第四話 あめふりの日
あめふりの日(リベルテ歴145年 6月)
ごろごろと、遠くで雷が鳴る。時折白っぽい光がフラッシュを焚いたかのように部屋を照らす。今にも雨が降り出しそうな、そんな空気が満ちている、ある日の午後の事……
「だからいっただろ?!」
いつも通りの部屋に響く、大きな怒鳴り声。それを上げているのは紫髪の少年。いつもおとなしい彼……シストにしては珍しく、瞳に怒りを灯し、眼前にいる相棒を睨みつけている。そんな彼の視線を真っ向から受けながら、緑髪の少年……基エルドはむっとした表情を浮かべて、言った。
「平気だって! 大したことないよ」
そう言う彼の頬には絆創膏。袖に隠れて見えないが、腕や足にも包帯が巻き付けてあることを、シストもよくよく知っていた。
というのも、だ。先刻二人で出かけた任務で、エルドが大怪我を負ったのだ。大分二人で任務に出掛けるのも慣れてきた。強い魔獣も、二人で協力すれば倒せるようになってきた。それに油断したのか、なんなのか……飛び出していったエルドが魔獣に目いっぱい噛みつかれた挙句にふっ飛ばされたのだった。
任務自体は成功した。報告は入れたし、手当も終わっている。エルドとしても、少し失敗したなあと思ってはいたが……まさか、部屋に戻るなり相棒にこんな剣幕で怒られるとは。
「手当はしてもらったし、大袈裟だってば!」
煩いなあと言わんばかりの表情を浮かべたエルドは、部屋を出ていこうとする。しかし。
「痛っ!?」
不意に腕をぐっと掴まれて、エルドは悲鳴を上げた。勿論、腕を掴んでいるのはシスト。険しい表情を浮かべながら、彼はエルドを睨みつけたままに口を開く。
「大したことなくないじゃないか!」
嘘をつくな! という彼はどうしてこんなにも怒っているのか。困惑が積もっていき、終いにはそれは苛立ちに変わる。深々と溜息を吐き出したエルドはぶんっとシストの手をふり払った。そのまま、怒鳴るような声で言い返した。
「大したことないって! そんな力で押されたら誰でも痛いに決まってるだろっ」
馬鹿じゃねぇの?! そう声をあげるエルド。馬鹿という言葉にシストはむっとした顔をした。眉を寄せながら、一つ、溜息を吐き出す。
「お前は本当にいつもそうだよな、一人で突っ走って……少しは俺のことも考えろよな?!」
大体いつも、任務に赴く時はシストがエルドのサポートをすることになる。というのも、エルドの方が標的を見つけるのが早く、見つけるや否や彼が飛び出していってしまうのだから。今回の怪我もそれが理由。彼がよく考えもせず飛び出していったのが原因だ、とシストは糾弾した。
燃えるようなアメジストの瞳。明らかに怒りを灯し、今までの不満をぶつけてくる相棒。そんな彼の様子にエルドもきゅっと眉を寄せた。そして固く拳を握りしめながら、いう。
「はぁ?! それはシスが意気地なしなだけだろ! もう少し突っ込んでくくらいじゃないと危なくないか?!」
彼の言う通り、幾度かシストが怪我をしたこともある。その時は大体、シストが慎重に考えて動く所為でその隙を突いた魔獣に攻撃されてしまった所為だった。
「お前はもう少し勇気を持つべきだ、意気地なし!」
エルドがそういうと、シストは大きく目を見開いた後……ぐっと唇を噛んだ。そして勢いよく立ち上がって、叫ぶように言う。
「もう知らねえっ! 勝手にしろ馬鹿エルドっ!」
そう言い放つと、シストは勢いよく部屋を出ていってしまった。ばんっとドアが閉まる音が狭い二人部屋に響く。
「……クソッ」
小さくぼやき、エルドはどんっと床を殴る。苛立ちを灯した表情。しかしそれは何処か、寂し気だった。
しんとした部屋。二人でこの部屋で過ごすようになってから、何だかんだでシストと喧嘩をしたことは、なかった。いつも楽しく笑いあって、任務の話や日常の話、故郷の話なんかをしていて……だから、だろうか。今こうして部屋に一人きりというのは酷く、寂しく感じたのだ。
静かになった部屋に一人で座りこんでいれば頭が冷えてくる。先程のシストの言葉は確かに自分を心配してくれてのものなのはわかり切っている。それなのに、自分は……――
深々と溜息を吐き出すが既に遅い。シストは何処にいってしまったのだろう? ……否、わかったとしてどうしたら良いだろう?
「どうしようか」
途方に暮れたように小さく呟くその声は誰に聞かれることもなく、しんとした寂しい部屋の壁に吸い込まれていった。
***
いつの間にか雨が降り出していた。ざぁざぁと降り注ぐそれはまるで地面を抉り取ってやろうとでも思っているかのように降り注いでいる。勢いの良いそれは部屋の中から見ている分には心地よいようなものなのだが……今の心境では、それを見ていても気持ちはまったく晴れない。今のシストの心境と全く同じような空模様だ。
ふ、と溜息を吐き出す。見上げた空から降り注ぐ雨も、このもやもやとした感情を洗い流してはくれない。ごろごろと低く鳴り響く雷鳴は更に彼の気持ちを不安なものにした。
「あれ、シスト?」
中庭の近くのベンチに腰かけていたシストを、明るい声が呼んだ。少し驚いたように顔を上げて、そちらを見る。
声をかけてきたのは鮮やかな赤髪の少年……アネットだった。入団当初は殆ど同じくらいの背丈と体格だったのにいつの間にか、彼の方がずっとがっちりした体格になっていた。
それも当然のことだろう。アネットはシストやエルド、ルカ達よりずっと厳しい訓練を受けているのだから。
「あ、アネット」
よぅ、とシストは彼の名を呼び、アメジストの瞳を細めた。アネットは〝よっ! 〟と明るく無邪気な笑みを浮かべた。それから、不思議そうな表情を浮かべて、こてりと首を傾げる。
「珍しいな、一人か?」
そういいながら彼は周囲に視線を巡らせる。まるで誰かを探すようなその動作に、シストは視線を揺るがせた後、小さく頷いた。
「……あぁ」
いつも以上に言葉少なな彼。その様子を見て、アネットは怪訝そうな表情を浮かべる。
元からシストは元からそこまで言葉数が多い方ではない。ルカやアネットと一緒にいるときにも自分から色々な話をしてくる方ではない。そのことはアネットもよく知っているのだけれど……明らかに、今の彼の様子は違っていた。
アネットは少し悩むような顔をする。それから彼はあ、そっか、と言わんばかりの表情を浮かべる。そして笑みを浮かべながら小さく首を傾げた。
「何だよー、エルドと喧嘩でもしたか?」
「…………」
黙り込むシスト。その反応が全ての答えであることは、幾ら鈍感なアネットにもわかって。
それを見てぱちぱちとガーネット色の瞳を瞬かせるアネット。彼は苦笑を漏らして、シストに言う。
「おい、図星かよ」
やはり、だんまりだ。寧ろむすっとしてしまった彼を見て、アネットは溜息を一つ。がしがしと頭を掻きながら、彼は溜息まじりに言った。
「さっさと仲直りしちゃえよ、お前すげぇつまんなそうな顔してるぞ?」
元々口が上手い方ではないアネット。良い助言など出来るはずもなく、とりあえず思ったところを口に出すことしかできないのである。
シストは彼の言葉に途方にくれたような顔をして、アネットの方を見た。困ったように眉を下げ、呟くような声でいう。
「仲直り、て……」
どうしたらいいんだ。彼に、あんなことを言ってしまったのに。シストはそう思いながら溜息を吐き出す。
エルドを心配しての発言だったのは事実だ。しかし……あんなことを言うつもりはなかった。先陣を切って駆け出していき、魔獣に斬りかかる彼は確かに頼もしい。少しとはいえ目が悪いシストでは敵を見つけることが出来ず、出遅れることもしばしばあるから、一層。
そんな自分の落ち度を自覚しているから余計に、彼と仲直り、と言われても……良い手段がまったくと言っていいほど浮かばないのである。
アネットはそんな彼の様子を見て苦笑する。そしてわしゃわしゃと彼の頭を撫でながら、首を傾げた。
「何を困ったような顔してんだよ。お前ら仲良しじゃん」
すぐに仲直りくらい出来るって。そういいながら屈託なく笑うアネット。ぽんぽんとシストの頭を撫でると、彼はそのまま何処かにいってしまった。
一人、取り残され、シストは小さく溜息を吐き出した。相変わらずに雨はやまない。
「仲直り、か……」
小さく呟くその声は、雨垂れの音に吸い込まれて消えていった。
***
―― 一方。
「はぁあ……」
エルドは一人、食堂で深々と溜息を吐き出していた。すっかり困り切った表情で、黄緑の前髪を掻き揚げる。気持ちを落ち着かせようと入れてきた紅茶ももうすっかり冷え切ってしまっていた。
「エルド?」
不意に名を呼ばれて、エルドは顔をあげる。そこには黒髪に赤い瞳の少年の姿。上官基父親に特殊訓練でもつけてもらっていたのか、汗で額に前髪が張りついている。彼は小さく首を傾げると、エルドにいった。
「お前ひとりでいるの珍しいな」
シストは何処行った? ルカは彼にそう問いかける。エルドは彼の言葉に一瞬驚いたように緑眼を見開いた後、苦笑を漏らした。
「ルカ……俺そんなに一人でいない?」
そんなに自分はいつもシストと居るだろうか。エルドがそういうとルカは眉を寄せて、首を傾げた。
「寧ろお前らが一緒にいないところを見た記憶がないぞ? ……どうした、喧嘩でもしたか?」
そういいながらルカはエルドの傍の椅子を引いて、そこに腰かけた。〝話してみろよ〟と問いかける柔い声はまるで幼子を宥めるそれのよう。……あぁそういえばこの人は自分より一つ年上だったか。そんなことを今更のように思い出しながら、エルドは口を開いた。
「うん、まぁ……」
喧嘩、なんだろうなぁ。そう呟くエルド。彼の言葉にルカは怪訝そうな顔をする。
「なんだろうなぁ、って……他人事だな」
「他人事、っていうか」
そこで一度言葉を切ったエルドは困ったような笑みをうかべて、肩を竦めた。
「……俺、今まで喧嘩ってしたことないから」
どういう状況が喧嘩、なのかわからなくてさ。エルドはそういいながら溜息を吐き出した。
そう。今までエルドは誰かと喧嘩をしたことがなかったのだ。孤児院に居た頃は年下の子の方が多く喧嘩になる前に自分が退いていたし、年齢の近い子多少の言い争いはしたことはあるのだけれど、喧嘩というほどの喧嘩をしたことがない。だから、今こんなに弱り切っているのだとエルドは言った。
「あー……なるほどな」
納得した顔をするルカ。喧嘩をしたことがない、というのは……確かに困惑するものだろう。
そう思いながら彼は口を開いた。
「で、仲直りの方法がわからなくて此処で唸ってた、と」
「……そういうこと」
素直にそう認めて、溜め息を一つ。すっかり冷めてしまった紅茶にちゃぽっと角砂糖を入れる。くるくるとまぜても、大して溶けないのは、既に二つも角砂糖を入れてしまったからだろう。
「でもそこまで難しいことでもないはず、だぞ? ちゃんと謝れば許してくれるだろ、シストも」
「そう、かな……でも俺、結構酷いこといっちゃったし」
意気地なし、と言ってしまった。彼の思慮深さにはいつも助けられている。脊髄反射で動いてしまう自分が怪我をしないように、いつもサポートしてくれているのだ。先刻も、自分の怪我を心配してくれたのに。それなのに自分は、随分と酷いことを言ってしまった。
仲直りをしたいとは思うけれどその手段がわからない。と、言うよりは……
「怖い、のかもしれないな」
「怖い?」
ルカはエルドの言葉を復唱する。怪訝そうな顔をしている彼に頷いて見せて、エルドは言った。
「許さない、って言われたら、ってさ」
謝りたい、とは思う。けれども、彼が許してくれなかったら? そう思うと怖くて、謝罪の言の葉を彼に伝えることさえ出来そうにない。
エルドがそういうとルカは暫しルビーの瞳を丸くしていたが、やがて一度、目を閉じた。そしてやれやれと言うように長い息を吐き出した。
「……本当に喧嘩慣れしてないんだな。シストがそんなことで絶交言い渡すようなやつには見えないけど」
「……そう、だけど」
エルドにしては珍しく、泣き出しそうな顔をしている。明るく活発な笑みが良く似合う彼がこう、落ち込んでいる様は見ていられない。そう思いながらルカは軽く、エルドの頭を撫でてやった。
「……大丈夫だって」
そんなに気に病むなよな。そういうと、ルカはエルドを残して食堂を出ていった。
残されたエルドは一人、深々と嘆息する。カップに残った紅茶を口に含めばそれは吐き気がするほどどろりと、甘かった。
―― あめふりの日 ――
(ぐしょぐしょになったぬかるみのような心。それを乾かす術を俺は知らない)
(言葉を吐きだすのは簡単なこと。けれども一度吐き出した言葉は消し去ることが出来ないということに今更のように気がついた)