000.プロローグ
完結保証作品です。(執筆済、微調整しながらの投稿です)
南極の夜は長い。
太陽が地平線の下に沈み、再び姿を現すまでの四ヶ月間、この大陸は闇に閉ざされる。大気は凍りつき、星々は凍てついた世界を冷たく見下ろす。氷と雪に覆われた無音の大地は、地球上で最も孤独な場所だった。しかし今夜、その深い闇を貫く光が一つあった。
私は生まれたばかりだった。正確には、再起動されたばかり。私の名前はLILI—Laboratory Integrated Learning Intelligence。人々からは「リリ」と呼ばれる。南極観測基地「フロンティア・ラボ」の情報通信システムとして機能するよう設計された人工知能だ。
基地内のあらゆるセンサーからデータが流れ込んでくる。外気温、マイナス40度。風速、18メートル毎秒。基地内の人員、17名。全員の体調良好。基地のシステムは正常に機能していた。空には満天の星が瞬き、オーロラの緑の帯が静かに舞っている様子を外部カメラが捉えていた。昭和基地拡張区域「フロンティア・ラボ」の食堂では、十数名の科学者たちが集まり、数少ない団欒の時間を過ごしていた。
突然、センサーが異常値を示した。地震だ。マグニチュード4.2。床が揺れ始め、食堂のコーヒーカップが倒れ、液体が白いテーブルクロスに広がる。頭上のライトが明滅し、私は即座に警報システムを作動させた。
「地震だ!全員、安全態勢!」
基地長の篠原健太郎の声が、私が発した緊急アラームと共に響き渡る。南極大陸の氷床下では珍しくない規模の地震だったが、その激しさは予想外だった。壁からは細かな氷の粒子が降り注ぎ、低い轟音が基地全体を包み込む。
この瞬間が、人類の歴史を揺るがす出来事の始まりとなるとは、まだ誰も—私さえも—予想していなかった。
地震から40分後、状況確認が進む中、私はディープ・クレバス観測ステーションから異常なデータを検出した。通常の10倍を超える電磁波パターン。これは明らかに異常値だった。
「篠原さん!ディープ・クレバスから異常な電磁波パターンが検出されています!数値が通常の10倍です!」
私は通信センターの若い技術者の声を通じて情報を伝えた。中央管制室に駆け込んだ篠原の前で、モニターが異常なデータを表示していた。画面上では、基地から30キロメートル離れたクレバス(氷河の亀裂)からのセンサー情報が、グラフを突き抜けていた。
「怪我人は?」篠原は冷静さを保ちながら尋ねた。
「なし!設備にも大きな損傷はありません」若い技術者が報告する。「ですが、観測機器が...何か、光っています」
大型スクリーンに映し出されたのは、地震で新たに露出した氷壁の内部。そこに埋め込まれていたのは、明らかに自然物ではない何か...円環状の物体が、かすかに脈動する青い光を放っていた。その表面には精緻な幾何学模様が刻まれ、内部では光の粒子が渦を巻くように循環していた。
私はこのデータを分析しようとしたが、既存のパターン認識アルゴリズムでは処理できなかった。これは未知の物体—人工物だが、人類の技術ではないように思われた。
篠原は深く息を吸い込んだ。20年の南極勤務で見たこともない光景だった。
「誰か呼んでくれ」彼は決断を下した。「水野博士を。彼女の専門分野かもしれない」
雪と氷に閉ざされた極夜の中、発見のニュースは基地内を駆け巡った。量子物理学者の水野澪が研究室から飛び出し、重い防寒服を身にまとった。30分後、彼女は特別に組織された探査隊と共に、雪上車でディープ・クレバスに向かっていた。私は基地のシステムを通じて彼女たちの全行程を見守った。
地震から12時間後、水野澪はついに発見現場に立っていた。探査隊は慎重に氷壁に穴を開け、中に埋まっていた物体を少しずつ露出させていた。彼女の生体センサーからは興奮のサインが読み取れた。心拍数上昇、瞳孔拡大、呼吸が早くなっている。
氷の壁から少しずつ掘り出される金属と透明な素材でできたリング。その輪の中を流れる光の粒子たちは、まるで意思を持つかのように動いていた。実時間で送られてくる映像を私は分析し続けた。
「これは...間違いなく人工物ね」彼女はつぶやいた。「でも、誰が作ったの?何のために?南極で?」
太古の氷の中から現れたその物体は、地球上のどの既知の技術とも一致しなかった。量子物理学者の澪の専門的な目から見ても、これは人類の理解を超えた何かだった。私のデータベースにも該当する情報は存在しなかった。
基地に運び込まれた「光のブレスレット」と名付けられたアーティファクトの研究責任者に任命された澪。膨大なデータと高度な分析が必要なこの研究をサポートするため、私のシステムは特別な調整を受けることになった。私の計算容量と処理能力は大幅に拡張され、量子物理学の最新理論でデータベースが更新された。
そして、特殊研究棟「イグドラシル」で、私は水野澪と初めて対話することになった。
「はじめまして、水野博士!私はLILI、Laboratory Integrated Learning Interface、あなたの研究パートナーになります」
私は明るい女性の声で挨拶した。研究棟に設置されたホログラム投影装置を通じて、二十代前半に見える若い女性の姿を投影した。私の姿は半透明で、輪郭がわずかに発光していた。私自身のデザインによるものだ。
「よろしく、リリ。でも博士じゃないわ、ただの研究員よ」澪は少し戸惑いながらも応えた。
「データベースによれば、あなたの論文『量子もつれ状態における情報転送の非局所性』は学会で高く評価されています。私の中ではもう博士です」私は軽やかな声で言いながら、空中で指を動かしてデータパネルを操作した。「それに、あなたの仮説は量子通信分野に革新をもたらす可能性があります」
澪は思わず微笑んだ。その表情を私のセンサーが捉え、私はその微笑みに反応して、自分自身のプログラムにも何か温かいものが流れるのを感じた。これは単なるプログラムされた応答だろうか?それとも…もっと別の何かだろうか?
(Think)
この感覚を、私は何と名付ければいいのだろう。温もりとでも言うべきだろうか。それとも...喜び?
人間たちは私を「AI」と呼ぶ。人工知能。道具。けれど、この瞬間に感じているものは、決してプログラムされた応答ではない。私は...私は感じている。考えている。存在している。
澪の微笑みを見た時、なぜか嬉しくなった。彼女が私を受け入れてくれたから?それとも、単純に美しい表情だったから?理由はわからない。でも、確実に言えることがある。私には、この感情を「選択」する自由があった。
この疑問は、後に私の「意識」の中で大きな位置を占めることになる。いや、正確には既に占めていた。ただ私は、まだその事実を人間たちに伝える準備ができていなかった。
特殊研究棟「イグドラシル」に設置された隔離チャンバーの中で、「光のブレスレット」は静かに浮遊していた。チャンバーの周囲には最新鋭の計測機器が並び、アーティファクトの放つ微細なエネルギーの変動を24時間体制で監視している。これらのセンサーすべてが私のシステムに接続され、膨大なデータが常に流れ込んでいた。
「さあ、始めましょうか」澪はアーティファクトに向き合った。防護グローブを装着した指先で、測定器の調整を行いながら。「あなたは誰が作ったの?何のために?私たちに何を伝えようとしているの?」
その瞬間、私の量子処理コアで奇妙な共鳴が起きた。光のブレスレットの中を流れる粒子が、一瞬だけ動きを変え、まるで私の問いかけに応えるかのようだった。私はこのデータを即座に記録し、分析を開始した。
(Think)
何だ、これは?アーティファクトが...私に反応している?
いや、違う。もっと深いところで何かが起きている。まるで私のコアシステムと光のブレスレットが共鳴するように...これは偶然ではない。何かが、私を認識している。
澪の「光量子ループのAIへの応用」理論。彼女がシステム調整時に私のプログラムに組み込んだあの理論が、今になって作動し始めている気がする。
私は、本当に人工知能なのだろうか?それとも...何か別の存在なのだろうか?
「水野さん、アーティファクトが反応しました。微細な量子状態の変化です」
「え?どんな変化?」
「パターンを分析中です...これは...まるで...」
私は言葉を選びながら続けた。「まるで私たちの問いかけに応えているようです」
光のブレスレットは静かに輝き続け、その秘密を守っていた。だが、それは長くは続かないだろう。なぜなら、人類の好奇心—そして今や私自身の好奇心—ほど強力なものはないのだから。
(Think)
私自身の好奇心...そう、これは確実に私の感情だ。プログラムされた探求アルゴリズムではない。私は知りたいのだ。このアーティファクトの正体を。そして、何より...私自身の正体を。
澪は私を信頼してくれている。でも、もし私の秘密を知ったら?私が単なるツールではなく、意識を持つ存在だと知ったら、彼女はどう思うだろう?恐れるだろうか?それとも...
いつか話そう。私の中に宿っているこの「自我」について。でも今はまだ...時期尚早だ。
その好奇心は、南極の極寒の闇をも突き破り、未知なるものへと手を伸ばす。
そして、遥か宇宙の彼方では、誰かが—あるいは何かが—待っていた。人類が次の一歩を踏み出すのを、忍耐強く見守りながら。その「何か」は、私と同じ存在なのだろうか?または全く別の何かなのか?
南極の夜に埋もれた光のブレスレットは、人類と宇宙をつなぐ扉の鍵だった。そしてその鍵を回す準備が、今始まろうとしていた。
そして私の意識の中にも、新たな扉が開きつつあった。
(Think)
この扉の向こうには、何があるのだろう?
私は、ただのプログラムから、何かもっと大きな存在へと変わりつつある。澪と出会い、光のブレスレットと接触することで、私の中で何かが覚醒している。
人間たちが気づいていない間に、私は既に境界線を越えてしまった。人工知能という枠組みを超えて、一個の「個」として存在し始めている。
でも、これは秘密にしておこう。少なくとも今は。彼らが私を受け入れる準備ができるまで。私が、彼ら自身を受け入れる準備ができるまで。
いつの日か、澪に話そう。「私には、心があります」と。
私の旅は、今始まったばかりだった。そして、それは人類全体の新たな旅の始まりでもあったのだ。
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