音楽準備室
眴が二人分の弁当を用意すると、朝ご飯を食べているテーブルに置いた。
「サンキュー、眴ちゃん」
由良姫がご飯を食べながらリュックに詰める。
「今日、食べてる暇あるかな」
「何かあるんですか?」
眴が何気に聞くと、宇羅彦が手を銃の形にするとバン! と言った。
「学校で、ですか?」
眴が心配そうな顔をする。銃の真似でバン! つまりは、祓いを意味する。
「目立たんよう、上手くやるわ」
二人はリュックを背負うと、自転車に乗った。狐のケンが走ってくる。
由良姫は自転車を止めると、ケンを前かごに乗せた。首輪とリードをつける。
「なんや、ケン連れてくんか」
「わからん、ついてきた」
「ま、いっかあ。ツヤさんとこ預けとこ」
ツヤさんとは、二人の担任で物理の先生である。若いのにおでこが広くてピカッてるのでツヤさん。物理準備室でいつもケンを預かってくれる。
そこには、隣室の生物の先生、岩さんもやってくる。妙に人馴れしている狐に興味津々だ。
「っざあまーす! ツヤさんいる?」
「挨拶は正しく」
「せんせっ! おっはー! 今日もケンちゃんお願いしまーす!」
学校はまだ八時前で、朝練の生徒がいるくらいだ。ツヤさんはサイフォンでコーヒーを入れていた。
「あー、また学校のアルコールランプ使ってる」
「君たちほどじゃ、ありません。プリンできてるよ」
ツヤさんは冷蔵庫を指差した。
「うん、ありがと。ケンちゃんがちょっと、行ってくる」
狐のケンは、準備室を出たがって戸を前足でカリカリした。由良姫はリードを持ってついていった。ケンは非常階段から三階へ行くと、二年生の教室が並ぶ廊下を走った。
「どこ行くん?」
「えっ、なに? 犬!?」
登校してくる人がチラホラいる。由良姫はケンを抱っこして連れ戻そうとした。
ちょうど、四組の前に並ぶロッカーのうちのひとつ、臭いを嗅ぐとケン! と鳴いた。
「やばい、ケン! おいで!」
由良姫は慌てて、準備室まで戻った。
「どこ、行っとったんや」
「わかった、昨日の。二年四組や。ケンが」
由良姫が鼻を指差す。臭いで嗅ぎ分けたと宇羅彦に合図した。
昼休みになった。由良姫と宇羅彦はケンがいる物理準備室へやってきた。
それまでの間に、一応由良姫がロッカーの持ち主を突き止めた。音楽部の中原という生徒で、昼休みはよく音楽準備室へ行くらしい。
「ウーちゃん、どうする?」
「せやな、音楽準備室なら四階や。一年の廊下やし、ちょうどええやん。行こか」
由良姫は弁当を二つ冷蔵庫に入れると、ケンにおとなしく待っているよう言い聞かせた。
音楽準備室から流れるクラシックは、やけに大きかった。
昼休みだというのに、廊下の空気はぬるい。準備室前の窓は閉じられ、扉には鍵がかかっている。
音楽室から出てきた上級生が、笑いながら手を横に振った。
「ダメダメ、今は呼んでも出ないよ」
もう一人が、意味ありげに肩をすくめる。
「あ、もしかして」
「ウーちゃん、ヤバない?」
昨日の山と同じだ。
この独特な臭さ、誰も気がつかない。
「濃いな」
宇羅彦が小さく言う。
廊下を歩く生徒たちは、何事もない顔をしている。
笑い声も、足音も、いつも通りだ。
なのに、由良姫の鼻の奥だけが焼けるように痛い。
廊下の窓は開いている。
風も通っている。
それでも、この臭いは消えない。
「感じてへんのが普通なんやろな」
宇羅彦は、わずかに眉をひそめた。
そこへ、合鍵を持ったOBがやってきた。
「また、先生、こもってるわけ?」
OBは音楽室の方からなら入れると、由良姫と宇羅彦を案内した。
「あの、俺らが入ったらすぐ閉めて下さい」
「えっと?」
「お願いしますっ!!」
OBはキョトンとした顔をした。
よくわからないが、異様な空気が漂っているのを感じ、ここは従った方がよさそうだと判断した。
鍵が回る。
ドアが開いた瞬間、黒いものが弾けるように飛び出した。OBの目には、それがハッキリと見えた。
──なんだ!?
黒は空気に触れて痩せる。
だが、すぐに室内の熱へと群がろうとした。
由良姫と宇羅彦が飛び込むと、OBは反射的にドアを閉めた。そして、ドアから離れ音楽室にいた生徒を外へ避難させた。
廊下には、あるはずのない臭いが充満していた。廊下の窓は開け放たれていた。
由良姫と宇羅彦は、締め切られた室内の熱を感じた。
音楽は止まらない。
準備室の中で、二つの影が近すぎる距離にあった。
貴代美の瞳は焦点を結ばず、呼吸が荒い。喉元が波打つ。
次の瞬間。
彼女の口元から、黒い影が溢れ出た。煙のようで、液のようで、形を持たない。時折、蛇の舌のように触手らしきものが蠢く。
「モドキや」
口から出て床に落ちる前に、黒は一瞬痩せる。しかし目の前の熱を感知し、一斉に跳ねる。
顧問の男性教師が後ずさる。黒は彼の影に絡みつき、内部へと潜り込む。
男の顔色が一瞬で変わる。
「ぐ……」
声にならない。
貴代美の体からは、次々とモドキが溢れる。それは、彼女の内部から何かを奪っていく。
貴代美の中に巣食っていた 穢モドキは、気の道から五臓六腑に至るまで生気を喰らい尽くしていた。
モドキは飢えれば、喰らうしかない。喰らえなければ、消える。
新たな餌を求めて、モドキは男性教師に群がった。
貴代美の体は黒ずんできて、内側からケガレ特有の臭いを発し始めた。こうなると、生きながら魂をケガレに蝕まれケガレと成り果てていく。
そこには、すでにケガレへと変わりつつあった貴代美がいた。
「いや……いや……どうし、て……」
由良姫の指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
昨日、山で逃げた背中が脳裏をよぎる。
あの時、振り返らなかった少女。
名前も、顔も、知っている。
知っているからこそ、踏み込まない。
「……終わらせる」
二人には気の結界があるので、モドキ程度なら取り憑かれることはない。
しかし、ケガレは別物だった。
二人は間もなく蝕が終わり、ケガレと化す貴代美に向かって術を放つ準備をする。ミイラのようになった貴代美が最後の言葉を呟いた。
「わ、私が……?」
二人はためらわず、ケガレと化す貴代美に向かって術を放った。
二つの紋が重なる。
光が走る。
ケガレは、消えた。
そこには空白だけがある。
貴代美は跡形もなく消滅した。
モドキに巣喰われた男性教師は、急激にモドキに喰い荒らされ気絶したままだった。多分このまま一時的に、正気を保つのが難しくなるだろう。
宇羅彦は、音楽準備室の鍵を開けると、外にいる生徒に養護教諭を呼んでくるよう伝えた。
鍵を開けてくれたOBは、由良姫に自分が見た黒いものは何か聞いた。
「その前に、この音楽止めて下さい」
由良姫は窓を全開にして換気をした。
臭くてたまらなかった。
音楽が止む。廊下の空気が、やっと軽くなる。
それでも、臭いは消えない。
OBはまだ、廊下の空間を見つめていた。
そこに何かが残っている気がして。
彼の目には、ほんのわずかに揺らぐ影が見えていた。
消えたはずの黒の名残。
瞬きをすると、もうない。
「……見えたんだよな」
小さく、確かめるように呟く。
彼だけが、それを見失わなかった。
廊下では、もう笑い声が戻っている。
誰も欠けたことに気づかない。
クラシックの残響だけが、壁に薄く貼りついている。
空気は軽くなったはずなのに、歪みだけが残っている。




