追放で娘の席と名を奪われた母ですが、保証の一行を消しただけで、組合は詫びを寄越すことになりました
ネリアの指先が、札の角で止まった。
名を呼ばれれば、その札を取る。三年修業した者が見習いへ上がる朝には、それだけでよかった。母として、私はこの朝を三年ぶんかけて待っていた。けれど登録官マルクの指は次の行へ進まず、ベルン様の太い爪が名簿の上へ割り込んだ。
「待ちなさい。これは認められません」
ネリアの名だけを、爪先で二度叩く。同じ頁にはベルン様の工房名があり、その下の保証欄には私の名があったが、指はどちらにも触れなかった。
長机の向こうでは、ベルン一門の工房主たちが椅子を鳴らした。ベルン様はその顔を順に見て、最後にネリアへ顎を向けた。
「この娘を見習いへ上げれば、何を織っても母親の働きだと言われる。本人のためにもならんでしょう」
「この布は、私が——」
「三年いたことは承知している。だが三年置かれた理由が腕だとは限らない」
ネリアの言葉へ、次の言葉、その次の言葉まで重ねる。指先は札に触れたままだった。薄い木札の下で、机の木目が一本隠れている。
私は膝の上の書類を取り上げ、端を親指で押した。上と下を揃え、名簿へ目を戻した。
「母親の口利きは要りません」
ベルン様は、部屋の隅まで届く声で言った。
「これからは腕だけを見ます。身内の名で札を得るようなことがあっては、組合の信用に関わる。マルク殿、その名を削っていただきたい」
工房主たちはベルン様を見た。一人が先に顎を引き、残りもそれに続いた。ネリアの織った布を見た者も、見ていない者も、同じ深さだった。
マルクはネリアにも、ベルン様にも問い返さなかった。定規を名簿へ当て、細い線を引いた。黒い線はネリアの名を端から端まで通り抜け、まだ乾いていない最後の一画だけを少し滲ませた。
「見習い札は交付しません」
札を持つ係の手が下がる。けれどネリアの指は、その角から離れなかった。取れない札を取り上げる者も、まだいなかった。
「棚の順は、名を書いた者が決めます」
マルクは次の確認へ進んだ。毎季と変わらぬ声だった。
「入口から三番目はベルン様一門です。保証済みの品から帳合を行います」
「うむ。こちらは例年どおりで」
ベルン様の爪が、自家工房の行を越えて机を叩く。保証欄の私の名は、彼の指一本ぶん下に残っていた。
窓際にいたノアさんが、そこで初めて動いた。名簿ではなく、壁に掛けられた一枚へ近づく。ネリアが昇格の審査に出した、灰青の地へ細い銀糸を渡した反物だった。
ノアさんは布端を裏返し、耳の揃いを見た。糸の継ぎ目を探す指が、半ばまで進んで止まる。
「これは、あなたが織ったのですね」
問いはネリアへ向けられた。ベルン様は椅子の背へ体を預け、返事を待たずに鼻から息を出した。
「母親が整えた糸を使っています。布だけ見ても、公平には——」
「ネリアさん」
ノアさんはベルン様を見なかった。
「では、私の工房で織ってください」
ネリアの唇が開き、閉じた。ノアさんは返事を重ねて求めず、灰青の布から手を離した。
ベルン様が椅子を引いた。
「話は済みましたな。次へ進めてください」
マルクが頁を押さえ直す。ネリアの名を横切る線だけが、まだ光を返していた。
私は膝の書類を机へ置いた。
「ベルン様、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです、セレナ様」
先ほどまで部屋の隅へ届いていた声が、長机の内側へ戻った。私の名が出るときには敬称も戻る。取り落とさずに済む、親切な変化だった。
「娘が私の働きで三年置かれ、私の名で札を得ようとした。そうお考えなのですね」
「そこまで断じてはおりません。ただ、疑念を残さぬためには、いったん名簿から外すのが最善でしょう。実力があれば、いずれ——」
「いずれ、誰の保証で戻すおつもりですか」
ベルン様の指が止まった。自家工房の名まであと二行、私の保証まであと三行のところだった。
「それは今後の働きによります。セレナ様にも、組合の信用を守る判断だとご理解いただきたい」
「娘だけでなく、私の口利きも不要ということですね」
「ですから、セレナ様のこれまでのお働きを否定するものではありません」
「不要かどうかを伺っています」
椅子の脚が一つ、床を擦った。工房主たちはベルン様へ向けていた顔を、名簿へ落とした。
「ええ。今後の昇格には、です。セレナ様のお立場とは切り分けてお考えください」
ベルン様は袖口を引いた。声はマルクへ規定を尋ねるときよりも低く、ネリアの名を削らせたときよりも一息ずつ長かった。
「身内への口利きを排する。それが公平というものです」
私は名簿の上の線を見た。ネリアの名は読めなくなっていたが、その下に残った私の名は、よく読めた。
「母親の口利きは要りません」
同じ言葉を、同じ部屋へ返した。ベルン様はすぐには頷かず、工房主たちの顔を一度見てから、顎を引いた。
「そのとおりです」
「承りました」
私はマルクへ向き直った。
「私の保証を取り下げます」
ベルン様の袖口を直す手が止まった。
「セレナ様。それは、この娘についての保証という意味でしょうな」
「私が名簿へ記した保証です」
「待ってください。話を広げる必要はない。これは見習い昇格の公平性についてであって、季の市の品とは別の——」
「ベルン様」
マルクが名簿の頁を押さえた。私情の入り込む余地を、紙一枚の厚さだけ残さない声だった。
「保証は品ごとではありません。セレナ様がこの頁の工房と職人を保証する一行です」
「それは知っている。だが、今回問題にしているのは母娘の関係だ」
「娘と母を切り分けるよう、先ほど承りました」
私がそう答えると、ベルン様は口を閉じた。下唇の内側を噛んだらしく、頬だけが一度動いた。
マルクは机の抽斗から細い定規と黒インクを出した。私へ差し出す前に、名簿の保証欄を指す。
「セレナ様が消せるのは、ご自身の保証だけです。他の保証者の名にも、登録された職人の名にも、手を加えることはできません」
「承知しています」
「この一行を消せば、ネリアさんがこちらへ戻る道も閉じます。別の工房で働いた後でも、この組合での復籍には同じ保証が必要です」
ベルン様が小さく息を吐いた。止める言葉ではなく、私の手が止まるのを待つ息だった。
「一度消した保証は、書き直せません」
「はい」
私はペンを取らなかった。
先に、紙の上辺へ人差し指を当てた。ずれていた下の頁を二枚押し戻し、名簿の角を机の角と揃える。毎季、保証する品と名を確かめてからしていた所作を、マルクは急かさずに見ていた。
ネリアの手はまだ札の角にあった。名を消されてから、誰もあの子へ返事を求めていない。戻る道を閉じる確認だけが、私へ向けられている。
私はネリアを見た。頷かなかった。訊かなかった。
ネリアの指が札の角を一度撫で、離れた。手は膝へ戻らず、灰青の反物の端をつまんだ。自分で織った布だけを、壁から外す。
ペン先をインクへ浸した。余分な一滴を瓶の縁へ落とし、保証欄の端に置く。
横線は一本で足りた。
私の名を通り、頁の反対側で止まった。書き直せない線は、重ねるほど確かになるものではない。
マルクが吸い取り紙を載せた。上から掌で押し、インクが移ったのを確かめてから、私へペンを返す。
「保証の取下げを受理しました」
「何も今日でなくともよかったでしょう」
ベルン様の声は、ネリアへ浴びせたときの半分ほどだった。
「市の帳合まで日がない。一門には大勢の職人がいるのですよ」
「存じています」
「では」
「言われたとおりにしただけです」
ベルン様は私を見たまま、返す言葉を選んでいた。ネリアは灰青の反物を腕に掛け、受け取れなかった札の横を通り過ぎた。
私は書類を持ち上げた。揃えた角は、一枚もずれていなかった。
* * *
季の市の帳合の日、入口から三番目の棚だけが空いていた。
朝の光が白木の板へ広く落ち、節の数まで見えた。例年ならベルン様一門の反物が重なり、棚番の札を隠すほどだった場所である。
私とネリアは、工房へ残していた道具を受け取るために来ていた。私の糸巻き枠と、ネリアが三年使った杼が一本。持ち帰るものは布包み一つに収まり、棚へ載せるものはなかった。
帳合台の前には、ベルン様と一門の工房主たちが並んでいた。先日の名簿読みでは同じ深さに動いた顎が、今日はどれも動かない。
「次、ベルン様一門」
マルクが呼ぶと、若い職人が反物を一本運んだ。濃紺の地に、細い金茶の線が走っている。一門の主力として毎季最初に載せられる品で、ベルン様自らが台へ広げた。
「今年は糸の撚りを変えた。光の下でも地色が痩せない」
マルクは布の表を一度、裏を一度見た。耳の揃いへ指を当て、折り返す。出来について口を挟まず、名簿を開いた。
「保証者の記載がありません」
「何を言っている。先日までセレナ様の名があった」
「取下げを受理しています」
「それは娘の件でしょう。この布を織ったのは私の工房の職人だ。娘は一糸も触れていない」
ベルン様の掌が、濃紺の地を二度撫でた。布の出来を示す手つきで、名簿の横線は覆えない。
「品をご覧ください。これを棚へ載せないというなら、市の客へ何と説明するのです」
「保証がないため、載せられません」
「腕を見ると言ったはずだ。これだけの品を前にして、紙の一行を優先するのですか」
マルクは反物を巻き直した。金茶の線が芯へ吸い込まれ、最後に濃紺だけが残る。
「見習いの札にも、同じ保証が要ります」
ベルン様の指が布の上から落ちた。
「それとこれとは——」
「同じ名簿です」
マルクは反物を帳合台の右端へ置いた。棚へ運ぶ品は左、載せられない品は右。その一枚だけで、白木の棚が何も受け取らない理由は足りていた。
工房主の一人が口を開いた。
「ベルン様から、保証は変わらず有効だと聞いております」
「私がそう言ったのではない。セレナ様が娘の件で一時、気を——」
ベルン様はそこで私を見つけた。声が途切れた後、袖の中で指が握られる。
「セレナ様。ちょうどよかった」
敬称だけが先に届いた。
「マルク殿が妙な取り違えをしている。先日の取下げは、ネリアさんの昇格に関するものだったと、あなたからも説明していただきたい」
ネリアの名が出た。あの日は「この娘」で足りていた名だった。
私は布包みの紐を結び直した。マルクは私へ判断を求めず、名簿へ視線を戻している。
「私の保証に横線を引きました」
「それは見ています。だから、その意図を——」
「線は意図を登録しません」
マルクが答えた。
ベルン様の顎が帳合台へ近づく。ネリアへ言葉を重ねた人が、今は一語ごとに相手の口元を確かめていた。
「では、他の保証者を立てればよい。それで載せられるのでしょう」
「本日の帳合までに記載はありません」
「後から追記する。市が始まるまでには——」
「帳合後の追加はできません」
「規定を知る者が一門にいなかったのだ。セレナ様が黙って保証を消すなど、誰が想定できる」
工房主たちの視線が、いっせいにベルン様へ移った。名削りの日にはベルン様の頷きを受け取った人々が、今日は一つも頷かない。
ベルン様はその数を見ず、私へ片手を伸ばした。
「今季だけです。セレナ様がここで保証すると仰れば、マルク殿も無下には扱わんでしょう」
「登録されていない名は扱えません」
マルクは保証欄を指した。黒い横線の上下には、新しい文字を差し込む余白がない。
「セレナ様の保証は、ありません」
ベルン様は空いた棚を見た。次に、脇へ置かれた濃紺の反物を見た。それからようやく、私の顔へ目を移した。
唇の両端から色が引き、顎の下だけがまだ赤かった。品の名でも、規定の穴でもなく、横線を引いた人間の名を探す顔になっていた。
「次の工房へ進みます」
マルクが頁を閉じた。
乾いた音が帳合台を打つ。棚番は次へ送られ、入口から三番目には何も置かれないまま、四番目の品が運ばれていった。
ベルン一門の順番は、もう一度も呼ばれなかった。
* * *
ベルン様が訪ねてきたのは、市の初日が終わった翌朝だった。
一門の工房主は連れていなかった。供の者も外へ置き、自分で扉を叩いた。通すと、部屋の中央まで進まず、入口に近い椅子へ腰を下ろした。
私は向かいへ湯を置いた。ベルン様は杯に触れず、両膝へ手を載せた。右の親指が、左の爪の縁を何度も押している。
「次の市について、ご相談があります」
最初に出たのは、ネリアの名ではなかった。
「今季の損は、こちらで引き受けます。ですが次まで保証がないとなれば、一門の工房が立ちゆかない。職人たちには何の落ち度もないのです」
私は湯気の向こうで、口を挟まずに待った。
「セレナ様のお力が必要です。保証を元へ戻していただけないでしょうか」
「ご用件は、それだけですか」
「むろん、先日の件もあります」
ベルン様の親指が止まった。
「手続きに行き違いがあったことは認めます。私も少々、言葉が強すぎた。あなたの保証があれほど広く一門を支えていたとは、確認が足りませんでした」
そこでも、ネリアの名は出なかった。湯気が細くなり、杯の縁から消えるまでに七つ息があった。
「ネリアさんにも、不都合をかけたとは思っています」
「不都合」
「名を削ったことです。あれは本人の将来を考えての判断でしたが、結果として別の工房へ移ることになった。私からも、改めて話をする用意があります」
「何をお話しになりますか」
「誤解を解きます。本人に腕がないと決めつけたわけではない。戻る意思があるなら、次の昇格では公平に——」
「戻る名簿がありません」
ベルン様の親指が、左の爪から外れた。
「ですから、保証を戻していただければ」
「一度消した保証は、書き直せません」
「マルク殿の言葉は聞きました。しかし、規定にも例外はあるでしょう。あなたが望めば——」
「私は望みません」
ベルン様はそこで初めて杯を持った。口へ運ばず、冷めた湯の表面だけを見る。
「一門の職人を見捨てるおつもりですか」
「その方々を名簿へ載せたのは、どなたですか」
「私です。だから責任を持って、こうして頼みに来ている」
「私へ戻すことを、責任とは申しません」
杯が卓へ置かれた。底と受け皿の間で、湯が一滴だけ跳ねた。
「腕のある職人たちです。あなたも長く品を見てきた。紙の一行がないだけで棚へ載らず、働き口まで狭くなる。それでよいと、本当に——」
「品は職人が織ります。ただ、棚へ載せるのは人の名です」
ベルン様の口が閉じた。
「あなたが削らせた名も、私が消した名も、同じ名簿にありました」
「私は、娘さんだけを外すつもりだった」
「承っております」
「一門まで外せとは言っていない」
「私の保証を残せとも、仰いませんでした」
ベルン様の肩が、上着の中で一度だけ持ち上がった。
「では、詫びても無駄だと」
「お詫びは受け取りました」
「ならば」
「保証は戻りません」
ベルン様は指を組み直した。声を出す前に二度唇を湿らせ、それでも敬称を落とさなかった。
「職人たちには、どう説明すればよいのです」
「ベルン様がお決めになることです」
「あなたにも、長く関わった者として——」
「長く関わりました。先日の線までです」
私は冷めた杯を盆へ戻した。ベルン様は席を立ったが、扉へ向かうまでに一度、何もない卓上を振り返った。
呼び止めなかった。理由を足せば、彼は使えるところだけを拾う。名簿の一行ほど、都合よく切り分けられる説明はない。
扉が閉じる。廊下を進む靴音は、最初の三歩だけ速く、その後は聞こえなくなった。
* * *
ノアさんが来たのは、それから五日後だった。
ネリアは窓辺で、灰青の反物から銀糸を一本ずつ確かめていた。組合へ出したときについた折り癖を蒸気で戻し、布端を新しく裁ち直している。
ノアさんは私へ挨拶した後、すぐネリアの前へ進んだ。持ってきたのは契約書でも保証の用紙でもなく、小さな木の杼だった。
「先日の返事を聞きに来ました」
ネリアが布から顔を上げる。
「私に、ですか」
「あなたを誘いました」
「母の糸を使った布です」
「糸を選んだのは誰です」
「私です」
「銀を一本減らしたのは」
「光が散りすぎたので、私が」
ノアさんはそこで杼を差し出した。ネリアは受け取らず、灰青の布へ掌を置いた。
「見習いの札はありません」
「私の工房では、織った布を見ます」
「組合の名簿にも戻れません」
「戻るために誘ったのではありません」
ノアさんは私へ確認を向けなかった。ネリアの返事が置かれる場所を空けたまま、杼を持っている。
私は卓上の糸を巻いた。一本が指へ絡み、ほどく間にも、どちらもこちらを見なかった。
「では、織らせてください」
ネリアはそう言って、杼を受け取った。
「お願いします」
ノアさんの返事も、それだけだった。
工房へ持っていく道具を選ぶとき、ネリアは三年使った杼を布包みから出した。ノアさんにもらった新しい杼と並べ、古いほうを私の糸巻き枠の横へ置く。
「これは、ここに置いていきます」
「そう」
私の返事を待たず、ネリアは新しい杼を腰の袋へ入れた。灰青の反物を抱え、戸口に立つノアさんの横へ並ぶ。
外には朝の荷車が通り、車輪が石畳の継ぎ目で二度跳ねた。ノアさんが扉を押さえ、ネリアが先に敷居を越える。
あの子は振り返らなかった。
私は頷かず、袖を直してやらず、持つ布の端にも手を出さなかった。開いた扉から灰青が遠ざかり、銀の一本だけが朝日に残った。
やがてそれも角を曲がった。
卓上には古い杼と、私の糸巻き枠が並んでいる。私は二つの端を揃えかけ、古い杼だけを少し前へ出した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




