同じ気持ちになるのだろうか。


 それとも、今なら少し違うものが見えるのだろうか。


 結局、私は何も借りずに図書室を出たけれど、外へ出る頃には雨が降り始めていて、傘を開くと、濡れた風が頬を冷たく撫でていった。


 夕方には雨脚が強くなり、海から吹きつける風が家の窓を大きく揺らすようになっていた。


 食堂へ降りると、松枝さんが今朝のサワラを照り焼きにしてくれていて、こんがりと焼けた皮目には甘辛いたれが艶やかに絡み、付け合わせの大根おろしと酢橘が、白い皿の上にきれいに添えられていた。


 おいしそうだった。


 けれど、私は箸を取ったまま、しばらく魚に手を伸ばすことができなかった。


 朝、まな板の上で見た小さなイワシの姿が、頭から離れなかったのである。


「どうしたの、澪ちゃん。おなか、すいてない?」


 松枝さんに尋ねられ、私は顔を上げた。


「いえ、すいてはいるんです」


「朝のお魚のこと、考えちゃった?」


 私は驚いてしまったけれど、松枝さんは私の様子を見て、何となく察していたらしかった。


「無理して食べなくてもいいんだよ」


「……でも、おいしそうなので、食べます」


 そう答えると、松枝さんは一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。


「なんだい。それなら食べればいいじゃない」


 その言い方がおかしくて、私もつられて笑ってしまい、少し肩の力が抜けたところで、ようやくサワラの身を箸でほぐした。


 口に運ぶと、柔らかな白い身がほろりと崩れ、香ばしく焼けた皮の脂と、醤油の香りを含んだ甘いたれが舌の上で混ざり合って、私は思わず目を細めた。


 とても、おいしかった。


 今朝、港で見たサワラを、私は食べている。


 その身体の中に、小さなイワシがいたことも知っているし、この魚が今朝まで生きていたということも、今までよりずっとはっきりと想像することができた。


 それでも、私はおいしいと思っている。


 そのことが、何とも言えず不思議だった。


「松枝さん」


「何?」


「お魚って、かわいそうだと思うことはありませんか」


 松枝さんは、少しだけ考えてから、あるよ、と答えた。


「……あるんですか」


「そりゃあね。まだ動いてる魚を見たら、かわいそうだなって思うこともあるよ。あたしだって、最初から平気だったわけじゃないし」


 松枝さんはそう言いながら、自分の湯呑みにお茶を注いだ。


「でも、うちの人は魚を捕って暮らしてるし、あたしもその魚を料理して、こうしてお客さんに食べてもらってるからね。かわいそうだからって、逃がすようなことはできないんだよ」


「……そうですよね」


「まあ、せめておいしくしようとは思うけどね」


「おいしく、ですか」


「そう。せっかく捕れたんだから、食べる人にはおいしいって思ってほしいじゃない」


 そう言って笑う松枝さんの顔を見ながら、私はもう一度、皿の上のサワラへ目を向けた。


 この魚は、自分が料理になるために生きていたわけではないし、私のおなかを満たすために捕まったわけでもないだろう。


 けれど、その身体を丁寧に捌き、味をつけ、火を通し、一皿の料理に仕上げた松枝さんの手間は、間違いなく私のためにかけられたものだった。


 魚の命が失われたということと、その魚をおいしく食べてもらいたいと願う人がいるということは、きっと、別々のことなのだと思う。


 それを一つのきれいな言葉で説明することは、私にはできなかった。


 ただ私は、朝見た魚の姿を思い出しながら、残さずに食べようと思った。


 そうして、夜になると風はいっそう強くなり、雨粒が窓を叩く音に混じって、遠くで大きな波が防波堤へぶつかるような、低く重たい音が聞こえてくるようになった。


 私は早めに布団へ入ったものの、窓が揺れるたびに目が覚めてしまい、結局、いつまで経っても眠ることができなかった。


 昼間まではあんなにも美しいと思っていた海が、今は、まるで別のものになってしまったようだった。


 あの暗闇の向こうでは、どれほど大きな波が立っているのだろう。


 その下には、どれほどたくさんの生き物が暮らしていて、こんな夜をどんなふうに過ごしているのだろう。


 亡くなったクジラが、ゆっくりと海の底へ沈んでいくとき、その身体には、たくさんの生き物が集まり、長い年月をかけて、その命の名残を食べていく。


 けれど、あの絵本には、クジラが生きていた頃のことは、あまり描かれていなかったように思う。


 どんな海を泳いでいたのか。


 何を食べ、どこで眠り、どんな景色を見ていたのか。


 こういう嵐の夜には、どうしていたのだろう。


 私は、そんなことを考えたことが、今まで一度もなかった。


 クジラが亡くなったあとの姿ばかりを、美しいと思っていたのである。


 そのことに気づいたとき、胸の奥に、説明のつかない寂しさが広がった。


 私は、あのクジラの何を知っていたのだろう。


 絵本に描かれた、静かな海底の景色だけを見て、亡くなったあとまで誰かの役に立てるなんて素敵だと、そんなふうに考えていたけれど、その前にクジラが過ごした途方もなく長い時間のことを、私は少しも想像していなかったのかもしれない。


 窓が大きな音を立てた。


 私は思わず身体を起こし、暗い部屋の中で、しばらく動けなくなった。


 急に、怖くなったのだった。


 海が怖いのか、自分がこれからしようとしていることが怖いのか、それとも、もう二度と昨日の夕食を食べたり、今朝のような港の景色を見たりすることができなくなるのが怖いのか、自分でもよくわからなかった。


 ただ、どうしようもなく心細くなって、私は布団から出ると、部屋の明かりをつけ、誰かの声を聞きたいという気持ちに逆らえないまま、静かに階下へ降りていった。


 食堂には、まだ明かりがついていた。


 台所では松枝さんが大きな鍋を火にかけていて、私に気づくと、こんな時間まで起きていたのかと驚いたように眉を上げた。


「眠れないの?」


「はい。風がすごくて……」


「そうだねえ。海が荒れると、ここはうるさいからね」


 松枝さんはそう言って鍋の蓋を開け、ちょうどよかった、お汁を飲むかい、と尋ねてくれたので、私は少し迷ってから、いただきます、と答えた。


 運ばれてきたのは、透明なお汁に柔らかく煮えた大根が入った、小さなお椀だった。


 そっと口をつけると、控えめな塩味の奥から魚の旨みがじんわりと広がり、湯気と一緒に立ち上る生姜の香りが、冷えていた身体を内側から温めてくれるように感じられた。


「おいしいです」


「そう、よかった。明日の朝に出そうと思って、魚のアラを煮てたんだよ」


「これも、サワラですか?」


「そうだよ。身は夕ごはんに使ったからね。残った頭と骨で、お出汁を取ったんだよ」


 私は、お椀の中を覗き込んだ。


 今朝、港で見たサワラは、夕食には照り焼きになり、今はその骨から取られたお出汁が、こうして私のお椀の中に入っている。


 魚の身体が少しずつ形を変え、そのたびに違う味となって、自分の中へ入ってくる。


 そんなことを考えながらお椀を両手で包むと、指先から伝わる温かさがひどく心地よくて、私はしばらく、そのまま動けなかった。


「松枝さん」


「何?」


「海って、怖いですね」


 松枝さんは、少しだけ窓の方へ顔を向けた。


「そうだねえ」


「毎日、こんな海のそばで暮らしていて、怖くないんですか」


「怖いよ。うちの人が海に出てるときなんか、今でも風が強くなると落ち着かないもの」


「でも、ずっとここに住んでいらっしゃるんですよね」


「そうだね。もう五十年以上になるね」


「……すごいですね」


「何が?」


「そんなに長いあいだ、怖いと思いながら暮らしていらっしゃることが」


 私がそう言うと、松枝さんは少し驚いたような顔をして、それから、何がおかしいのか、困ったように笑った。


「別に、すごいことなんかないよ。若い頃はね、こんな町、出ていきたいって何度も思ったものだよ」


「そうなんですか?」


「そう。冬は寒いし、風は強いし、魚が捕れなきゃお金もない。うちの人は海のことばっかりで、家のことなんか何にもわからないしね。漁師の家なんかに嫁ぐんじゃなかったって、何度思ったことか」


 松枝さんは、昔のことを思い出したのか、少し懐かしそうに笑った。


「じゃあ、どうして……」


 そこまで言って、私は口をつぐんだ。


 どうして、ここにいるんですか。


 そう尋ねようとしたのだけれど、何だかその質問が、自分自身にも向けられているような気がしたのだった。


 松枝さんは、私が言葉を探しているあいだ、しばらく黙っていたけれど、やがて、さあねえ、と呟いて、お茶をひと口飲んだ。


「気がついたら、こんな歳になってたよ」


 その言葉は、何かを教えようとしているようには聞こえなかった。


 ただ、本当に、そうだったのだと思う。


 朝起きて、ごはんを作り、洗濯をして、海に出た夫の帰りを待ち、また次の日の朝を迎えるということを、何十年も繰り返して、松枝さんは歳を取ったのだろう。


 その中には、楽しい日もあったはずだし、悲しい日も、もう何もかも嫌になってしまうような日だって、きっとあったのだと思う。


 けれど松枝さんは、その全部を詳しく話すこともなく、ただ、少し冷めかけたお茶を飲んでいた。


「……私、明日帰るんです」


「そうだったね」


「はい」


「またおいで。何にもない町だけど」


 私は、返事ができなかった。


 また来るつもりはなかった。


 ここに来た時、私は、もう死ぬつもりだった。


 けれど、この古い食堂も、松枝さんの作るごはんも、朝の港も、もう二度と見ることはないのだと考えた途端、胸の奥に、ひどく冷たいものが広がった。


 そのために、ここまで来たのに。


 それなのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。


「澪ちゃん?」


 顔を上げると、松枝さんが私を見ていた。


「どうしたの?」


 私は口を開いたけれど、すぐには何も言うことができなかった。


 この旅が最後の旅行になるはずだったことも、もう生きていたくないと思っていることも、自分には何もできなくて、誰の役にも立てなくて、これ以上生きていても迷惑をかけるだけだと思っていたことも、どこから話せばいいのかわからなかった。


 今日初めて会ったような人に、そんなことを打ち明けていいのだろうか。


 そう考えているうちに、ますます言葉が出なくなり、私はお椀を両手で握りしめたまま、俯いてしまった。


 松枝さんは何も言わなかった。


 ただ、私のお椀が空になっていることに気づくと、もう少し飲むかい、と尋ねてくれた。


 その声が、あまりにも普段どおりだったので、私はとうとう泣いてしまった。


「……すみません」


「あらあら」


「すみません、私……」


 何かを話そうとするたび、喉の奥が詰まってしまい、声がうまく出なくなったけれど、松枝さんは私を急かすことも、理由を問いただすこともせず、ただ隣の椅子に腰を下ろして、静かに待っていてくれた。


 しばらくして、少しずつ呼吸が落ち着いてくると、私は途切れ途切れに、自分のことを話し始めた。


 大学へ行けなくなったことや、就職活動がうまくいかなかったこと、本を読むことさえ難しくなってしまったこと、それから、誰かに心配されるたびに申し訳なくなって、とうとう何も話せなくなってしまったことを、順番も考えずに話した。


 松枝さんは、時折小さく頷くばかりで、途中で口を挟むことはなかった。


「……私、もう生きていたくなかったんです」


 ようやくその言葉を口にしたとき、私は自分の声がひどく小さくなっていることに気づいた。


「それで、最後に旅行をしようと思って……」


 松枝さんは、黙って聞いていた。


「昨日、ごはんをいただいたとき、すごくおいしくて……今日も、お魚を見て、いろんなことを考えたんですけど、何だか、自分でもよくわからなくなってしまって……」


 私は涙を拭いながら、何とか言葉を続けた。


「私、クジラの絵本が好きだったんです」


「クジラ?」


「はい。亡くなったクジラが、海の底で、たくさんの生き物たちのごはんになるお話で……その絵本を読んでから、私もいつか、そうなれたらいいなって思っていたんです」


 口に出してみると、それはひどく幼稚で、身勝手な願いのように思えた。


 二十二歳にもなって、絵本で読んだクジラのようになりたいなんて、普通の人が聞いたら、きっとおかしなことだと思うだろう。


 けれど、松枝さんは笑わなかった。


 ただ、しばらく考えるように俯いてから、小さな声で、そうかい、と答えた。


「そんなに苦しかったんだね」


 その言葉を聞いた瞬間、私はまた泣いてしまった。


 何かを教えてもらったわけでも、励ましてもらったわけでもないのに、自分の苦しさを、初めて誰かがそのまま受け取ってくれたような気がしたのだった。


 長い時間が過ぎた。


 やがて松枝さんは立ち上がり、鍋に残っていたお汁をもう一度温め直すと、私の前に新しいお椀を置いた。


「澪ちゃん」


「……はい」


「あたしはね、難しいことはよくわからないんだよ。大学のことも、今の若い人の仕事のことも、あんまり知らないから、何て言えばいいのか、正直わからないんだけどね」


 松枝さんは、そこで一度言葉を切った。


「でも、あんたがそんな気持ちでここに来たって聞いたら、何もしないで帰すわけにはいかないよ」


 私は顔を上げた。


「帰ったら、ちゃんと誰かに話しなさい。お母さんでも、学校の先生でも、お医者さんでもいいから、ひとりで抱えなくていいように、助けてもらいなさい」


「……はい」


「今夜だって、ひとりでいるのがつらかったら、ここにいればいいんだから。あたしはまだ起きてるよ」


 私は小さく頷き、お椀を両手で包んだ。


 温かかった。


 このお汁は、今朝まで海を泳いでいた魚の骨から作られたもので、その魚がどんなふうに生きていたのか、私は何も知らない。


 それでも、松枝さんはその骨を丁寧に煮て、大根を加え、味を調え、こうして私の前に置いてくれた。


 私は、ゆっくりとお汁を飲んだ。


 魚の旨みが、舌の上に広がった。


 生姜の香りが、鼻の奥を抜けていった。


「それにしても、クジラの絵本かい」


 松枝さんが、少し不思議そうに言った。


「はい」


「変わったお話だねえ。あんな大きなクジラが海の底へ沈んだら、ずいぶんたくさんの生き物が集まるんだろうね」


「そうみたいです。小さなお魚やカニ、それから、骨を食べる生き物もいるそうなんです」


「へえ、骨まで食べるのかい」


 松枝さんは感心したように頷いたあと、窓の外で激しく揺れる雨を眺めながら、ぽつりと言った。


「海の底でも、みんなおなかをすかせてるんだねえ」


 私は顔を上げた。


 松枝さんは、何か特別なことを言ったつもりはないらしく、ただ、不思議そうに微笑んでいた。


 海の底でも、みんなおなかをすかせている。


 私はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。


 それは、あまりにも当たり前のことだった。


 魚も、鳥も、人間も、おなかがすけば何かを食べようとするし、食べなければ生きていけないのだから、海の底にいる生き物たちだって、きっと同じように何かを探しながら、今日という日を過ごしているのだろう。


 私は今まで、亡くなったクジラの身体が誰かのごはんになるということばかりを考えていたけれど、そのごはんを求める生き物たちが、今日も明日も生きていかなければならないということには、ほとんど思い至らなかった。


 それが、なぜだか、とても不思議だった。


 あの絵本に描かれたクジラだって、亡くなるまではずっと、何かを食べながら生きていたはずなのに。


 私は、もう一度お汁を飲んだ。


 外では雨が降り続いていて、海の方角からは、相変わらず大きな波の音が響いていた。


 明日が来ることは、まだ怖かった。


 家へ帰れば、大学のことも、就職活動のことも、何一つ解決していないままで、朝起きられない日も、本を読めない日も、きっとまた訪れるのだろう。


 それでも私は、今夜だけはもう少し、ここにいたいと思った。


 松枝さんと一緒に、温かいお汁を飲んでいたかった。


   ◇


 翌朝、雨は上がっていた。


 けれど、風はまだ強く、窓の外に見える海には白い波がいくつも立っていて、遠くの防波堤では、ときおり砕けた波が細かな飛沫となって舞い上がっていた。


 昨夜は、結局遅くまで松枝さんと話をしていた。


 海のこと、魚のこと、民宿のこと、それから松枝さんが若い頃、都会へ行ってみたかったことや、徳夫さんと結婚したばかりの頃、魚を上手に捌くことができずに苦労したことも聞いた。


 特別な出来事があったわけではない。


 けれど、そのどれもが、私には面白かった。


 朝食を終えて庭へ出ると、徳夫さんが漁網の修理をしていて、地面に大きく広げた網の傷んだところを一つずつ確かめながら、太い指で糸を通していた。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


「今日は、海へ出ないんですか?」


「この風じゃ無理だな。無理して船を壊したら、元も子もない」


 徳夫さんはそう言って、また網へ目を戻した。


 私は少し離れたところにしゃがみ、しばらくその作業を眺めていたのだけれど、破れた網の目を一つずつ拾い、そこに新しい糸を通して結び直していくという作業は、見た目以上に根気のいるものらしく、徳夫さんは同じ動作を何度も繰り返しながら、黙々と手を動かしていた。


「網って、よく破れるんですか?」


「そりゃ破れるさ。魚が暴れるし、海の底にも引っかかる。使ってりゃ、どこかしら傷むもんだよ」


「大変ですね」


「まあ、仕事だからな」


 徳夫さんは短く答え、少しだけ指の動きを止めると、手元の結び目を確かめてから、また次の場所へ糸を通し始めた。


 網には、ところどころ色の違う糸が混ざっていて、古い部分と新しく結び直された部分が入り交じり、何度も修理を重ねてきたことが、見ただけでわかるようになっていた。


 どれほど丁寧に直しても、また海へ出れば、どこかが破れるのだろう。


 そして、破れたら、また直すのだろう。


 私は、そんなことを考えながら、徳夫さんの手元を眺めていた。


「明日は、出られるんですか?」


「天気次第だな。風が落ち着けば、出られるだろ」


 そう言うと、徳夫さんは少しだけ口元を緩めた。


「明日の魚は、まだ海にいるからな」


 そう言って、また網を結び始めた。


 私はその言葉を、しばらく考えていた。


 明日、どんな魚が捕れるのか。


 何匹捕れるのか。


 そもそも船を出すことができるのかさえ、まだわからない。


 それでも徳夫さんは、こうして網を直している。


 明日、海へ出られるかもしれないから。


 私は、破れた網の目が少しずつ元の形に戻っていくのを眺めながら、昨日までの自分のことを考えていた。


 私は、明日も何もできなかったらどうしようということばかりを考えていて、明日には何かができるかもしれないということを、いつの間にか、まったく考えなくなっていた。


 もちろん、明日になっても、何もできないかもしれない。


 朝起きられないかもしれないし、大学へ行けないかもしれない。


 それでも、まだ明日になっていないのだから、何が起こるのか、本当のところは誰にもわからないのだろう。


 そう考えると、胸の奥に、ほんの少しだけ、今までとは違うものが生まれたような気がした。


 その気持ちは、たぶん希望だった。何の根拠もないけれど、明日を頑張ってみようと思える、そんな気持ちだった。


 私は部屋へ戻り、旅行鞄に着替えを詰め直してから、忘れ物がないことを何度も確かめ、最後に窓を開けて、家々の隙間から見える海を眺めた。


 帰りのバスは、午後二時半に来る予定だった。


 来たときには、もう使うことのないものばかりだと思っていた荷物が、今は、家へ帰るための荷物になっている。


 それが、何とも不思議だった。


 階下へ降りると、松枝さんが台所で何かを包んでいて、私の姿を見ると、ちょうどよかった、と言いながら、小さな布包みを差し出した。


「これ、持っていきな」


「お弁当ですか?」


「そう。帰りも長いんでしょう。途中でおなかがすくだろうと思ってね」


「えっ、でも、そんな……」


「いいから、持っていきなさい。昨日の魚の残りで作ったものだから、たいしたもんじゃないけど」


 受け取ったお弁当には、まだほんの少しだけ温かさが残っていて、その小さな重みが、何だかとても嬉しかった。


「ありがとうございます」


「電車の中で食べるといいよ。あんまり長く持ち歩かないでね」


「はい。大切にいただきます」


「そんな大げさなもんじゃないよ」


 松枝さんはおかしそうに笑った。


 私はお弁当を鞄へしまい、改めて頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


「そんなにかしこまらなくていいよ。また遊びにおいで」


「……はい」


「今度は、もうちょっと暖かい時期がいいね。春なんか、鯛もおいしいし、山菜も出るし、うちの人も冬より機嫌がいいからね」


 その言い方がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。


 春はもうすこしだけ先の季節だ。


 今までの私には、そんな先のことを考える余裕などなかったし、そもそも自分が春を迎えるということ自体、あまり想像できなくなっていた。


 けれど、春になれば、きっとこの町の海にも今とは違う魚がやってきて、港にはまた朝早くから漁船が戻り、松枝さんは、その魚を捌いて料理を作っているのだろう。


 私は、そんな景色を見てみたいと思った。


「……また、来てもいいですか」


 そう尋ねると、松枝さんは一瞬きょとんとした顔をして、それから、当たり前じゃない、と笑った。


「民宿なんだから、お客さんが来なきゃ困るよ」


 私は、また笑った。


 そして今度は、本当に、もう一度この町へ来たいと思った。


   ◇


 バスの窓から見える港は、昨日よりもずっと荒れていて、防波堤の外には白い波が何本も立ち、その向こうに広がる海は、雲の隙間から差し込む日の光を受けて、ところどころ銀色に輝いていた。


 私は、海が見えなくなるまで、ずっとその景色を眺めていた。


 海は、思っていたよりも怖い場所だった。


 小さな魚を大きな魚が食べ、その魚をさらに大きな生き物が食べ、鳥も人間も、みんな何かを食べながら生きている。


 そこには、私が絵本の中で見つけたような美しい景色だけがあるわけではなく、飢えも、恐ろしさも、理不尽な出来事も、きっと数えきれないほどあるのだろう。


 けれど、それを知ったからといって、私は海を嫌いになったわけではなかった。


 むしろ、今までよりも少しだけ、海のことを知りたいと思うようになっていた。


 私は鞄から携帯電話を取り出して、ずっと返事をしていなかったメッセージを開いた。


『澪、最近どうしてる?』


 その短い文章を眺めながら、何度か文字を打っては消し、ようやく、連絡できなくてごめんね、と書くことができた。


 それから少し迷って、最近はあまり元気ではなかったことと、もしよかったら、今度少し話を聞いてほしいということを書き添え、送信ボタンを押した。


 それだけのことなのに、心臓がひどく速くなった。


 迷惑だと思われたらどうしようとか、今さら連絡しても困らせてしまうのではないかとか、そんな考えばかりが次々に浮かんできたけれど、もう送ってしまったものは仕方がないのだと思い、私は携帯電話を鞄にしまった。


 それから、大学のことを考えた。


 休んでいた授業のことや、提出していない課題のこと、進路のこと、それから、ずっと連絡を避けていた先生たちのこと。


 どれも、すぐに解決できるようなことではなかったし、家へ帰れば、きっとまた怖くなってしまうのだろうと思った。


 それでも、誰かに話してみようという気持ちが、まだ消えずに残っていた。


 私はもう一度携帯電話を取り出し、大学のホームページから学生相談室の案内を探した。


 何度かページを行き来して、ようやく予約の方法を見つけると、相談したい内容を入力する欄に、大学へ通うのが難しくなっていることや、将来のことを考えると怖くなること、それから、死にたいと思ってしまうことがあるということを、時間をかけて書き込んでいった。


 最後に、何とかしたいと思っています、と書いたとき、私は少しだけ驚いた。


 そんなふうに考える自分が、まだ残っていたのだ。


 私は予約を送信し、受付が完了したことを知らせる短い文章を、しばらく眺めていた。


 何かが劇的に変わったわけではなかった。


 相変わらず怖かったし、明日になれば、また大学へ行くことができず、ひとりで泣いてしまうかもしれない。


 けれど、今夜は家に帰ろうと思った。


 帰って、お風呂に入って、きちんと眠ろう。


 明日、大学へ行けなかったら、そのときはまた、誰かに相談してみよう。


 そうやって考えていけば、少しずつでも、何かが変わっていくのかもしれない。


 そうして、列車に乗り換えた頃には、すっかりおなかがすいていた。


 窓際の席へ腰を下ろし、松枝さんからもらったお弁当を取り出して布を解くと、中には小さなおにぎりが二つと、甘い卵焼き、それから魚の身をほぐして甘辛く煮たものが、隙間なく詰められていた。


 おにぎりを包んだ海苔は少ししんなりしていて、卵焼きの端には、小さな焦げ目が残っていた。


 私は手を合わせ、いただきます、と小さく呟いてから、おにぎりをひと口食べた。


 冷めたごはんは、炊きたてのものとは違う甘さがあって、少しだけ強く握られた部分が口の中でゆっくりとほぐれ、卵焼きには思っていたよりもしっかりとした甘さがあり、魚の身からは、生姜と醤油の懐かしい香りがした。


 やっぱり、おいしかった。


 私は窓の外を流れていく景色を眺めながら、ゆっくりと食べた。


 やがて列車は海岸線を離れ、山の間を走るようになり、窓の外からは、あんなにも広く見えていた海が、いつの間にかすっかり消えてしまっていた。


 それでも、私は不思議と寂しくなかった。


 あの絵本のクジラも、生きていた頃は、きっと毎日おなかをすかせていたのだろう。


 広い海を泳ぎ、何かを食べ、眠り、また泳いで、そんなことを何度も何度も繰り返しながら、長い時間を過ごしていたのだと思う。


 その途中には、穏やかな日もあれば、嵐の日もあったはずだし、おなかがいっぱいになる日も、なかなか食べ物が見つからない日もあったのかもしれない。


 この旅で、私はそういった生活の部分を、今までほとんど考えたことがなかったことに気付かされた。亡くなったあとの姿ばかりを、美しいと思っていた。


 けれど、海の底へ沈んでいくまでに、あのクジラはどれほどたくさんの景色を見て、どれほど遠くまで泳ぎ、どれほどたくさんのものを食べてきたのだろう。


 私自身もどうやって生活をしているのか、一度考えてみるべきだったのだ。今はそのことについてもしっかり知りたいと思っている。食事がのどを通らなかったときは、それが命だったことなんて、わざわざ考えなかった。


 そして、この経験をもとに、もし司書になれたなら、あの絵本を誰かに紹介してみたい。


 亡くなったクジラが、海の底でたくさんの生き物たちの命を支えるお話。


 きっと、読む人によって感じることは違うだろうし、悲しいと思う人もいれば、怖いと思う人も、私のように美しいと思う人もいるのだろう。


 それでいいのだと思った。


 私はお弁当の最後のおにぎりを食べ終え、空になった箱を布で包み直してから、鞄の中へしまった。


 窓の外には、夕暮れの山並みが続いていた。


 そのとき、携帯電話が小さく震えた。


 友人からの返事だった。


『もちろん。話そう。いつでもいいよ』


 私はその短い文章を何度も読み返し、少しだけ涙が出そうになったけれど、今度は泣かずに、ありがとう、明日少しだけ電話してもいいかな、と返事を打った。


 送信してから顔を上げると、窓の向こうには、夕焼けに染まった空が山の向こうまで続いていて、遠くの雲が、ゆっくりと赤い色を失い始めていた。


 明日。


 その言葉を、私は久しぶりに、少しだけ穏やかな気持ちで考えていた。


 未来のことは、まだ何もわからない。


 大学へ行けるかどうかも、誰かとちゃんと話せるかどうかも、もう一度本を好きになれるかどうかも、今の私にはわからないままだった。


 けれど、明日の魚が、まだ海にいるように、私の明日も、きっとまだ決まりきっていない。


 私は窓に映る自分の顔を見つめた。


 少し疲れていて、目の周りが赤くなっていたけれど、その顔を見ても、前ほど嫌な気持ちにはならなかった。


 列車が、小さく揺れた。


 私は座席に深く腰を下ろし、目を閉じた。


 今夜は、何を食べよう。


 そんなことを考えた。


 松枝さんの作ってくれたごはんほど、おいしいものは食べられないかもしれないけれど、できれば何か、温かいものが食べたかった。


 お味噌汁でも作ろうか。


 そういえば、冷蔵庫には大根が少し残っていたような気がするし、帰り道にお豆腐を買っていけば、それだけでも十分、おいしいお味噌汁になるだろう。


 そんな何でもないことを一つずつ考えているうちに、私は、明日の朝も何か温かいものを食べられたらいいなと思うようになっていた。


 列車は、ゆっくりと夕暮れの中を走っていた。


 私はもう一度、窓の外へ目を向けた。


 遠くの山々が少しずつ夜の色へ沈んでいくのを眺めながら、明日もきっと、おなかがすくのだろうと思った。


 そのことが、今は少しだけ、嬉しかった。

【参考文献】

江口絵理(文)・かわさきしゅんいち(絵)・藤原義弘(監修)『クジラがしんだら』童心社、2024年。

ISBN:978-4-494-01599-3

本作に登場する絵本の描写は、上記作品を参考にしています。

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考えたことをペラペラ綴ります。 現代で生きる中では、生きるとか死ぬとか考えずにいられる方が幸せだなぁと時々思うのです。多くの人は多少状況が追い詰められても死のうなんて発想にはならないと聞きますし、命を…
感銘を受けました。 ボクも同じ鯨の絵本を読んだことがあります。 でも、生きている間のことは考えたことはなかったです。 ボク達は他の命を踏み潰して生きている。 よだかの星のような世界観でとても面白かった…
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