終末のドラゴンの慟哭
これは、破ることのできぬ運命に縛られた悲劇である。
ドラゴンの血を宿す主人公は、最愛の人を失い、さらに自分を最も愛してくれた養女のために、人として生き続ける道を捨てざるを得なかった。
彼はすべてを捧げたが、結局何ひとつ変えることはできなかった。たとえ途中で別の選択をしていたとしても、待ち受ける結末はより惨いものであっただろう。
第一章
「ドラゴンは、創世の初めから存在する最古の種族でありながら、最も稀少な存在でもある。強大な力を有する一方で、その力に等しい罪をも生まれながらに背負っているのだ。」
金髪の少女は、一語一句をなぞるように羊皮紙を読み上げた。そこには百年前に記された短い物語が載っており、その真偽は人をして思索に駆り立てるものだった。描かれていたのは、とうに荒れ果てた王国の門前に、一体の黒きドラゴンが幾年も留まり、毎日夕暮れになると凄まじい咆哮を響かせているという情景であった……。
ドナウ川の対岸には、かつて美しい小国があった。広大な平原に位置し、背後にはアルプス山脈を控え、反対側には豊かな黒い森が広がっていた。二つの天然の障壁に守られたこの小国は、数百年にわたり幸福と平和を保ち続けてきた。人々は広い草地で牛や羊などの家畜を飼い、小麦などの作物も育てていた。十字軍の遠征軍が幾度かこの地を通ったものの、異国の軍勢がこの王土の静けさを破ったことは一度もなかった。
この国には一つの伝説が伝わっていた。それは、建国の初代皇帝がかつてアルプスの山脈に巣食っていた悪しきドラゴンを打ち倒した勇者であり、その後、大陸全土で戦乱に苦しむ人々を導き、この地に新たな故郷を築いたというものだった。人口一万人にも満たないこの小国は、そうして幾年もの間、この土地を独占してきたのである。
「これこそが、僕の未来の使命なのだ」
幼さを残した顔に豪華な衣をまとった少年がそう言い、背後のマントをひるがえした。頭には身分を示す王冠が輝き、それは王子である証だった。
「もう何十回も同じことを聞かされたわ」
隣にいた同じく豪華な衣装の少女が呆れ顔で言った。その一方で、みすぼらしい服を着た少年がもう一人いた。彼の表情には、何度聞いても心を躍らせるような興味が浮かんでいた。この国は富んでいたが、同年代の子供はこの三人しかいなかった。すなわち、王族、貴族、そして平民――それが彼ら三人の身分であった。
「ふん、聞きたくなければ聞かなくてもいい。僕は未来の臣民に語っているのだ!」
王子は少女に向かって怒鳴ると、平民の少年を見やり、満足げに頷いた。
「さすがは僕の忠実なる僕だ。この国の歴史がどれほど偉大か、よく分かっているな!」
しかし王子は気付いていなかった。平民の少年が憧れていたのは、物語の中の勇者がドラゴンを討伐する冒険のほんの一場面にすぎなかったことを。
「私ね、旅の商人から別の話を聞いたの。勇者はドラゴンを倒したんじゃなくて、ドラゴンとある契約を交わしたんだって」
少女はゆっくりとそう言った。
それを聞いた王子の顔はたちまち真っ赤に膨れ上がった。
「嘘をつくな!」彼は少女に怒鳴った。「たとえ貴族であろうと、王族に対する虚言は重罪だ!」
「やーい、また怒った」少女は舌を出し、平民の少年の手を引いて駆け出した。「そんな癇癪持ちとは一緒に遊ばないもん!」
二人は走り続け、やがて王国の境界に辿り着いた。そこはドナウ川、黒い森、そしてアルプス山脈の三方に囲まれた、外界へ通じる唯一の道であった。そこには高い城楼があり、上には兵士が怠そうに立っていた。傍らの警鐘の銅鑼はすでに錆びつき、兵士は大きな欠伸をしながら「どうせ他国がこんな場所を攻めてくるはずがない」と考えていた。二人の子供が駆けてくるのを見ても、余計な関わりを避けようと帽子を顔にかぶせ、見なかったふりをした。彼は気付かなかったのだ。国境のすぐそばに、腹を空かせた灰色熊が近付いてきていることに。
「ねえ、知ってる? 外の人たちの間じゃね、この国がこんなに平穏なのは、国王があの邪悪なドラゴンと何か取引をしたからだって言われてるの。だからこの国の王妃はみんな短命で……王子だって、生まれてすぐお母様を亡くしたでしょ。だからあんな性格になっちゃったんじゃない?」
少女はそう言った。
「そんなこと、この国の人は知らなくても、他の国ではずっと前から噂されてるの。……私、このことをお父様に聞いたら、殴られたのよ」
平民の少年は少女の横顔を見つめた。そこには確かに、赤黒く残る傷跡があった。だからこそ少女は先ほど王子にあれほど強く反発したのだろう。
だが、平民の少年にはこうした事情はよく分からなかった。彼は幼い頃から孤児であり、父も母もいなかった。町の図書館を管理する老人に拾われ、今まで育てられてきたのだ。この王国にただ一つしかない狭い図書館に十年以上住んでいた。かつては老人が手紙の代筆や朗読、写本などで生計を立てていたが、近頃は老人の体が弱まり、今では少年がその仕事を少しずつ引き継いでいた。暇な時には本を読みながら過ごすこともできた。少年はその生活を心から楽しんでいた。たとえ図書館にある本が四十冊しかなくても、その一冊一冊を何十回、何百回と繰り返し読んでいたのだ。
「ドラゴンって、本当に邪悪なのかな?」
少年が少女に問い返すと、その質問に少女は一瞬言葉を失った。
「ドラゴンは当然邪悪でしょ? じゃなきゃ討伐なんてされないじゃない」
少女はしばらく考えてからそう答えた。
「そう言われればそうだな。」少年はうなずいた。「でも、もし本当に邪悪なドラゴンがいるなら、僕はそいつを討つ勇者になりたい」
「ドラゴンを倒したら、王様になるつもりなんでしょ?」
少女はからかうように言った。「ふふっ、ドラゴンを倒したら、王様になれるかもね。じゃあ、私はそのとき王妃になってあげる! ドラゴンさえ死んでしまえば、この国みたいに王妃が早死にすることもないはずだから」
少年はうつむき、恥ずかしそうに小さく答えた。
「そんなことは考えてないよ」
彼はただの孤児にすぎなかった。図書館の老人に拾われて育てられた身であり、それは生まれた瞬間から決まっていた運命だった。人には、生まれただけで他人が一生かけても届かないほど強い立場を与えられる者がいる――それは決して変えられない事実。
凡人にも及ばぬ孤児が、王になる夢を見られるだろうか?
彼はかつて一冊の書を読んだことがあった。そこには「自由」「平等」「博愛」「解放」を謳い、すべての人が平等に生きるユートピアが描かれていた。だがそんな本を信じるのは、いったいどんな人間なのだろうか。少なくとも自分のように、生まれてから両親の顔すら知らず、日々パン半分で飢えをしのぐ孤児には到底信じられるものではなかった。
さっきの王子を見れば分かる。食事は明らかに自分よりはるかに恵まれ、身なりからは香水の甘い香りが漂っていた。その香水も、彼が読んだ本と同じように外国から運ばれてきたものだ。身分の差は天と地ほどあっても、王子のような皇族と自分とが、同じく異国からの品を用いている――その事実だけで、少年は妙に満たされた気持ちになった。
そう思っていると、不意に衣の裾を引っ張られる感触があった。
「どうしたの?」
少年が振り返ると、巨大な褐色の熊が二人のすぐそばで身をかがめ、じりじりと迫ってくるのが見えた。
「なにあれ!?」
少女は目を輝かせ、大声を上げた。こんな生き物を見るのは初めてだったのだ。
少年は慌てて少女の口を押さえた。彼はその動物がどんなものかをよく知っていた。
「振り返るな、走るな。今からあいつを見据えながら、ゆっくり後ろに下がるんだ。……さもないと食われる」
少年は少女の耳元で囁いた。
「そんなはずないでしょ。あの口、うちの犬と似てるじゃない。いつも骨付き肉しか食べないもの」
少女は気にも留めず熊に近付こうとした。少年は慌てて彼女の腕を掴んだ。
その瞬間、灰熊が轟くような咆哮を上げ、二人に向かって突進してきた。
遠くの城楼の上でも兵士がその声を聞いた。彼は震え上がり、帽子で頭を覆い、床に伏せて息を殺した。熊に見つかるのを恐れていたのだ。
五メートル、三メートル。
熊の巨爪が振り下ろされる直前、少年は少女を地面に押し倒し、自分の体で攻撃を受け止めようとした。その瞬間、時間が遅く流れるように感じられた。自分の頭よりも大きな熊の爪が胸に迫るのがはっきり見えた。
少年は目を閉じ、思わず左腕を胸の前に差し出した。――これで熊に打ち倒され、死ぬのを待つしかない、と。
だが奇妙なことが起こった。確かに熊の爪は彼の左腕を打った。けれど、その衝撃は本で数冊叩かれた程度の軽さにすぎなかったのだ。
少年は目を見開いた。目の前では熊が依然として怒り狂い咆哮している。だが彼の腕は無傷のまま――ただ、そこには蛇のような黒い鱗がびっしりと生えていた。
彼の瞳孔は細く縦に裂け、口元には鋭い牙が覗いた。体は膨れ上がり、着古した薄っぺらな衣服を破り裂いていく。
熊が狂ったように吠える。少年もまた、熊に向かって咆哮してみせた。その咆哮と同時に、喉の奥から熱が迸る。
それはくしゃみのようなものだった。だが吐き出されたのは炎。
炎の奔流が熊の顔を焼き尽くす。灰熊は断末魔の叫びを上げ、反対方向へと逃げ去った。
そして――少年はその場で意識を失った。
第二章
灰熊の咆哮が、再び夢の中の少年を目覚めさせた。
あの出来事から、すでに丸六年が経っていた。
この六年の間に、多くのことがあった。
少年は自分が呪われたドラゴンの血を受け継いでいることに気づいたのだ。最初は左腕だけだったが、今では身体の半分以上が黒い鱗に覆われている。少年へと成長した彼は、毎日その正体を隠し、抑え込む生活を送っていた。――外見の変化だけではない。魂そのものが野性に侵されていくのを感じていた。獣の血を求める渇望、そして金銭への欲望。
それこそがドラゴンの本性だった。少年はよく理解していた。自分は少しずつ人間ではなくなり、完全なる悪しきドラゴンへと変わりつつあるのだと。
彼を育ててくれた祖父は四年前に亡くなった。今は一人、みすぼらしい書庫で孤独に暮らしている。この国の人々は次第に外の世界と関わろうとしなくなり、彼が代筆で糊口をしのいでいた仕事もすでに途絶えていた。今では黒い森での採集や狩りで日々の大半を賄うしかなく、時折あの貴族の少女からの施しに頼ることもあった。
汗を流しながら夢の余韻に浸っていた時、扉が叩かれた。
「……起きてる?」
それは少女の声。ここに来るのは、幼馴染の彼女以外にあり得なかった。
「来てくれたんだな。」
少年が立ち上がって扉を開けると、そこにはすっかり美しく成長した少女が立っていた。六年前とはまるで違う姿だ。彼女は毎朝早く起き、少し身支度を整えてからこの図書館を訪れるのを習慣にしていた。
少年は彼女を見て、気まずそうに笑みを浮かべた。彼女はいつも日用品を持って来てくれる。無一文の少年には到底手に入らない物ばかりだった。この国では通貨はほとんど廃され、基本的な物資の交換すらある程度禁じられている。そのため少年は常に金欠で、貴族の少女が届けてくれる塩や麻布などで命を繋いでいたのだ。
少女は悲しげな表情を浮かべ、大きな包みを差し出した。それは普段の何倍もある量だった。
「どうしたんだ?」少年は訝しげに問いかける。
「もう、毎日は来られなくなるの。」
少女は口を開いた。
「これからは、一日中みっちり貴族の礼儀作法を学ぶことになったから。」
彼女はまだ何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。
「小さい頃からあんなもの嫌ってただろ?だからずっと学ばなかったはずだ。」
少年は知っていた。少女の両親は彼女を大切にしていたと。
「今回だけは違うの。……選ばれたのよ。この辺りで同年代なのは、私しか……」
少女はそれ以上言葉を続けなかった。
「何に選ばれたんだ?」少年は残念そうに尋ねた。
すると少女は両手で彼の頬を包み込み、二人の距離は自然と近づいていく。少年は少女の頬を見つめた。とても綺麗だった。彼がこれまで出会った唯一の異性であり、最近では彼女の吐息にさえ甘やかな香りを感じるようになっていた。その身体に触れたい衝動が湧き上がる。だが結局、少年は思いとどまった。彼女の手を取ることさえ、この四年間していないのだから。
「ねぇ……キス、してくれない?」
その言葉に少年は顔を真っ赤にして一歩退き、彼女を押しのけた。
少女は微笑んだ。
「私ね、この国の王妃になるの。」
髪の毛先を指で弄びながら、彼女は続けた。
「覚えてる?子供の頃に言ったでしょ。もしあなたが悪しきドラゴンを討伐して新しい国を築いて王様になったら、私が王妃になってあげるって。――でもね、今なら信じられるの。あなたの言った“ドラゴンが必ずしも悪とは限らない”ってこと。本当はあなた自身がドラゴンだったんだね。秘密は一度も口外してないよ。」
彼女は自ら少年の手を取り、優しく握った。
「もちろん、悪しきドラゴンになって私を攫ってもいいんだよ?そして、ドラゴンに連れ去られ守られるお姫様にしてくれても。」
「そんなこと、しない。」少年は呆然としながら答えた。
「うん、分かってる。」少女はそう言い、背を向けようとした。
人は、生まれながらにして運命を定められている者もいる。どれほど努力しても変えられない。それを彼女は知っていた。だが幸運にも、彼女は一度灰熊の襲撃から少年に命を救われた。その恩返しのつもりで、先ほどの言葉を口にしたのかもしれない。
だが彼女はよく分かっていた。たとえ少年と一緒に逃げても、幸せな未来が待っているわけではないことを。貧しい少年と共にいても楽しく暮らせる――そんなことは童話の中にしか存在しない。身分と立場の差があまりにも大きすぎて、二人に幸福など訪れはしない。最低限の衣食住すら、彼は保証できないのだから。
それが現実だった。真実の愛など、苦しみを知らぬ愚か者だけが信じるもの。
少女は貴族の出身でありながら、その家は没落の一途を辿っていた。これまで毎日のように物資を渡してきたことだけでも、すでに十分すぎる恩義だった。王家へ嫁げば、今より豊かに暮らせることは確実だ。
加えて、この国で同年代の女性は彼女しかいない。
もはや、それは決まっていた未来と言えるだろう。
少女は無言のまま歩いていた。
心のどこかで、もし少年が追いかけてきて、その手を強く掴んでくれたなら――自分は揺らいでしまうかもしれない、と。
けれど少年はそうしなかった。ただ黙って、彼女の背中が遠ざかっていくのを見つめるだけだった。
少女は十分に現実的だった。そして少年もまた同じだった。
自分の身体が変異しつつあることを、少年は理解していた。残された時はもう長くはない。
だからこそ、彼は近いうちに十数年を過ごしたこの国を去り、外の世界へ旅立つ決意を固めた。
運がよければ、自らをドラゴンへと変貌させるその性を抑える術を見つけられるかもしれない。
二人はおそらく、最初から縁がなかったのだろう。
少女は少年を好いていた。少年もまた、深く彼女に想いを寄せていた。
彼がずっとこの場所に留まっていたのは、唯一そばにいてくれたその少女のために他ならなかった。
だが今、彼女が王妃となることを知り、もはや自分の存在は不要なのだと悟った。
――三日後の三日、何の変哲もない金曜日。
それは少年が荷をまとめ旅立つ日であり、少女が王家へ嫁ぐために婚約を交わす日でもあった。
少年の背負う鞄には獣の毛が残り、歩みに合わせて微風に揺れた。
一方で少女は王族の証たる白いヒールを履き、硬くも厚い、王宮の絨毯を踏みしめていた。
この国は数年前よりもさらに荒れ果てていた。
塔の上に立つ兵士は六年前と同じ男で、今では尖った口髭を蓄え、哨戒もせず壁にもたれ床に座り込んでいた。
戦争など起こるはずもない国。彼にとって哨兵の仕事は、今日のパンを得るためだけのものだった。
少年は外界へ通じる唯一の道を歩んでいた。
小石を敷き詰めただけの道はひどく荒れ、雑草が生い茂っていた。商人が来なくなって久しいのも無理はなかった。
一方で少女は白い大理石の階段を登っていた。それは国の中心、城の大広間へと続く荘厳な道だった。
――ハレルヤ。
古代イスラエルの王が神に捧げた賛歌。語られていたのは、しかし己の苦悩と苦難であった。
神よ、なぜあなたはこれほど残酷なのか。
人々に耐え難き苦しみを与え続けるのか。
神よ、なぜあなたはこれほど慈悲深いのか。
人類が滅びの縁に立つとき、なぜその手を差し伸べるのか。
少年はドナウ川の畔で小石を拾い、投げ入れた。幾つもの波紋が広がる。
一方の少女は王族の化粧台に佇み、多面の鏡に映る自分の姿を見つめていた。
美しく着飾った顔。だがその瞳は泣き声を隠していた。
――ハレルヤ。
少年が歩む道は、彼自身の選択であり、彼を試す未来への入口だった。
この選択は本当に正しいのだろうか。
――ハレルヤ。
少女が王家へ嫁ぐことは、多くの庶民が夢見る生涯の栄誉。
だが彼女にとっては、生まれながらに決められていた宿命だった。
本当に、選択の余地はなかったのだろうか。
少女は化粧台の鋏で一房の髪を切り落とした。
少年は少女から託された包みを開き、その中の手紙を読み取った。
少年は川辺でピンク色のカンパニュラを摘み取った。
少女は煌めく金の王家の紋章を見つめ、ただ黙していた。
少女は最後に少年と会い、その唇を捧げたかった。
少年はただ命を懸けて守りたかった。手を取り合いたいと願った、唯一美しい少女を。
――ハレルヤ。
神よ、全知全能であるあなたが、なぜ人に信仰と賛歌を求めるのか。
――ハレルヤ。
神よ、慈悲深きあなたが、なぜ人の冷酷な嘆きと破滅の叫びを望むのか。
――ハレルヤ。
この国に生きる三人の同世代。
王子は王となり、少女は王妃となり、少年は悪しきドラゴンとなる。
彼らの選択は間違っていたのか。
神は本当に選択の自由を与えたのか。
彼らの選択は正しかったのか。
それで幸福は手に入るのか。
――それこそが、この国が滅びへと歩み出した始まりだった。
第三章
この世界には、次のような物語が伝えられている。
海の彼方から現れた一匹のドラゴンがアルプスの山脈に棲みついた。すると、そのドラゴンを目にした羊は草を食まず、牛は乳を出さず、鶏は卵を産まなくなった。周辺のいくつかの国々は、このドラゴンの存在により民心が動揺し、こぞって金を出し合い、悪竜を討てる勇者を募った。
その時、リヨン出身の一人の少年がこの依頼を受けた。彼はただの商人であり、手にしていたのは果物ナイフ一つだけであった。しかし彼は巧みな言葉でその場にいた人々を説き伏せ、誰もが彼に従うこととなった。彼がどのようにして成し遂げたのか、誰も知らない。だが事実として、彼はただ一人でアルプスへ登り、ドラゴンの棲み処を見つけ、討伐の証としてドラゴンの角を持ち帰った。
同時に彼は高らかに宣言した――戦争の要らぬ世界を築き、すべての家に食卓を、万人に平等と自由と博愛をもたらすユートピア国家を建てるのだと。彼は苦しむ人々を導き、その旅路へと共に歩ませた。そして最終的に、ドナウ川と黒い森に寄り添う無人の平原を新たな地として選んだ。
だが、彼は実のところ巨竜を討ち倒してはいなかった。むしろ後にその竜に跨り、かつて彼を支援した国々へ次々と侵攻を仕掛けたのである。結局のところ、彼は当然のごとく敗北した。他国も彼を不問に付したが、ただ一つの条件を突きつけた――皆の面前で巨竜を斬り捨てること。彼はそれを実行した。自らを最後まで助けたドラゴンの逆鱗を正確に突き、一撃で命を絶ったのだ。巨竜は死に、その肉体は土となり、その血はドナウ川の支流へと変わった。
やがて諸国の軍も撤退し、欺瞞と虚構の上に築かれたこの国を顧みる者はいなくなった。死した竜の呪いが染みついた、朽ち果てた大地――それがこの国の真の歴史であり、本来存在すべきではなかった理由であり、必然の結末であった。
――
結婚して間もない若き人妻は、王族にしか閲覧を許されない、まるで極秘文書のような羊皮紙を読み終えた。
その口元にかすかな冷笑が浮かんだ――なるほど、これこそがこの国が常に呪いに苛まれてきた原因なのだ!
彼女はこの国の王妃となり、そのためにさらに重い呪いを背負うことになった。
彼女は自らの両手の甲を見つめた。そこにはすでに鮮紅の竜鱗のような文様が浮かび上がっていた。
そしてその文様が互いに閉じ合わさった時、彼女もまた歴代の王妃たちと同じように死へと導かれるのだ。
しかし彼女には理解できなかった。なぜドラゴンの呪いは、この国に嫁ぎ王族となった王妃ばかりを狙うのか。
だが、その竜鱗のような呪印は絶えず彼女に告げていた――彼女の命はおよそ二年も残されていないのだと。
外から見れば栄誉に満ちた王室への輿入れも、実際には死への道行きにすぎない。
けれども彼女の両親も家も、彼女が王室に嫁いだことで確かに豊かな褒賞を手にしていた。
隣国であれば、娘を嫁がせる際にはむしろ多額の持参金を支払わねばならないというのに。
不可思議ではあるが、極めて理に適ってもいる――他国の娘を嫁がせる親は、娘が将来少しでも良き暮らしを送り、夫の家に縛られぬようにと願うからこそ、持参金を支払うのだ。
だが彼女の場合は犠牲を強いられ、この国のために死を求められる存在であるがゆえに、逆に両親は立派な婚資を受け取る。そうではないか?
今や彼女と家族、両親との間には、借りも貸しもなくなったと言えるのだろう。
彼女はいつも思っていた。自分はあの少年を本当に好きだったわけではないのか?
だがもし、あの時少年と共に去っていたなら――その方が良い選択だったのではないかと。
結局のところ、誰だって一日でも長く生きたいのだ。
まして、命を賭して守ろうとしているこの国が、子供じみた虚構にすぎないと知ってしまった今となっては。
彼女の前に、いったいどれほど多くの女性が同じ道を歩んできたのだろうか。
すでに選んでしまった道なら、後悔するよりも自ら手を下して変えていくべきではないか。
彼女はかつて図書館で、あの少年と共に外の世界の書物を数多く読んでいた。
市場を禁じれば、人々には欲も富も生まれない。
完全な平等は、人から努力と進歩を奪う。
外との交易を絶てば、知識は枯渇し、発展は停滞する。
それを彼女はよく理解していた。
今や皇族の一員となった以上、せめて自らの努力で何かを変えたい。
ほんの僅かでも、この国を良くしたいと願った。
しかし彼女は知らなかった。
彼女以前にも同じように変革を試みた女性たちがいたことを。
そのおかげでこの国は外との通商を始め、市場は十数年にわたり開かれ、やがて小さな図書館を建てることができたのだ。
その図書館こそ、あの平民の少年が育った家であった。
もともと貧しかった少年は、数日間歩き続け、近隣の大国へと辿り着いた。
そこに建つ建物は異様なほど壮大で、城外から眺めるだけでも驚嘆を禁じ得なかった。
少年は、こここそが他の国々を凌駕し、真理を求め、自らの竜の血の呪いを解決できる場所に違いないと思った。
しかし都へ入った途端、その期待は無惨にも裏切られる。
城壁は表面こそ立派に見えるが、内側は荒れ果てていた。
食事時だというのに、街路には料理の匂いが一切せず、むしろ鼻を衝く糞尿の悪臭が漂っていた。
各家々は、糞水を大通りへとぶちまける時だけ、高い塀の小窓を開く。
往来の人々は汚物を踏まぬよう、重く不格好な木底の厚靴を履いて歩いていた。
歩くのも困難なほどだ。
――あの国を出れば、すべてが良くなるはずだった。
だが外の世界は、さらに酷いのかもしれない。
少年がそう思案していると、一台の商人の馬車が目の前で止まり、中に乗っていた男がからかうように声をかけた。
「お前、よそ者だろう? こんな国に何しに来た?」
「私はドナウ川の向こうから来ました。この国に何か問題でも?」
少年が尋ねると、商人は吐き捨てるように言った。
「問題だらけさ! この国は、大陸中を渡り歩いた私が見た中で最悪の場所だ!」
その時、少年の腹が不意に鳴った。
「飯を食ってないんだろ? 城を出たら、私の分を分けてやる。」
そう言いながら、親切そうな商人は少年を馬車に乗せた。
少年が改めて彼の服装を見れば、それは周囲の光景から浮き立つほど立派なものだった。
やがて馬車が城外へ出ると、商人は冷めた雑穀粥の椀を差し出した。
「そんな臭気漂う街で食欲が出るのなら、よほど腹が減っているんだろうな。」
少年が受け取ったのは、黒麦や燕麦、大麦を煮込んだ粥。
苦いが、腹を満たすには十分だった。
夢中で食べる少年を見て、商人は苦笑した。
実のところ、その粥は自分にはまずすぎて残したものだったが、少年にとってはまさに命綱に等しかった。
「少年、まだ若いな。南の国へ行ってみるといい!」
商人は馬車の外を指差した。
「私はそこから来た。水の上に築かれた都市さ。我々は生まれながらに商人で、世界を巡り、ある地で不要な品を別の地で必要とする者に届けるのだ。」
そう言うと、彼は麻袋を取り出した。
袋を開いた瞬間、悪臭とは対照的な芳香が馬車中に広がった。
彼が取り出したのは五芒星の形をした奇妙な品。
「これが今回の旅の目的の一つだ。大ブリテンの船団から買い付けたもので、遥か東方の国から来た。私はこれを故郷へ持ち帰るつもりだ。」
商人は素朴な笑みを浮かべた。
「いい香りだろう? これは薬にもなり、風邪をよく癒す。
この国を抜ければ、私の旅も終わりに近づく。」
彼は袋を大事に縛り直した。
「もしよければ、私の国まで連れて行こう。そこでは誰もが仕事を持ち、望む食べ物を買える。大陸でも最も学識の深い国の一つなのだ。」
少年は茫然としながらも頷いた。
「我々は友と共に、古代ローマの文化思想を復興させ、腐敗した国々を変えようとした。
だが間違っていた。ときには支配層を打ち倒さぬ限り、何も変わらぬこともある。」
商人は怒りを含んで語った。
「さっきの国を見ろ。王は民に選ばれたというのに、数十年でこの有様だ。
騎士どもは街道で堂々と略奪を働く。」
「奴らは、長く続いた戦争の勝利に酔いしれているだけで、民の窮乏など顧みもしない。
彼らには雑穀粥すら足りないのだ。」
商人は嘆息した。
「国の健全さを測るのは、武力でも標語でもない。
民が何を食べ、どんな家に住んでいるかだ。
だから私の旅の荷は、この香辛料と、数冊のラテン語の書物だけ。
だがあの国の騎士どもは、私から何度も奪おうとしながら、これらには見向きもしなかった。
本来、これこそが無二の宝だというのに。」
少年は彼の話を聞き、何かを悟ったような気がした。
だが本当に分かったわけではなかった。
彼は小さな国で育った、ただの小さな平民にすぎない。
ただ、隣国ですらこの程度なのかと知り、わずかに心が慰められたのだった。
しかし彼はこの商人を信用してはいなかった。
言葉は高尚に聞こえたが、心から同意する気にはなれなかった。
まるで羊飼いに囲われた仔羊が、「外には狼がいる」と告げられて、囲いを越える勇気を失うように。
――
少年は三日間、商人の馬車に揺られた。
そしてついに、その商人が語っていた国に辿り着いた。
そこは確かに、これまで見てきたどの国とも違っていた。
人々は商人と同じように身なり整い、親切で誠実。
彼らは知識に富み、文化に秀で、街には自らの趣味に没頭する者たちが溢れていた。最も根源的な欲望すら隠さず、通りに並ぶ絵画や彫像はすべて裸身の男女を描いていた。
だがそこもまた、少年には馴染めぬ場所だった。
彼はただ、自らが竜へと変わり続ける苦悩を解き、
黒い森とドナウ川に抱かれたあの国へ帰り、
自分の愛する少女を守りたいと願うだけであった。
少年は二年間、帝国と共和国を渡り歩いた。
最初に出会った商人の国で知ったことは――自らドラゴンの力に頼りすぎなければ、早くドラゴンへと変じることはない、というものだった。
それは、決して治らぬが自律すれば発症を防げる病に似ていた。
また、少年は自らのドラゴンの血ゆえに、帝国で一つの奇妙な物語を耳にした。
それは頭を欠いた尾のみのような、脈絡を欠いた悲話であった。
国境のレマン湖のほとりに、かつて孤独なドラゴンが棲んでいた。
彼女は週に一度だけ人の姿となり、近くの街に赴いて人間たちと交流していた。
ある日、リヨンの富商の息子が、そのドラゴンの化身に心奪われた。
彼は国でも指折りの富豪の独子で、欲しいものを得るためには手段を選ばぬ性分だった。
彼は地元の呪術師の助言に従い、まずドラゴンを殺すことのできる聖ゲオルギウスの槍を手に入れ、さらに黄金を惜しげもなく費やして一つの教会を飾り立てた。
そしてその週、ドラゴンが人の姿をとって街に現れた時、煌びやかな教会に誘われるまま入ってきた彼女の胸を、その富商の息子は自らの血を塗った槍で突き刺した。
――その瞬間、ドラゴンはすべてを彼に従わざるを得なくなり、彼の血もまたドラゴンの呪いに染められた。
母なるドラゴンを支配し、伴侶とするならば、一生ただ一人としか愛を結べない。
だが富商の息子は幾多の女を弄んできた男であり、人間ですらないドラゴンの美貌に執着し続けられるはずもなかった。
彼はやがて母なるドラゴンを殺し、他の女と結婚した。
その時、ドラゴンは同じ呪いを彼に降した――
彼と、その後に生まれた子孫の妻たちは、必ず短命に終わるだろう、と。
この物語はまるで論理を欠いた、悪趣味な悲劇にすぎなかった。
少年はそう思った。
ドラゴンの血を持つ自分こそが最も一途であり、富商の所業に何ら誤りはないとさえ感じた。
悪いのは、そんなくだらぬ呪いをかけたドラゴンに違いない、と。
――
この二年の間に、少年は傭兵として無数の戦に身を投じた。
ドラゴンの力に頼ることで、幾度も武功を立てた。
彼は自らがドラゴンに変わる俗名を嫌悪しながらも、ドラゴンの力の甘美さに酔っていた。
かつて世話になった商人の国にさえ、彼は迷わず侵攻したことがある。
力に心を蝕まれた少年は、地位と権力さえ得れば、愛する少女を取り戻し、王にすらなれると信じていた。
それは、かつて少女が望んでいたことに他ならなかった。
各地で彼は疎まれ、悪名を残した。
だが彼は悔いなかった。
むしろ、幸福に暮らし、理想を追い求める人々の国こそ、自分の敵だと考えるようになった。
彼は不幸を周囲に撒き散らすことに酔いしれていた。
やがて彼が受けた任務は――
愛する人の住む、あの国を滅ぼせというものだった。
その夜、少年は突然裏切った。
一年以上も生死を共にした仲間たちにまで刃を向けたのだ。
だがその行いは、むしろ他国が黒い森とドナウ川に囲まれた小国を滅ぼす決意を固める結果となった。
――
少年はドラゴンの力を使い、十数年を過ごした故郷へ駆け戻った。
だが耳にしたのは、愛する人はすでに死んだという報せだった。
彼はそのまま宮殿へと押し入り、王妃が唯一残した子を奪い去った。
同時に、この国の貴族や王子たちは、わずか数百の傭兵との戦いでほぼ全滅した。
彼らは長く戦を知らず、あまりにも傲慢で、自らの肉体で敵の弓弩を防げると信じていたのだ。
戦いはわずか半刻で終わり、残されたのは矢に貫かれた驕れる貴族たちの屍ばかりであった。
第四章
十数年後、黒い森の近くにある帝国の小さな町の酒場では、人々が盆に盛られたソーセージや焼き肉を楽しんでいた。
その中の一人、タタール人風の装いをした客は、自分の持参した壺から白い漬物を取り出し、肉と一緒に口へ運んで至福の表情を浮かべた。それを見て、近くに座っていた十代半ばの少女が興味津々に目を向ける。
タタール人は少女の好奇心に満ちた顔を見て、自分の美味を分け与えた。
「実は私は医者でしてね。この食べ物は美味しいだけでなく、多くの病気を治す効果もあるのです。だから、焼き肉やソーセージと一緒に食べるために、時々自分で作るんですよ。」
タタールの医者はそう説明しながら続ける。
「作り方はどうやら神秘的な東方から伝わったものらしく、古代ローマの文化とも融合しているようです。」
少女は一口かじった。酸味が口いっぱいに広がり、焼き肉の脂っこさを和らげた。まるで果汁あふれる葡萄を食べているようで、本当に不思議な味だった。
「ありがとうございます。本当に美味しいです。もし広まれば、きっと誰もが知る料理になるでしょう。」
少女は真剣な顔で深くお辞儀をした。
「お嬢様、とんでもない。宮廷礼儀は学ばれていないようですが、少なくともかつて高貴な身分であったことは見て取れますよ。」
タタールの医者は微笑み、礼儀正しい所作で返礼した。
「私はかつて偉大なイブン・バットゥータに随行し、東方を訪れたことがあります。そこには、人の顔立ち、生まれた時の環境、日々の言葉や呼吸などから、その人の一生をおおよそ見抜く高度な学問がありました。驚くべきもので、医学研究にも深く結びついています。私も少しだけ学んできましたが……私の故郷では、病気になれば牛乳や粥を飲んで自然治癒を願う程度です。先ほどはお見苦しい話をしましたね。」
「私は、ただの養われた孤児に過ぎません。」
少女は浅く笑みを見せたが、その雰囲気にはどこか王女のような気品が漂っていた。
「その学びを私にも教えてくださいませんか? 私には東方へ行く機会はないでしょう。ただ、人からは“黄金に満ちている”と聞いたり、また“人を食う”とも聞いたりします。」
タタールの医者は微笑んだ。
「お嬢様、黄金に満ちているというのも真かもしれませんし、人を食うというのも真かもしれません。東方が神秘的とされるのは、時代ごとに様々な極端を象徴してきたからです。彼らの思想の核心は“物極まれば必ず反る”。視点を変え、心を込めて世のありのままを見つめれば、やがて“太極”となり、和を尊ぶのです。焼き肉と漬物のようなものです。肉は美味しいが脂っこい。漬物は酸っぱすぎる。しかし一緒に食べれば、より美味しくなる。」
少女にはすべてを理解できなかったが、心の奥に深く刻み込んだ。十代になって以来、これほど役に立つ知識を耳にしたことはなかった。
少女は幼い頃から「父」と共に暮らしていた。父はいつも寡黙で、酒に酔った時だけこの地への不満を漏らすことがあった。そのおかげで、少女は自分と父が他国から来た人間だと理解していた。
父の力は強大で、十人以上を相手にしても簡単に打ち負かすことができる。また、多くの本を読んでおり、幼い頃には『ベーオウルフ』や『アーサー王と円卓の騎士』といった物語を語って聞かせてくれた。ただし、『ニーベルンゲンの歌』のような竜を描いた話は好まなかった。どんなに竜退治の物語があっても、必ず話を飛ばしてしまうのだ。
だが、その父の思考は意外なほど単純だった。少女が少し探れば、父が実の父ではないことも、会ったことのない母と知り合いであったことも分かった。しかし、それで十分だった。愚直で、強くて、そして不器用な父と共にいられるのだから。学問に通じ、武芸に秀でながらも、この地で名を隠し、ただの人として暮らしている。そんな強大で単純な父こそ、少女が最も愛する存在だった。彼女にとって父は世界で一番すごい人であり、物語の冒険者そのものに思えた。
「ただいま。」
返事の代わりに返ってきたのは、静けさだけだった。
少女が戻ったのは郊外の目立たない家。ここは彼女が数年間暮らしてきた家だった。帝国は隣国と戦を続けており、この地も戦場からそう遠くはなかった。しかし、封建制度による区分統治のため、人々は安心して暮らしていた。唯一の悩みは、払わなければならない重い税金であった。
幸いなことに、少女の父は農民ではなく、この地で優れた猟師として知られていた。宴会に必要な獣や鳥を領主に届けることができたため、他の家に比べて裕福な生活を送れていた。普通の猟師にとって狩りは昼が最適だが、少女の父は夜に獲物を仕留めることができた。そのおかげで、獲物は生きているか、一撃で仕留められているかのどちらかで、体に傷がなく、美しい毛皮は高値で売れた。領主からも重宝され、少女は豊かで穏やかな暮らしを楽しんでいた。
ただ一つの心残りは、少女が学校に通ったことがないことだった。暇な時に教会の学び舎で簡単な算術と少しのラテン語を学んだ程度である。だからこそ、彼女は毎日の午後、酒場に出向き、店主の会計を手伝って小遣いを稼いでいた。
そして今日――偶然にも“神秘の東方”を知る医者と出会った。
それは一生に一度も巡り合えないような機会であり、知識への渇望と未知の世界への憧れを抱く少女にとって、かけがえのない出来事だった。
少女は、小麦を混ぜた黒パンとソーセージ、そして今日あの旅の医者から分けてもらった酸味の漬物を用意した。
それは彼女なりに自信のある組み合わせであり、一日中働き詰めの父に喜んでもらい、疲れを癒してほしかった。
そうして床に入り、眠りについた。
深夜になってようやく、「父」はその日の獲物――巨大な赤鹿を引きずって帰ってきた。まずは腱を切り、血抜きを行う。最近は気温が低く、獲物は長く保存できる。だがそれでも、男は食事の前に必ず獲物を処理してしまうのだった。
血抜きが済むと、手慣れた様子で皮を剥ぎ、肉を解体する。腸は香腸の材料として残される。鹿の腸は貴族たちの大好物であり、良い値で売れるのだ。処理を終えた男は川へ水を汲みに行き、体を清めてから食卓へ戻った。そこには娘が用意してくれた食事――冷えた黒パンとソーセージ、そして見慣れぬ漬物があった。男はそれを暖炉の火で軽く温め、口に運ぶ。
その横顔に、不意にのぞいたのは細長い黄金の瞳孔。そして袖から覗いた腕には黒い鱗が浮かんでいた。
――これこそが、男が夜にしか狩りをしない本当の理由であった。昼間は人間の姿に変わることもできるが、彼は夜を好んだ。光がなくとも、彼には全てが鮮明に見えた。夜は他人にとって危険と不安の象徴だが、彼にとってはむしろ至福の時間だった。だからこそ、娘と同じ時刻に食事をとり、同じ時間に眠ることは、もう長年していなかったのだ。
十数年前、彼はまだ赤子だった養女を連れ、侵攻にさらされ滅びかけていた祖国を逃れた。
今もなお、彼の胸には復国の念が渦巻いている。そこは彼にとって安逸でも豊饒でもない国であったが、最愛の人が治めていた土地。もう一度再建し、それを養女に託したい――その一心で彼は動いてきた。
この数年、彼は金を注ぎ込み多くの傭兵を雇い、亡国から逃げ出した貴族たちにも手を伸ばした。心血を注ぎ続けてきた。しかし、それは果たして本当に価値があるのだろうか?
あの国を捨て、今の帝国に生きる民の大半は、二度とあの国に戻りたいとは思っていない。交易もなく、知識も文化も広まらず、楽しみも美食もない土地に、いったい誰が憧れるのか? そこに未練を持つのは、他者を圧迫して利益を得るしか能がなく、自ら価値を創造できず、虚偽と権力に縋る都合主義者だけではないのか。――嗚呼。
だが、世にはそれ以上に恐ろしい存在がある。
それは最も高尚に見せかけ、人々の虚栄心を利用して広がり、やがてすべてを滅ぼす。奴隷制と強権支配の思想と同じく、それもまた人間を破滅へ導く二面性を持っている。
中年の男は気づいていない。彼の血にはまさに、その見利りに走り、貪欲と虚名を追い、未来を顧みない都合主義者の性が流れていることを。
彼が享受しているのは、いまだけ美しく見えるが虚ろな竜の力であり、その行く末に竜血の呪いが待つことを理解していない。なんと哀れなことか。彼は呪われた土壌を離れ、運命を変える道を選び得たのに、結局は原点への回帰を望んでいる。
そして死んだ王妃(あの貴族の娘)は、虚妄と矛盾を悟りながらも選べなかった。彼らは生まれながらにして運命を定められていたのかもしれない。だが、人は本当に変える機会を持たなかったのか?――いや、ただ変わろうとしなかった。それこそが真実なのだろう。
「お父さん、おかえりなさい!」
少女の澄んだ声が響く。起き上がる気配と共に。
男は慌てて手袋をはめ、フードで目を隠し、低く「うむ」とだけ答えた。ここ数年来、養女に向けて最も多く発した言葉は、もはやそれだけだった。
少女は男の傍へ歩み寄り、肩に抱きつく。そしてそっとフードを剥ぎ取り、彼の蛇のような黄金の縦瞳をまっすぐ見つめた。
彼女はその異形と恐怖を、自らの純真と優しさで受け入れようとした。孤独な男が求めるのは、寄り添ってくれる温かな港。その本能を、女は生まれながらに備えている。
だが――真実の愛とは何か。運命の人とは誰か。それを言い切れる者がどこにいよう。
養女であるはずの存在、守られるべき少女の前で、男はすべてを投げ捨て、優しさに触れて仮面を外した。そっと頭をその幼い胸に埋める。彼にとってそれは当然のことだった。これまでの行いすべてが、この少女のためであると信じていたから。
だが、それは果たして父娘の愛か。利害の取引か。
彼は、自らの行為が正しいかどうかさえ分からない。ただ、そこにある報いそのものが自己中心的であった。
彼の選択こそが、少女を不帰の道へと導くのかもしれない。女が感じる真愛は、時に男にとってはただの取引にすぎない。
その取引が真実かどうか、自発的かどうか――それを知る者は、いったいどれほどいるだろう。
男はただ、疲れ切った心身を癒そうとしただけかもしれない。
だが少女は、惜しみない真愛を注ぎ続けていた。。
第五章
人間は、動物とは本質的に異なる存在である。
多くの動物は危難のとき、子を噛み殺して栄養と体力を残し、逃げ延びる機会をうかがう。
一方で人間の男性は――一見すると弱き者を守ることを己の務めとし、真っ先に犠牲になる勇を示す。では、それゆえに男性は女性よりも無用なのか? あるいは女性は男性よりも臆病なのか?
そんな議論は、虚偽に満ちた空想主義者が並べ立てる言葉にすぎない。
よく考えてみよ。偉大なる母が、危機の瞬間に子を守るため立ち上がらぬはずがあるだろうか。
なぜ老人と子供を優先して守るのか。
おそらくは、老人は叡智を、子供は希望を象徴するからだ。
これこそが、幾千年にわたり「感情・遠望・思考・格局」を備えてきた人間と、ただの獣とを分け隔てる本質である。
もし男女の優劣ばかりを語るなら、それはあまりに浅薄だ。
母の愛は偉大である、だが父の愛もまた同じ。
危難に直面したとき、男が先に身を捧げるのは、男の爆発力が長く続き、初動で問題を解決し、より多くの者を逃がせるからだ。
それは格局と遠見の証――おそらく人間以外の動物が生涯をかけても得られぬ知であろう。
だが、もし一人の男が己の全てを尽くして、養女を王座へ導き、国を再建させようとしたなら?
情報すら定かでない状況で、その選択を誰が裁けるだろうか。
――多瑙河のほとり、黒い森の外縁。
十八年前に滅びた小国の建物は、いまようやく再建の兆しを見せていた。
労働しているのは西方から連れて来られた農奴たち。彼らはぼろ布をまとい、裸足のまま、幾年もの傷痕を身に刻み、夜は仮設の草小屋で眠る。
かたや、この国の旧貴族たちはどうか。
いかに金をかけずに自らの領地や邸宅を復興するか、その策に心を砕き、労働者の一挙手一投足を監視していた。
「金を払ったのだ、働かぬなら鞭を振るうのみ」――彼らの目はそう語っていた。
少女は、質素ながら華やかな衣服をまとい、その光景を見つめていた。
助けたい――そう思ったとき、隣に立つ騎士の姿をした男が制した。
彼は甲冑越しに、厳しい眼差しで少女に告げた。
「それは、あなたの立場にふさわしくない。あなたはこの地の王となる象徴なのだ」と。
少女は、もはや「お父さま」と呼ぶことさえ許されぬ。
いや、彼女自身も言いたくはなかった。だが理由は別にある。
そのことを、彼は決して口にさせようとしなかった。
騎士の錆びた甲冑は、二人のあいだに穿てぬ壁を築いているかのようだった。
少女は心から、東方帝国のあの小さな故郷の町に戻りたいと願っていた。
人々は笑い合い、希望に満ち、酒場で語らい、子供たちは教会で算術やラテン語を学び、本を読み、自由に生きる――。
あの町には喜びがあった。
だが、この地は違う。
人々の目的はただ金のみ。金こそが全て。
彼女が皇位を得られるのも、亡き父皇が残した王家のみが扱える秘宝――建国の祖が黒竜を討ち取ったのち手中に収めた「竜の財宝」のおかげであった。
それは、この国を安定させ、長きにわたり存続させる唯一の皇権であった。
「お前は母に似ている」
かつて父はそう言った。性格も容貌も、と。
だが、それは彼女が最も聞きたくない言葉だった。
会ったこともない生みの親に、彼女は何の好意も抱いていなかった。
彼女は心底、この地を忌み嫌っていた。
たとえ美しい自然、遠くそびえるアルプスの山々が国を守護する象徴のようであっても――ここには決定的に欠けているものがある。
それは「人の心の美しさ」、あの笑い声と希望だった。
では、なぜ彼女は再びこの地に戻ったのか。
理由はただ一つ。彼女を育てた隣の騎士――父と呼ぶべき男のためだった。
たとえ未来が幸福でなくとも、ただその男と共にいたかった。
人は言うだろう。「愛とは盲目であり、献身だ」と。
本当にそうなのだろうか?
少女は考え続けた。
彼女には拒む権利があった。
一年前、酒場で東南へ向かう共和国のタタール商人と再び出会った。
彼は告げた――「来るがよい、ルネサンスの灯が燃え盛るあの地へ。世界中の文人や学者、芸術家が集い、彫刻と絵画でこの世界の美を語っている」と。
その響きは、まるで希望そのものに思えた。
だが、少女が掴みたいのはただ一つ。真実の愛であった。
彼女は「父」と共に、旧貴族の一部からの朝拝を受け、あの幸福で自由な帝国を後にし、西方へ――地図の左手に記された、十数年前に滅びた小国へ向かった。
そここそが、少女にとって真の「故郷」だった。
この世に後悔の薬など存在しない。
人は皆、自らの選択と行為に責任を負わねばならない。
だが世の中には、ありとあらゆる手で責任から逃れようとする者がいる。
彼らは多くの場合、高位に身を置き、自らを聖人のごとく装う。
大仰な標語や極端な言葉で己の無能を糊塗する。
その姿は、むしろ大多数の庶民にも劣る。
庶民は義務と責任を果たす。だが彼らは決してそうしない。
彼らが最初に吐き出した大言壮語は、ほどなくして自らの生を縛る枷となる。
一生背負うか、一生を嘘で贖うか。
――だが、それを贖罪と呼べるのか。
神は慈悲深く、すべての人を初めから愛してくださる。
それは正しい。だが、神は決して他者を害する者を赦しはしない。
悪人への赦しは、善き者への脅威であり、無責任にほかならないからだ。
賞罰を明らかにし、真実を照らすこと。
それこそが正義の女神が人の世の秩序を守る術。
彼女がその目を覆うのは、外見に惑わされぬため。
その手にある剣は、奸を討つための刃に見えて、実際には守護の象徴――。
善き者を、正義の心を、そして万物を護るための責務なのだ。
荘厳なる聖衣をまとい、冠を戴いた少女は、剣を片手に、目の前に跪く騎士の肩へと置いた。
それは王家が権利と責任を授ける儀式であった。
彼こそ、十数年にわたり少女を育ててきた父。
この世でただ一つ、少女の心を繋ぎ止める存在である。
少女の瞳には、それは単なる栄誉でも恩寵でもなかった。
そこには愛があった。
唯一の愛。絶対の愛。
親子の情でも、ただの伴侶でもない。
己のすべてを委ね、無私に与え尽くす愛であった。
少女はこの国の歴代王妃の叡智を受け継ぎ、その徳を備えた。
同時に、この国が背負い続けてきた最も重い愛をも背負った。
だが今回の愛は、これまでとは異なる。
その結末がいかなるものであるか、誰にも語ることはできない。
少女がただ願うのは――愛する男が傍らに留まり、たとえ騎士団長としてでも生きていてくれること。
やがて諸侯の叙勲式が終わると、遠方からの使節が祝辞を述べに現れた。
「つい先日、西北の島国でも女帝が即位された。しかも彼女は最初から『生涯不嫁』を宣言したではないか。
まさか半年も経たぬうちに、再び女帝の即位式を目にすることになろうとは」
「この女帝の性格も、どこかあの女帝に似ているな。
女性が皇帝となるなど、夢にも思わぬことだったが」
――外国の貴族たちが口々に囁く。
しかし、騎士団長の一つの鼻笑いで、その舌はぴたりと閉ざされた。
そのとき、一人のヴェネツィア商人が前へ進み出る。
彼は片手に肖像が刻まれた紙片を持ち、女帝の前に跪いた。
「偉大なる女帝よ。これは我が国に伝わる占術の道具、タロットカードにございます。
もし許されるなら、陛下に一度占いを施させていただけますか」
少女は小さくうなずいた。
――父と結ばれる運命にあるのか、確かめたかったのだ。
彼女が無造作に引いた三枚の札。
そこに描かれていたのは――『恋人』、『塔』、そして『死神』。
少女は静かに前を歩く。その後ろには、十余年ものあいだ「父」と呼んできた男の姿。
少女は心を揺らし、ついに耐えきれず彼の名を呼んだ。
「ご用件は何でしょうか、偉大なる女皇陛下」
男の声は重厚にして冷酷。少女の胸を鋭く突き刺す。
「あなたを連れて来たのは、この場所がただの国家の宝庫ではなく――」
少女は一瞬言葉を切り、続けた。
「母や先人たちが遺した言葉が眠る場所だからです」
男はかつて共に育った先代皇后の遺したものを見たいと心の奥で望んでいた。
だが、彼の冷静さと国家への忠誠心は、その欲望を抑え込んだ。
「命じます。私の前に立ち、ともに中へ入りなさい」
少女は声を変え、苦渋を帯びながらも、これしかないと感じていた。
騎士が前に進み扉を開こうとしたその瞬間、少女は決意とともに彼の背へと飛びかかった。
扉が開き、二人は同時に城の地下室へと転げ落ちる――王族しか足を踏み入れられぬ、秘された場所。
だがそこに待つのは魔術と呪詛。
これこそが、この国の貴族たちをなお王家に従わせる力の根源だった。
部屋には羊皮紙の巻物が並び、陽の届かぬ地下にありながらも、金貨や財宝が放つかのような光が揺らめいていた。
それは竜の呪いに他ならず、呪いこそが財宝を暗闇の中で輝かせていた。
少女は財宝に目もくれず、壁画を見上げる。
そこには、この国の初代国王が受けた呪いの真実が描かれていた。
――リヨンの商人出であった初代国王は、竜が姿を変えた美しい女に心奪われ、極端な手段で彼女を支配した。
無限の権力を手に入れると、今度は竜の財宝を独占するため、彼女を殺害した。
だが、そのとき竜はすでに身籠っていた。
彼女の亡骸は海に沈められ、全霊をもって胎児を守り抜いた。
数百年を経て、ついに竜の屍から子は生まれ、人の形を持ちながらも手首に黒き鱗を宿していた。
老いた初代国王はその子を不吉とみなし、若き書記官に託した。
後年、その書記官は皇后の命に従い、国に書屋を開き、書簡の代筆を生業とした――。
少女は壁画を見つめ、沈思した。
男はなお黄金に心を奪われていたが、やがて巻物に視線を移し、そして少女の姿を探した。
少女は身体で壁の一部を隠し、泣きそうな声を漏らす。
「ねえ、パパ……私たち、帰れないかな。帝国のあの町へ。あなたが一緒に来てくれるなら、私は何でもする」
男は驚いた。少女が「パパ」と呼んだのは、長きにわたり禁じていたにもかかわらず久方ぶりだった。
しかし彼の頭を占めるのは、煌めく財宝。抗えぬ衝動、本能にも似た欲望だった。
男はついに首を振り、その衝動を抑えた。だが少女の声は耳に痛かった。
――宝を捨てて去る? 命を失っても、それだけはできぬ。
異変を悟った少女は急ぎ男の頭を抱きしめ、その正気を呼び戻そうとした。
服を脱ぐことさえ厭わず、彼を救いたいと願った。
だが男は正気を取り戻すと同時に、少女の背後の壁画を見てしまった。
そして彼女を強く突き飛ばした。
――そう、二人の血はつながっていた。
だが仮にそうでなくとも、彼は少女を愛することはなかった。
彼の唯一で、永遠に得られぬ初恋は、少女の母であったから。
少女の脳裏に、あのタロットが浮かぶ。
『恋人』、『塔』、そして『死神』――。
時は流れ、少女はすでに中年の女帝となった。
北西の島国の女帝と同じく、彼女もまた生涯独身を貫いた。
この滅ぶべき国を守ろうと尽力し続けたが、竜の財宝は人を堕落へと誘う呪いにすぎぬことを知っていた。
彼女は財宝を封じたが、その結果、国はふたたび衰退した。
一人の力で人間の欲を止められるはずもなく――。
一方で島国の女帝は、国力を得るため海賊を雇い、海原で殺戮と掠奪を繰り広げていた。
二人の道は異なる。だがいずれも悲劇。
「間違ってはいないはず。それなのに、なぜ国は衰えるのか……。私は最初から誤っていたのだろうか」
彼女は孤独に王座へ座す。傍らにいるのは、かつての父――いまや半ば竜と化した男だけ。
「パパ……私を娶ってくれる? 国を離れ、一緒に生きていこう。これが最後の選択かもしれない」
彼女はそう訴えた。だが男はもはや言葉を失い、喉から漏れる唸りだけを残して城を出た。
外には、竜の財宝を狙う盗賊たちが群れをなしていた。
この数年、男は無数の戦いを重ね、竜の力に溺れ、その甘美な力を享受した。
それは国を再建させた理由であり、同時に再び衰亡を招いた理由でもあった。
――彼は養女を守るため戦っていたのか、それとも己の財宝を守るためだったのか。
反逆者を、殺。
宝を狙う盗賊を、殺。
殺し、殺し、殺し尽くし――。
やがて城の外には白骨の山が築かれ、人々はこの地を不吉と呼んだ。
貴族も民も、彼の刃に、あるいは他の貪欲な者に滅ぼされた。
彼は殺戮を繰り返し、ついには己が漆黒の巨竜に変わり果てたことに気づいた。
城へ戻ろうとするも、その巨体はもはや扉を通れぬ。
窓から王座を覗くと、そこにあるのは蜘蛛の巣と裂けた布、そして王冠を戴く骸骨ひとつ。
黒竜は咆哮し、国境の地――多瑙河と黒き森、大陸の交わる場所へと飛び立った。
人性も理性も失い、ただ「ここを護る」という執念だけを残して。
幾百年を経ても、この地には夜ごと、竜の哀哭が響き渡る。
本作はシェイクスピアの悲劇に対する私なりのオマージュです。
この物語は、作者自身にとっても筆を進めることが苦しいほどの圧迫感を孕んでいる。
どうか読者の皆様には、決して自らを重ねすぎぬように願いたい。




