シュレーディンガーのキス
良き友だったO氏に捧ぐ。
昼休みが始まってまもなく、俺はたまたま廊下にいた黒岩に山田について尋ねた。
「黒岩、山田って、どいつ?」
「山田?あそこにいるよ、ほら、窓側から二列目の前から三番目」
「ありがとう」
「何か用?」
「ちょっとね。それと、離れていたほうがいいよ」
「……?わかった」
俺は後ろのドアから教室に入っていった。
山田は、窓側を向いて隣の席の男と飯を食いながら話していた。
俺は背後から、山田の右肩に手を置いた。
山田が振り返る。俺はその顔面を右拳で殴った。間髪入れずに、机の上にあった保温されたスープを頭にかけた。俺は胸ぐらを掴んで顔を近づける。トマトの香りが鼻の奥を刺した。
「答えろ、どうして渡辺香とキスをした。それも無理やり」
「なんのことだよ、離せ!」
隣の席の男が殴りかかってきた。俺は山田を押し飛ばし、左手で男の顎を殴った。
男も倒れた。俺は山田の机を男の上に落とした。机上の弁当が辺りに散らかった。
顔をあげると、山田の後ろ姿が見えた。俺はタックルで山田を倒した。
髪を掴んで、顔面を床に何度も押し付けた。
「どうして渡辺さんに無理やりキスをした」
俺は叫んだ。
「お前ら何をしてるんだ」
誰が呼んだのか、学年主任の長野に見つかった。俺は長野に引き剥がされ、押さえつけられた。
抵抗したが無駄だった。初老でも空手部顧問は伊達じゃない。
「こっち来い」
俺は長野に手を引かれ歩かさせられた。
これで終わりだと思った。だから俺は教室を出る前に再び叫んだ。
「殺す。ぶっ殺してやる!ぜってぇ許さねえぞ!」
「お前、もう黙れ」
口を塞がれた。駆け寄ってきた男性教師と共に、二人がかりで生徒指導室に連行された。
「お前、自分で何したか分かってんのか」
長野は怒鳴った。
「人を殴りました。僕が悪かったです。ごめんなさい」
俺は一瞬たりとも長野から目をそらさずに答えた。
「なんであんなことしたんだ」
「ただの自己満足です」
長野が机を殴った。ドンッという硬い音が狭い室内に響いた。
「真面目に答えろ。どうして人を殴った」
「ですから、殴りたかったから殴った。それだけですって」
俺は長野に胸ぐらを掴まれた。
「今の先生と同じことです」
長野はハッとして手を離した。
「他の生徒からも話を聞いてくる。とりあえず今日はここで大人しくしていろ」
「はい」
長野が出ていった。外から話し声が聞こえた。恐らく見張りの先生だろう。
部屋を見渡すが、扉は一つ、窓は無かった。逃げ出すのは不可能だと思った。
俺はまだ熱を帯びた手を見つめた。何度か開いては閉じてを繰り返した。
ふと、笑みがこぼれた。
「どうやら渡辺香とキスがどうとか言っていたらしいな。君と渡辺は二年前に一度だけ同じクラスになっているな。何があった?」
長野は開口一番こう言った。
喧嘩前に飲んだエナジードリンクの効果が切れて我に返ったのか、早く開放されたかったのか、とにかく俺はありのままを話した。
「そうです。中二の時に同じクラスになって、気づいたら渡辺さんのことが好きになっていました。知っていますか先生、この前の文化祭でヒロインを演じた渡辺さんって、ラストシーンで主役の山田に無理やりキスをされたんですよ」
もう、目を見て話すことなんか出来なかった。
「なるほど。動機はその腹いせ、嫉妬といったところか」
「嫉妬?違いますよ。僕はシフトで見れなかったのでこのことを人づてに聞いたのですが、確かにキスをしたって知った時は悲しかったですよ。でも仕方のないことじゃないですか。渡辺さんに気持ちを伝えなかったのは僕なんだし、それに高校生ですからね、キスぐらいするだろうなって。僕が許せないのは、あの行為に渡辺さんの意思が無かったことです。一人で電車で帰っていた時のことです。渡辺さんのクラスの人達から、メッセージが届いたんです。そこにはキスの真相、そして渡辺さんがそのことで悩んで僕に助けを求めていたこと、それを知りました。僕は思いました。ああ、またかって。僕、前に彼女を友達に奪われたんですよ。だからこれは自己満足です。僕が勝手にキレて、いっぱいになった気持ちをたまたま山田にぶつけただけなんです。……僕はこの後どうなるんですか?退学ですか?」
「どうだろうな。それは相手と話し合って決めていく。とにかく、話は分かった」
長野は立ち上がった。
「この後は担任の先生が来る。待っていろ」
「長野先生」
俺は社会科の長野先生に一つ聞いてみたくなった。
「正義の為に人を殺すことは悪ですか?」
長野先生は何も言わずに指導室を後にした。こころなしか、扉を閉める音が強かった気がした。
帰り道、女子四人組が話をしていた。
「いやぁ、マジウケたね、山田のあの顔」
「それな。号泣なんかしちゃってさ」
「マジ調子乗ってたし、目障りだったから気分いいわ」
「わかる。不登校とかになってくんないかなー」
「にしてもあの大澤とかいう男、かっこよくね?小柄なくせによくやったわ」
「え?惚れたん?」
「なわけwww」
「でもちょっと可哀想だな。やっぱり退学かな」
「そんなんアタシ達の知ったことじゃないでしょ。早とちりしてキレたのはアイツだし」
「やっぱワタナベってキスしてないの?」
「知らねwwwてかどーでもいーし」
この話はフィクションです。実在する個人、団体、出来事などとは一切関係ありません。