暗闇の底で
真っ暗な、深い、怪物の口のような大きな穴の奥底で、少年が蠢いている。
エイル・ノルデンだ。
少年は無意識の内に受け身を取っていたおかげで、重傷はまぬがれていた。
しかし、今はかろうじて意識を保っている状態だ。大怪我で身動きが取れない。痛みで体をまともに動かせないでいる。
新品の狩猟槍は折れてしまい、弓も変な方向へねじ曲がっている。どちらも使い物にならなくなった。
どうにかしないと……。
エイルは歯を食いしばって、立ち上がろうとした。
「ぐ……う、ああ!」
だが、すぐに転んでしまった。今の少年では、ひとりで立ち上がることすら困難だ。
それでも、エイルは諦めない。
情けない声を漏らしながら、壁に顔を押し付けて、やっとの思いで態勢を立て直す。
生まれたばかりの小鹿のように震えながら、エイルは身体を壁に擦りつけるようにして、鈍い動きで、ひとりで立ち上がろうとしていた。
少年は泣きそうな――いや、泣きながら、必死の形相で立ち上がった。
父さん。母さん。僕はどうすれば……。
助けて。こわいよ……。
痛みでまともに動かせない腕では、零れ落ちる涙をぬぐうこともできない。
ただ、鼻を啜り、子どもらしく泣くことしかできない。
混乱と焦燥と恐怖が、エイルの脳をかき乱す。そんな状態の頭でも、少年は必死に理性をかき集めて、現状を打開する方法を探していた。
なにか、なにかないの――。
涙で顔を濡らしながら、痛む腕を無理に動かして、懐を探った。
すると、少年の指先に、滑らかなガラスの肌が触れた。
……そうだ! これがあった!
もしも、あなたが危険な目にあったら、とエイルを心配する母親が、いつも少年に持たせていた魔法薬。
珍しい薬草をふんだんに使い、煮詰めて、特殊な気力を込めることで、ようやく完成する高度な薬品。
母親の特製の治療薬がエイルの懐に存在した。
痛みで震える指だと、上手く蓋を開けることができない。だが、ここで焦って中身をぶちまけてしまったら、おしまいだ。
エイルは、もどかしさに顔を歪めて、いらつきながら、それでも慎重に小瓶を開けた。
口元に小瓶を運ぶと、エイルは中身を一気に口に含んだ。
――!?
苦すぎる! 吐きそうだ!
しかし、この苦さは気付けの効能も兼ねているらしい。母親が以前、言っていた。ここは我慢をして、ぐっとそれを飲み干した。
すると、すぐに効果があらわれた。
体の奥がかっと熱くなったかと思うと、全身の痛みがみるみるうちに引いていく。
あっという間に、エイルは体を動かせるようになった。
「……助かった。ありがとう、母さん」
自身の無事を確信したエイルは気が抜けてしまった。脱力すると、その場にへたり込んでしまう。
少年は座ったまま、ぼんやりと穴の口を見上げた。
……すっかり夜になってしまった。
今夜は、月が昇っているに違いない。この穴からは見えないが、夜の闇が世界を支配しているにしては、明るすぎる。
エイルは穴の深さを考えると、ため息をついた。
深いな……。
ここから這い上がるには絶望的な深さだ。本当に、よくここから落ちて、助かったな。
あの時、無意識に受け身を取っていなければ、今頃、自分は死んでいただろう。
父親に、普段から身のこなしを教えられてきたおかげだ。
エイルは父親に深く感謝をした。
「……あれ?」
エイルは、ふと、声を漏らした。
月明かりに照らされて、目が慣れてきたのだろう。
少年は、小さな違和感を目ざとく発見した。
……穴の壁に、なにかが見える……。
そこには、よく見ると、掴めそうなでっぱりがあるではないか。
これは、まさか。
期待で、エイルの心臓が早鐘を打った。
上へ、上へと、でっぱりの行方を目で追っていくと……。
……驚いた!
これは、手すりだ! 目の前に手すりがある! これは穴の口まで続いている!
つまり、外に出られる!
この怪物の口のような大穴は、落ちたら二度と出られない奈落では決してなかった。ただの出入り口である。ちょっぴり危険な、ただの縦穴だ。
エイルは、そう確信した。
「……はは。なんだ、あはは!」
急にばかばかしくなって、思わずエイルは自分自身に呆れて、笑ってしまった。
勝手に絶望して、子どもみたいに泣き喚いて。
僕は、馬鹿だ。
自分はもう大人なんだから、こんなことで、いちいち動揺なんかしていられない!
強気になったエイルは、まだ頬を伝っている涙を強くぬぐうと、もう二度と溢れ出ないように、ぎゅっと目を瞑って、残りの涙を絞り出した。
深呼吸をして心を落ち着けると、少年は頬を叩いて気合いを入れた。
「よし! 帰ろう!」
エイルは手すりに手をかけた。
そして、一歩、登った。
そのまま、エイルは、外へと……。
――待て。なにかがおかしい。
嫌な、予感がする……。
エイルの体を悪寒が駆け巡る。少年の体は得体の知れない悪寒で硬直した。
寒気がする。理由のわからない恐怖で背筋が凍る。
そうだ、自分はなにかに気づいてしまった。
ゆっくりと、錆びた金属のように回らない首を無理に捻じ曲げて、エイルは背後を見た。
そこには……。
扉が、ひとつあった。
落ちたときには全く気付かなかった。
それは、なんの変哲もない木製で、簡素な作りの扉だ。
しかし、少年は気が付いてしまった。
一度、気付いたら、もう思考は止まらない。
下を見る。粗末だが、床として整えられている。
壁を見る。粗末だが、壁として整えられている。
なにかもが簡素で、粗末だが……。
人工的だ。
……ここは、なんだ?
……この大穴は、なんのために存在する?
口の中が乾いて、舌が張り付く。心臓が、どくどくと脈打ち、暴れ放題で、うるさい。
――お前はもう立派な大人だ。
父親の声が聞こえた気がした。
そうだ。僕は、もう大人だ。
エイルは湧き上がる恐怖を押し殺して、必死に自分に言い聞かせる。
僕は、大人だ。
エイルが手すりから手を放した。そして、地面に降り立った。
少年が扉に向かい立つ。
少年は気力を集めた。
橙色に輝くその光は、自然界における太陽を内包している。
これで明かりに困らない。
今の少年に、勇気と無謀の区別はつかない。
未熟なエイルは、泣きじゃくって両親に助けを求めていた小さな子どもが、自分の姿であることを認めることができない。
だが、時として、人は身を引くことができない状況に直面することがある。
子どもが大人のふりをせざるを得ない時が来ることもある。
そのとき、彼らが持ち合わせるものは、勇気と呼んでもいいのかもしれない。
たとえ、結末で、悪魔が微笑んでいたとしても。
……がんばれ、エイル。
……大丈夫。
……大丈夫。
……大丈夫。
……お前は、もう、立派な大人だ。
エイルが必死に自分に言い聞かせる。
……僕が、ここの秘密を暴こう。
……危険があれば、僕が退けよう。
……父さんを呼ぶのは、この目でなにがあるのかを確かめてからで、きっと大丈夫だ。
……そう、皆の安心と安全を守るのが、大人の役目だ。
……この場に、父さんが来る必要はないんだ。少なくとも、今は。
そして、少年は決意した。
ここを探索しよう。




