エイルの痛み
――やっと、楽になれる。
エイルの目じりから涙があふれた。そこに孕む感情は、恐怖、苦痛、安堵、未練……数えきれない。たくさんだ。色んな感情が混ざりあっている。
少年の瞳から流れ出る透明な雫が、彼の血と混ざって、薄い赤色に染まる。それは重力に従って、地面に落ちた。
――エイルは、頭の中で、歯車が噛み合うような感覚を覚えた。意識が急速に覚醒していく。
ああ、かわいそうなエイル。
全てを投げ出して、絶望の中で見つけた安らぎの中で、穏やかに死んでいくはずだったのに。
運命は少年を手放さない。
エイルは、死の間際で、正気を取り戻してしまったのだ。
若さゆえの柔軟さなのか、これだけ酷い目に遭いながらも、少年の心は回復を続けていたのだ。生きるために。生き残るために。
……!!
エイルが、閉じていた目をかっと見開いた。
唇を震わせて、なにかを言葉にしようとする。が、それはかたちにならなかった。
少年の中で膨れ上がる感情に、彼の思考が追いつかない。
エイルの心を、なにかが浸食していく。
エイル・ノルデンは、両親に愛情をこめて育てられてきた。
愛を知り、善を知り、与えられる喜びを知った。
エイルは心優しい子どもだ。
しかし、エイルも所詮は成長途中の人間の子どもである。
悪意を孕む者を愛することはできない。
悪意を孕む者に与えることはできない。
慈しみを心に宿すエイルは、相手を赦すことを知っている。
だが、救い難い者を赦すことはできない。
エイル・ノルデンは、聖者ではない。
根が腐った者を受け入れることはできないし、救いたいと考えることもない。
悪意に曝されて、心身を嬲られれば、少年の心は壊れてしまう。
エイルの心が、憎悪に染まっていく。
やめて。
やめて。
やめて。
魔の者は蹂躙をやめない。
魔の者は、エイルの体を殺すつもりだからだ。
魔の者は、エイルの心を殺すつもりだからだ。
やめて!
やめろ!!
そして、とうとうエイルの心が憎悪に呑み込まれた。
淵のぎりぎりまで満たされたコップが割れて、中身をぶちまけてしまうように。
抑え続けてきた感情が、一気に爆発した。
――ぶっ殺してやる!!!
エイルの片目が弾けて潰れると、そこからどす黒い炎が立ちのぼる。
突如、エイルは凄まじい金切り声を上げて、魔の者の口を両手でつかんだ。
……両手で?
少年の片腕は、魔の者に喰いちぎられたはずでは――。
「――!?」
すっかり油断をしていた魔の者は驚愕する――暇もなく、少年の暴力を受けた。
子どもの体躯で出せるはずのない力で、エイルは魔の者の口をこじ開けていく。
魔の者の大きな鋭い牙が、少年の小さな手を貫通して穴だらけにするが、そんなこと知ったものか。
エイルは溢れ出る力に身を任せて、魔の者の下顎を引きちぎった。
魔の者が悲鳴を上げて、逃げるように後退する。
痛みに悶えて、魔の者はなにもできない。ただ、本能を頼りに逃走を図るのみだ。
ただ、逃げる。
エイルは、けだもののように叫びながら、逃げる魔の者を追いかける。
少年は片目から透明な涙を、片目から血の涙を流しながら、憤怒の形相で、魔の者の尻尾をつかみ取り、壁に叩きつけて、床に叩きつけて、放り投げた。
自分がされたのと同じように、仕返しだと言わんばかりに。
暴力をふるう。
エイルの身体から、気力がとめどなく溢れている。凝固された気力が、エイルの欠損した四肢を補い、抉られた内臓を埋めて、折れかけた首の骨を無理矢理くっつけている。
こんな無茶をしていたら、エイルは長くは持たないだろう。いや、もう手遅れなのかもしれない。
身体よりも先に心が砕けてしまったら、もう――。
少年が歯を剥いて、叫ぶ。魔の者の悲鳴をかき消して、エイルが吠える。
もがく魔の者に馬乗りになると、それを殴り始めた。
――ぶっ殺すだけの力が足りない。ぶっ殺してやる。こいつをぶっ殺してやる!!!
エイルが小さな拳に気力を集める。
どす黒く濁ったその力は、自然界の何でもない。
どす黒く濁ったその力は、エイルの心を内包している。
ただただ、ひたすら、相手を痛めつけて、嬲って、ぶっ殺してやりたい。
これは憎悪を研ぎ澄まして、磨いた力だ。
一発殴るたびに、魔の者がぎゃあぎゃあと馬鹿みたいに悲鳴を上げる。
まるで、先ほどまでのエイルみたいに。
――そうだ。これは、さっきまでの僕だ。でも、もう僕じゃない!!!
「……うふふ。あはは。ははは!!!」
なにもできなくなった相手を痛めつける行為に、少年は脳がとろけるような快楽を見出した。
エイルは半狂乱になって笑い続ける。
「あはは! ははは! あっはははは!!!」
少年の嗤い声は、魔の者の悲鳴を塗りつぶして、拳がそれの肉を潰す音をかき消して、大穴の底に響き渡った。
今のエイルは、悪魔の瞳を宿していた。憎悪の炎がごうごうと燃え盛っている。
その姿は、魔の者よりも魔の者らしく。
弱者を蹂躙する快感と、強者に蹂躙される憤怒が綯い交ぜになった少年の顔は、見るも恐ろしい、震え上がるような表情だった。
この優しい、甘えたがりの、未熟で純粋な子どもをここまで追い詰めたのは、他でもない、魔の者自身だ。
後悔する暇もなく、命乞いする暇もなく。
少年の暴力を浴び続けた魔の者は、そのまま程なくして息絶えた。
その亡骸は、今のエイルに負けず劣らず、無残な姿だった。
感情のタガが外れたエイルの思考は狂ってしまった。
泣いて、怒って、嗤って、まだ足りない。
溜め込みすぎた負の感情が、少年にもっと暴れろと囁いている。
まだ足りない。全然足りない。もっと、もっと!!!
僕は、もっと痛い思いをした!
僕は、もっとこわい思いをした!
もっと悲しい! もっと苦しい!
嫌だ――嫌だ!
全部、嫌だ!!!
「はああああああああああ!!! ああああああああああ!!! はああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
やり場のない感情に心が呑み込まれて、エイルは喉を張り裂きながら、叫びを上げた。
血の海に沈んでいる剣を拾うと、それをめちゃくちゃに振り回す。
壁を、床を、空を、切り刻む。
やがて、少年の目に、頭を殴り潰された魔の者の死骸が映った。
こいつ、まだ生きている!!!
まるで見当違いの判断をした少年は、剣を放り出して魔の者の死骸に跨ると、それを一心不乱に殴り始めた。
エイルは十一歳にして、理不尽を知った。




