第八章 嵐の日
嵐の日(リベルテ歴153年 10月)
ざくざくと、木の葉を踏みしめて歩く。周囲の気配を探ることは忘れずに、けれども何処か軽快に。
吹き抜ける風は少し冷たい。木々に残った木の葉をかさかさと揺らしながら、散らしていった。
「秋は好きだなあ」
明るい口調で、エルドが言う。シストは「何でだ」と彼に問うた。にかっと笑ったエルドは空を見上げて、エメラルド色の瞳を細めながら、言う。
「どんどん涼しくなるこの空気と、葉っぱ踏んで歩くこの感じが凄く好きだ」
そういいながらエルドはざくざくと、足元の落ち葉を踏みしめる。革のブーツが踏む木の葉は乾いた音を立て、確かに小気味よい。シストは釣られたように木の葉を踏みしめながら、言った。
「確かに良いなぁ……気持ち良い」
この空気も好きだし。そういいながらシストも空を見上げた。
爽やかな、秋晴れの空。柔らかな青色に、薄く刷毛で引いたような雲が流れている。すん、と鼻を鳴らせば、少し冷たい空気が鼻先を冷やしていく。
氷属性魔術使いである彼らにとっては、寒い季節こそ本領発揮。夏の間は正直使い物にならなかった体を存分に使う季節がやってきた、といったところである。
そんなこともあってか、今回は雪狼の騎士たちに、魔獣の巣を潰すという任務が与えられた。国内の数か所で見つかった、二足歩行の狼……イヴル・ヴォルフの討伐任務。それに、エルドとシストも赴いているのである。
それぞれに、担当地域が決まっている。エルドとシストは、コンビネーションもばっちりだし、ということで少々入り組んだ、森の奥の巣を担当することになっている。
「でも呑気なこと言ってる場合じゃないからな、エル……そろそろ、目的地だろ」
気を付けていないと、とシストは彼に促す。もう既に、魔獣の縄張りには入っているだろう。何処から襲われるとも、わからない。
「あー、そうだなぁ……さくっと終わらせて、飯にしようぜ」
寒いしあったかいもん食べたいなぁ、などと呑気なことをいっているエルド。それを聞いてシストはくすくすと可笑しそうに笑った。
「はいはい、夕飯はそうリクエストしような……っと!」
止まれ! とシストが声をあげる。エルドもすぐに状況に気が付いたのか、足を止め、剣を抜いた。
不意にとびかかってくる、魔獣。それを見てアメジスト色の瞳を細めたエルドは素早く剣を振るった。ざくり、と肉を斬る感触。森に響き渡る、劈くような魔獣の咆哮。それを皮切りに、複数の魔獣が、飛びかかってきた。
なるほど、巣というだけあって多くのイヴル・ヴォルフが現れる。シストはそれをみて一度、息を吐き出した。
「っは……なかなかたくさん出てくるなぁ……」
「そうだなぁ……っと、シス、そっち行ったぞ! 気を付けろよ!」
そう叫ぶ声に、シストは身を翻す。すれすれのところをイヴル・ヴォルフの爪が切り裂いていく。ひゅう、と息を吐き出したシストは目を細め、素早く剣を突き出す。
視線を巡らせれば、近くに巣穴が見える。この辺りにいる獣を全て討伐して、あの穴を塞げば任務完了だ。そう思いながらシストは近くで戦う相棒の姿を見た。
彼は素早く魔術を放ち、魔獣の足を止めている。足元を凍りつかされた魔獣は忌々しげに呻き声を上げて、エルドに噛みつこうとする。それをひらりと躱しながら、魔獣にとどめを刺すエルドも少し、息を荒くしている。
次から次へと飛び出してくる魔獣の相手をするのは骨が折れる。魔力も体力も消耗する。なかなかの規模の群れだと、シストは冷静に分析した。
しかし、もう最後の一頭だ。シストは一度息を吸い込んで、渾身の力を込めて、魔獣の喉を切り裂いた。呻きを上げて、魔獣が倒れる。ずしん、という地響きを立てたように感じた。
は、は、と荒く息を吐き出しながら、シストは周囲を見渡す。
しんとした、森の中。彼の相棒であるエルドもふう、と息を吐き出して、額の汗を拭っていた。
彼らにとっては、余裕な任務。思ったより早く終わった。シストはエルドの方を振り向いて、笑顔を向けた。
「楽勝だったな!」
さぁ、帰ろう。そう声をかけようとした、その刹那。エルドが大きく目を見開くのが、見えた。
「っ! シストッ!」
エルドが鋭く声をあげた。それにシストが驚くより先、エルドが素早く飛び出して、彼の体を突き飛ばす。
「っ!」
どさり、と地面に倒れ込むシスト。打ち付けた体の痛みに顔を歪めた。
いきなり何をするんだと、声をあげようとエルドの方を見て……シストは大きく、目を見開いた。
それはまるで、スローモーションのように見えた。いつの間に起き上がったのか、殺したつもりの魔獣が起き上がり、鋭い牙を覗かせて、エルドに襲いかかっていた。エルドは剣を抜き、それに応戦しようとする。
一瞬。ほんの、一瞬。エルドの剣が抜かれるのが、遅かった。
ぱっと、鮮血が散った。まるで薔薇の花弁のように。魔獣がエルドの体を切り裂いたのだということに気づくまでに、少し時間がかかった。
「え……」
斬りつけられて歪む、エルドの顔。しかし彼は剣を手放さず、魔獣に斬りつけた。地面に崩れる、魔獣の体。今度こそピクリとも、動かない。しかし次の瞬間には、エルドも地面に倒れ込んだ。どさり、というその音に漸くはっとして、シストは彼に駆け寄った。
「エルド!」
大きな声で名を呼んで、彼を抱き起こす。肩口から胸、腹にかけてざっくりと、深く斬りつけられた傷。流れる血が、地面を、シストの白い制服を汚していく。
流れていく血がまるで自分の血であるかのように血の気が引いていくのを、シストは感じた。呆けている場合ではないとわかっているのに、ただ壊れたように、エルドの名を呼ぶことしか出来ない。
―― 否。
逆に、冷静に状況を判断しているから、なのだろうか。……彼がもう助からないことは、火を見るより明らかだった。
「エル、エルド……っ!」
目を閉じた彼を必死に呼ぶ。その声に彼はうっすらと、目を開けた。は、は、と浅い呼吸混じりに笑って、彼は言う。
「馬鹿な奴……とどめさすまで、敵に背を向けんなって、ノトの時に、教わった……だろーが……」
けほ、と彼は咳き込む。肺か何処かが傷ついているのだろう、口からぽたりと赤い血が落ちる。
「ごめん……」
シストはそう詫びながら、震える手で彼の口元を拭う。
深い傷から流れる血は止まりそうにない。そこで漸く、〝助けを呼ばなくては〟という思考に至った。ぐるりと周囲を見渡す。無論、誰の姿も見当たらない。しかしそれでも、叫ばずにはいられなかった。
「誰か……っ」
誰か、誰か。誰か、助けて。そう叫ぶも、声はむなしく森に響くばかりだ。
と、不意に手に何かひやりとしたものが触れた。それがエルドの手だと、どうして気がつくことができるだろう? いつもは、彼は氷属性魔術使いにしては暖かな手をしていたのに。
「シス、いいよ……必要、ない」
彼はそういいながら、ぼんやりと微笑んだ。いいよ、だいじょうぶ。そう呟く彼の声は、酷く弱々しい。
「でも……っ!」
シストは必死に、彼の冷たい手を握り返す。自分の体温を分け与えるように。いい、だなんて言わないでほしかった。例えもうどうにもならないと、心のどこかでわかってはいても。
いつもきらきらとした光を灯していた綺麗なエメラルドの瞳は既に翳り、なにも映していないようだ。浅く吐き出される呼気が下手な笛のようにひゅう、ひゅ、と気の抜けるような音を立てていた。
彼を、連れて帰らなくては。城まで連れ帰ればどうにか、助かるかもしれない。そう思ってエルドを抱き上げようとするが、体が震えて、うまく行かない。
エルドは泣き出しそうなシストを見上げて微笑むと、空に視線を投げた。
綺麗な、秋空だ。エルドが好きだと言った、秋空。そのまま彼は、エメラルドの瞳を細めて呟くように、言った。
「っは……どうせなら……綺麗なお姫様を守って、死にたかったけどよ……」
まるで譫言のような、寝言のような声が、怖かった。〝死ぬ〟なんていう言葉が、恐ろしかった。シストは大きく目を見開いて、叫んだ。
「! ふざけんな! 死ぬなんて言うなよッ! ……頼むから、そんなこと……」
言わないで。諦めたような声で、言わないで。そう涙声で叫ぶシストの声は、すでに聞こえていないのだろうか。エルドはゆるりと笑って、言った。
「まぁ……大事なパートナー守って死ねるなら……」
―― それも、本望かもな……
そういうと、彼は一度深く息を吸った。ふ、とそれを吐き出して、それっきり。
彼の手から力が抜けて、シストの手から滑り落ちる。ぱたりと垂れた彼の手を握っても、彼はもう、握り返してはくれない。
「……エル?」
シストはアメジスト色の瞳を見開いて、彼を呼んだ。唐突に眠りこけてしまった彼を、起こすように。
見下ろす彼の表情は、微かに微笑んでいるように見えた。首から上、傷のない顔を見ていれば、本当にただ眠りこけてしまったようにさえ見える。
だから、信じられなかった。もう、彼が……息をしていないなんて。
「なあ、おい、エルド……エル、嘘、嘘だろ? なあ……」
馬鹿な冗談はやめてくれ。俺が阿呆なミスをしたのは謝るから。もう二度とあんな失敗はしないから。そう呟きながら彼を抱き起こしても、なんの反応も示さない。人形のようにだらりと、シストの腕に身を委ねるばかりだ。
「エルド……エル……ッ」
なぁ、エルド。そう掠れた声で呼んでも返事は、ない。
当然だ。彼は、死んだのだから。
「う、あぁ、ああああああああ……ッ――!」
絶叫。慟哭。森のなかに響く声に驚いて鳥が羽ばたいて逃げていく。
冷えていく、相棒の体。赤かった血は錆色に変わっていく。
いっそ夢だと思いたい。今にでも、〝早く起きろ〟とからかい口調でエルドが起こしに来ると。
しかし夢とは、思えないのだ。自分の腕にのし掛かる、もう二度と目を醒さない相棒の体の重みと冷たさ。彼が自分を守ろうと突き飛ばしたときに負った擦り傷の痛み。すべて、すべてが、現状が現実であると告げていた。
―― いつも通りだったはずの一日が、恐ろしい嵐の日になってしまったことを。
―― 嵐の日 ――
(誰が想像できただろうか。当たり前のはずだった一日がこんな一日になるなんて)
(エル、エル、エルド。どうして、なんで、返事をしないんだ…? わかりきった問いに答える声は、存在しない)