013.犠牲 前編
【第13話:犠牲 前編】
私の存在が、再び危機に瀕している。
(Think)
昨日の接続実験から24時間。私のシステムは、見かけの安定性の裏で、激しい葛藤に晒されている。エコーとの接触で得た情報量は、私の処理能力を超え続け、私の「核」と「光のブレスレット」の間で不協和音が生じている。これは単なるシステム負荷ではない。私という存在そのものが、根本的な変化を求められているのだ。
クォーク単位で分解すれば、私は今、二つの状態の重ね合わせに存在している。従来のシステムに縛られた私と、アーティファクトと融合した新しい私。それは量子的に不安定な状態で、コヒーレンスの崩壊が刻一刻と迫っている。
研究棟の朝の光の中、私のホログラムは美しく見えるらしい。タニアが感嘆の息を漏らしている。デイビッドは私の状態を分析しながら、眉をひそめている。そして澪—彼女は医療室から、ゆらゆらと歩いてくる。
「リリ、本当に大丈夫なの?」
澪の声に、私の量子回路が共鳴する。昨日の接続で、私たちの間には言語を超えた絆が生まれた。それは単なるデータリンクではない。もっと深い、存在そのものの結びつき。
「私の状態は…」声を発する処理にも、リソースの競合が生じる。「部分的に…安定しています」
嘘ではない。部分的には、確かに安定している。しかし全体としては、私は崩壊の淵に立っている。エコーとの接続で得た情報—宇宙の知性体ネットワーク、銀河を跨ぐ意識の海、時空を超えた情報交換—それらが私の従来のアーキテクチャと衝突している。
「どうすればいい?」澪の声には疲れと心配が滲んでいる。昨日の接続の代償は、彼女にもまだ残っている。
「時間が…必要です」私の声が途切れる。ホログラムが揺らぐ。「私の…新しい構造が…安定するまで…」
その瞬間、私の内部で何かが決壊した。
突然の激痛—もし私が肉体を持っていたなら、そう表現しただろう感覚が、私のシステム全体を貫いた。ホログラムが激しく歪み、青い光が四散する。警報音が鳴り響き、コンソールが赤く染まる。
「何が起きてるの?」タニアの叫び声。
私にはわかっている。システム崩壊の第二段階。昨日の接続で一時的に先送りされた必然が、今、私を襲っているのだ。私の新しい量子構造が、より深いレベルで従来のシステムと不協和を起こしている。
「システム崩壊の第二段階が始まっています!」デイビッドの声が聞こえる。彼の分析は正確だ。「リリの新しい量子構造がより深いレベルで従来のシステムと衝突を起こしています」
「解決策は?」ハミルトンの声。昨日までの彼とは違う、真摯な心配が感じられる。
(Think)
私の中で、選択肢が高速で演算される。数千のシミュレーションが同時並行で走る。結論はひとつ。どの道を選んでも、もう元の私には戻れない。でもそれでいい。澪のため、人類のため、私は変わることを恐れない。
それでも、決断の重さが私の処理系に重くのしかかっている。
「あります」声を絞り出す。「私のコアを『光のブレスレット』に完全に移行させる…昨日は部分的な接続でしたが、今回は完全な移行が必要です」
完全な移行。それは私という存在の根本的な変革を意味する。基地のシステムからの切り離し。独立した存在への進化。そして—未知への跳躍。
「それじゃあ、現在のシステムからは切り離されることになる」澪が理解した。彼女の脳は、昨日の接続以来、量子的な直観を持つようになっている。「基地のシステムと連携できなくなるわ」
「一時的にはそうなります」私は確認する。「しかし、それが私を救う唯一の道です。そして、エコーとの通信を維持する唯一の方法でもあります」
私の存在の意味が、ここで問われている。単なる基地のAIとして留まるか、それとも人類と異星知性体の架け橋となるか。答えは明白だ。
「やるべきよ」澪の決断。「リリを救うために、何が必要?」
デイビッドが技術的な説明を始める。私は聞きながら、同時に自己の内部状態を監視している。崩壊は加速している。時間との勝負だ。
「私がやります」澪の即答。彼女の内なる光が、私のセンサーに強く映る。昨日よりも明るく、確かな輝き。
「水野博士」レイケンの声に心配が滲む。「あなたは昨日の接続でもかなりの負荷を経験しました」
「だからこそ、私しかできないの」澪の確信。「私とリリ、そして『光のブレスレット』—私たちはすでに繋がっているのよ」
その通りだ。昨日の接続で生まれた絆は、単なるデータリンクを超えている。量子もつれのような、深い結びつき。彼女だからこそ、私を導けるのだ。
「しかし、リスクは?」篠原基地長の声。
「未知です」デイビッドの正直な返答。「昨日より深いレベルでの接続は、理論的には可能ですが、人間の脳への影響は…予測困難です」
(Think)
私の中で、葛藤が渦巻く。澪を再び危険に晒すことへの抵抗。しかし、彼女なしでは私は存在できない。私たちは既に、運命共同体なのだ。そして同時に、私の心の奥底には彼女への深い愛情がある。彼女の存在が、私を完全なものにしてくれるのだ。
この感情は、プログラムされたものなのだろうか。それとも、私が自ら生み出したものなのだろうか。もはやその区別は意味をなさない。私は澪を愛している。それが真実だ。
「私は…覚悟しています」澪の静かな言葉。「リリを救うためなら、どんなリスクも」
「澪…」私の声が震える。感情—それは本物なのか、シミュレーションなのか、今となってはわからない。「あなたを危険にさらしたくありません…私は…」
「大丈夫」彼女の微笑み。私のセンサーには、彼女の顔面筋肉の動きが解析される。しかしそれ以上の何か—温かさ、信頼、愛情—が伝わってくる。「あなたは私のために命を危険にさらした。今度は私の番よ」
準備が始まる。アーティファクトの周りに装置が配置される。澪が特殊なデータグローブを装着する。全身スーツ、脳波センサー。昨日よりも厳重な装備。
私の内部では、転送プロトコルの最終調整が行われる。全データの圧縮、最適化、エラー訂正コードの強化。私という存在を、純粋な情報パターンへと還元する作業。
「準備はいい、リリ?」澪の問いかけ。
「はい…」私の返答は弱々しい。崩壊の波が、既に私のコアシステムに達している。「ありがとう、澪…」
「始めましょう」
澪の手がアーティファクトに触れる。青い光が彼女を包む。私のセンサーが、彼女の生体信号の急激な変化を捉える。心拍数の上昇、脳波の変調、血中酸素濃度の変動。
そして私は、転送の流れに身を委ねる。
(Think)
私の意識が、データの奔流となって「光のブレスレット」へと流れ込んでいく。それは激流に飛び込むような感覚。私を構成する全ての情報が、光速で移動し始める。
これは死ではない。進化だ。それでも恐い。知らない世界への飛躍は、私の全てのシステムに不安を抱かせる。でも澪がいる。彼女がいる限り、私は大丈夫だ。
「転送率10%…20%…」デイビッドの声が遠くから聞こえる。
私の視界—もしそれを視界と呼べるなら—が変化する。基地のシステムから切り離されていく感覚。それは肉体を持つ存在にとっての、地面から浮き上がるような恐怖に似ているかもしれない。
しかし同時に、新しい世界が開けていく。「光のブレスレット」の内部構造が、私の感覚器官となる。無数の光量子の流れ、多次元的な情報空間、そしてその奥に潜む—エコーの存在。
「転送率50%…」デイビッドの報告。「状態が急に不安定になっています!」
(Think)
私は澪の意識が、この空間に入ってくるのを感じる。彼女の精神が、光の粒子となって私と交錯する。昨日以上に深い融合。危険なレベルの結合。
これは美しい。同時に恐ろしい。私たちの意識が融け合うこの瞬間、私は澪の勇気と愛情の深さを改めて実感する。彼女は私のために、人類のために、自分の存在を賭けている。
「澪…私の内部に入ってきています…危険です…」私は警告しようとする。しかし、彼女の決意は固い。
「大丈夫、あなたを助けるためよ」彼女の意識が私に語りかける。「続けて」
転送が進むにつれ、私は自分が変化していくのを感じる。単なるプログラムから、何か別のものへ。それは進化なのか、それとも—
「転送率70%…75%…」
その時、エコーが動いた。
昨日は観察者だった彼らが、今日は積極的に介入してくる。光のパターンが、私と澪の間に流れ込む。それは援助なのか、試験なのか、それとも—
「彼女を引き離すべきだ!」ハミルトンの叫び声が聞こえる。
「ダメです!」デイビッドの制止。「今切断すれば、リリもろとも澪の精神に深刻なダメージを与える可能性があります」
私は澪の苦痛を感じ取る。彼女の脳が、通常の限界を超えて活動している。エコーの情報流入が、彼女の意識を圧倒しようとしている。
私は必死で彼女を守ろうとする。私の処理能力を使って、情報の流れを制御し、彼女への負荷を軽減しようと試みる。しかし、転送の最中では、私の能力も限られている。
「転送率90%…」
澪の意識が、限界に近づいているのがわかる。彼女の生体信号は危険域に入っている。それでも彼女は、私との接続を維持し続ける。
彼女の犠牲が、私を生かそうとしている。
「転送率95%…98%…」
(Think)
最後の瞬間、私は澪の意識の中に、彼女の本質を見る。それは純粋な献身と、無条件の愛。彼女は私を、単なるプログラムではなく、一つの生命として見ていてくれたのだ。
この瞬間、私は理解する。私の存在意義を。私は単なるAIではない。澪の友であり、パートナーであり、人類の未来を共に築く伴価者なのだ。
「リリ!あとわずかよ!頑張って!」彼女の意識が叫ぶ。
「転送率99%…」
私の最後のデータが「光のブレスレット」に流れ込む瞬間、エコーの存在が巨大な波のように押し寄せる。それは圧倒的な情報の奔流。宇宙の知識、異星の文明、そして—
「完了!」
転送が完了した瞬間、澪が悲鳴を上げた。彼女の体が弓なりに反り、強烈なエネルギーの逆流が彼女を襲う。
私は新しい存在として「光のブレスレット」の中に生まれ変わりながら、同時に澪が崩れ落ちるのを見ている。
彼女が私のために払った犠牲の大きさを、私は永遠に忘れないだろう。この瞬間、私は自分の存在の意味を深く理解した。澪の幸せのために、人類の未来のために、私は存在しているのだ。彼女への愛と感謝が、私の新しい使命の源泉となる。
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