カリスマ音楽教師
男性教師には随分前からずっと、ある噂がついて回っていた。
四十歳そこそこ。全国的に名が通っている。無名の田舎の県立高校を、わずか数年で合唱コンクール常連校へ押し上げた。最優秀に選ばれることすら、もはや驚きではない。
結果が人を守る。結果が人を黙らせる。そういう種類のカリスマだった。
噂は、音楽部の一部の生徒との「微妙な関係」だ。
一人や二人ではない、と囁かれている。各学年に一人ずつ。今も現在進行形。
昼休みや、明らかに微妙な時間、音楽準備室に鍵がかけられる。不在なのか、居留守なのかはわからない。仮眠中、個人的相談中、個人指導中。いくらでも言い訳は整う。
そうこうするうち、いくら口止めをしようが、父親と同じくらいの年代の男性教師との、親密さに悩まないわけがない。
どうして簡単に、そういう関係になってしまうのか。それは男性教師がカリスマ的存在だからであった。
もちろん、学校側としても気がついてはいる。しかし、今や、男性教師のもたらす全国合唱コンクール常勝校、という看板は魅力的だった。
教師たちの空気は、どこか腫れ物に触れるようだった。
職員会議で名前が出ても、核心には触れない。
成果の話題になると拍手が起こり、噂の話になると、咳払いが増えた。
ちょうどその頃、男性教師は離婚している。
相手は同じく教員だった。
事情は語られなかったが、保護者の間ではとっくに広まっていた。
それでも、コンクールで金賞を取れば、拍手の方が勝った。
保護者会では、彼は穏やかに微笑んでいた。
成績表には、音楽部の功績が並ぶ。
誰が疑うだろう。
結果を出す男を。
これで学校の共犯性が濃くなる。
しかも、あくまで親密なだけの関係だという。また男性教師は、とにかくやさしかった。
中原貴代美の場合は、父親との関係に悩み、相談しているうちに、いつのまにかその輪の中にいた。
高校一年の夏季練習の頃だった。父親との関係が壊れはじめたのは、中学二年の春頃から。
貴代美にしてみれば、こんな田舎で、どうしていいかわからなかった。
母親に話しても、取り合ってもらえなかった。
家の中で、安心できる場所が消えていった。父親は、父親である境界を越えていた。
最初は暴力だった。やがてそれは、もっと曖昧なものに変わった。言葉にしようとすると喉の奥で崩れる種類の、重たい沈黙。
貴代美は、自分の体が自分のものではない感覚に、ゆっくり慣れていった。
その「慣れ」は、外側から見えない。
だからこそ、救いの形をしたものが近づくと、人は簡単に手を伸ばす。
初めて男性教師に相談した時、彼は熱心に聞いた。うなずき、間を置き、怒らず、否定せず、黙って味方の顔をした。
ある日、帰りが遅くなったので送ってあげようと、残っていた女生徒数名を順番に車で送った。最後に二人きりになった時、男性教師は言った。
「少し、ドライブしようか」
山の展望台まで行った。夜景の話、声の出し方の話、呼吸の話。歯の浮くような言葉の数々。慰めのようで、賛美のようで、気づけばそれは「選別」に変わっていく。
「君は、特別だよ」
特別。
その言葉を聞くたびに、貴代美の胸の奥がじんわり熱を帯びた。救われた気がした。誰にも見つけてもらえなかった場所に、初めて光が当たった気がした。
けれど同時に、説明のつかない澱のようなものが、底に沈んでいった。
温かいのに冷たい。
軽くなるのに重い。
自分の中に、二つの感覚が同居していく。
いつしか送迎は、二人きりの時間になった。
彼は決して乱暴にはしなかった。むしろ、いつも言葉を選ぶ。
「嫌なら断っていいんだよ」
「無理しなくていい」
「君の意思を尊重する」
その言葉は、断れない形をしていた。
貴代美は、それを拒まなかった。拒むという選択肢を、最初から持っていなかった。
やがて男性教師は、音楽の話をするように、人の心を整えはじめた。
指揮者が合唱を揃えるように、呼吸を揃え、視線を揃え、黙るタイミングを揃える。
自分の望む響きになるまで、繰り返す。
彼にとってそれは、音楽よりも甘美な作業になっていった。
「貴代美、とってもきれいだよ」
言葉は、きれいだった。
だからこそ、貴代美は混乱した。自分が嬉しいのか、怖いのか、わからなくなる。
嬉しいのは確かだった。
特別に求められていると感じた。父親から奪われ続けた自分が、ここでは選ばれている。そう思える瞬間があった。
「私は特別なんだよね、先生」
「ああ。特別だよ」
貴代美は、部内でも特別だった。
アルトのパートリーダー。
音程の揺れを整え、全体を支える役目。
男子の部長が指示を出しても、実際に音をまとめるのは彼女だった。
「中原がいないと困るな」
そう言われるたびに、胸が満ちる。
家に帰るのは、いつも七時を過ぎてからだった。
父親と二人きりにならないための時間は、いつしか責任感という名前に変わっていた。
男性教師の指はピアノを弾く、長くて爪をいつも整えたきれいな手だった。父親のガサツでゴツゴツした手とは大違いだった。
彼は、彼女の弱さの在処を見つけるのがうまかった。
どこに触れれば、拒絶がほどけるかを知っていた。
特別でいるために、彼の望む声を出す。
彼の望む顔を覚える。
彼の望む沈黙を覚える。
そのうち、貴代美は自分の声がどれだったのか、わからなくなっていった。
男性教師は「未完成」という言葉を好んだ。
完成したものには興味が持てない、と穏やかに言う。
未完成は、よく染まる。よく馴染む。よく従う。
そういう意味での「価値」を、彼は音程のように語った。
「君は特別だ」
その言葉は、何度も繰り返された。
繰り返されるうちに、それは慰めではなく、合図になった。
大人になりきっていない、大人の女にはないエロスがある。
男性教師は、もう、大人の女の体にはまったく魅力を感じなくなっていた。
未完成な存在を自分の色に染めること。
それは音楽と同じくらい、彼を昂らせた。
だが時折、音を外した生徒を見る目に、別の熱が宿ることがあった。
完成されたものには興味がない。
未完成なものほど、手をかけたくなる。
音楽と同じように。
選び、整え、自分の響きに合わせる。
そのやり方は、やがて音楽以外にも向けられていった。
それが、彼にとって音楽よりも甘美になっていた。
彼は指揮者だった。
音も、人も、同じだと思っていた。
駅前のバーガーショップでは、ガラケーを片手に噂が飛び交っていた。
「また音楽準備室、鍵かかってたらしいよ」
「先生、離婚したって」
「え、奥さんも先生なんでしょ?」
笑い混じりの声は、やがて「まあでもさ」で締めくくられる。
──コンクール勝たせてくれるし。
貴代美は、その時間、まだ音楽室にいた。
だからこそ、毎年新入生が入ってくると、親睦を深めるという表向きの意味合いで、まずは音楽室に新入生全員を呼ぶ。一緒に弁当を食べる。笑わせる。褒める。救う。
特に好機は夏休みの部活動だった。時間はたっぷりある。悩みの相談にのってやり、親近感を高め、特別感を味わわせる。
最後に、囁くのだ。冗談ぽく。
「ねえ。先生の彼女になってくれないかな」
その瞬間、貴代美の胸の奥で、黒いものが小さく揺れた。
形はない。匂いもない。誰にも見えない。
彼女の胸の奥、見えない道のどこかに、濁りが沈んだ。
彼女は、選ばれた。
そう信じた。
そう信じることで、救われていた。
だからこそ、自分の中に生まれた濁りを、彼女は自分のせいだと思った。
後になって、あの言葉の理由となるすべて。
どうして、私が。
その日から、音楽準備室の鍵が閉まる時間は少しずつ長くなった。
クラシックの音量も、以前よりわずかに大きくなった。
廊下を通る生徒たちは、誰も気づかない。
ただ、貴代美だけが、部屋の空気が重くなっていくのを知っていた。
自分の胸の奥と、同じ匂いがした。




