第九話 圭祐の、この世の日常
現実世界(現在)、圭祐視点のスタートです。
その日、圭祐の職場である『みなみの動物病院』の待合室はいつも以上に混んでいた。
南野院長が、診察台のチワワの『ロコ』の耳や目を診ながら、嬉しそうにうなずく。
「うん、もう大丈夫ですね。血液や尿の数値も正常値です」
ありがとうございます、と飼い主の田山さんは胸を撫で下ろした。
南野院長は一見、他人から怖がられることが多い。
学生時代から続けているバスケットボールで鍛えた体格と、もみあげへと繋がるひげが理由の一つだろう。
しかし、丁寧な診察と穏やかな話し方で、飼い主たちからとても信頼されている。
動物たちも不思議とリッラクスするようで、みなみの動物病院は口コミの評価も高く、忙しい職場だった。
「佐藤先生も、本当にありがとうございました」
田山さんがくるりと圭祐のほうを向き、深々とお辞儀をした。
「いえ、僕はまだまだ新米ですから、大したことはできていません。ロコちゃんが頑張って、元気になろうとしてくれた結果ですよ」
そう言って圭祐が手を振ると、「そんなことはありません」と田山さんが大きく首を振った。
「この子、注射が苦手でベテランの先生でも大変でしょう? 採血の時に暴れて、あれ以上に体力を消耗していたら、命が危なかったかもしれません。佐藤先生に採血をしてもらった時は、怖がることも暴れることもなく済んで……。本当に感謝しています」
そう言った田山さんに軽く手を握られた。
「佐藤先生がまだ新人さんだった頃から、こちらの病院でお世話になっていますから、なんだか親のような気分です。もう、すっかり一人前の獣医さんですねぇ」
「いえ、そんな」
圭祐は緩みそうになる口元を押さえながら、短く応えた。
「佐藤先生は、注射器の針を入れるのが上手ですからね。他のワンちゃんやネコちゃんも、大人しくしてくれる子が多いんですよ」
看護師の小川菜摘が診察台の隣で器具を片付けながら、田山さんに笑いかける。
「でも、まぁ、やはりまだまだですね。包帯を巻いたりする手際は、小川さんのほうが良いですしね。うちの看板獣医になるには、もっと修行してもらわないと」
そう言って、院長は二の腕を叩く仕草をしてニッと笑った。
「道は険しいんですねぇ」
田山さんが口元を隠しながら上品に、しかし朗らかに笑う。
そして、ロコを労るように撫でながら言葉を続けた。
「でも、この子たちにとって優秀なお医者様が増えることは心強いことです。一年一年が私たちより、はるかに長いはずですから。半年でも数ヶ月でも長く生きられたら、きっと天国でも良い一生だったと思ってくれますよね。これからもこの子たちのことを、よろしくお願いします」
優しい笑顔は母親そのものだった。
ロコは、田山さんの一人息子が結婚し、実家を離れるときにプレゼントされたのだという。
今はロコが子どもの代わりであり、田山さんにとっての生きがいなのだろうと圭祐は思った。
「はい。より一層、精進いたします」
院長に倣って、圭祐が二の腕を叩いてを見せると、診察室は温かい笑い声に包まれる。
ロコも、舌を出した顔が笑っているように見えた。
昼休み、休憩室のテーブルで、圭祐と菜摘は向かい合って昼食をとっていた。
圭祐はコンビニ弁当を、菜摘は小ぶりな手作りの弁当をつつきながら、午前中のオペや患者の様子について語り合う。
食事をしながらするような会話ではないが、それにも慣れてしまった。
「さっき、さ。採血のこと褒めてくれてありがとう」
少し照れながら圭祐が笑いかけると、菜摘はおかずを口へ運ぶ手を止めて、圭祐を見つめた。
「だって、本当のことだし。圭祐は採血、上手よ。動物を安心させる素質もあるみたいだしね。南野先生も上手だし的確だけど、やっぱり動物は針とか怖いのよ。でも、圭祐が担当するとなぜか、みんなリラックスした顔するのよね」
職場の先輩でもあり、二歳年上の恋人でもある菜摘に褒められ、どんな顔をしたら良いのか分からず、圭祐はブロッコリーをつつきながら嬉しさを噛みしめていた。
「でも、オペの手際や触診のセンスなんかは、まだまだよ。一人前への道は本当に険しいわね」
わざとイジワルそうに笑う菜摘を見て、あらためて彼女は美人なんだと圭祐は思った。
モデルのような高めの身長に、スラリとした体のライン。
肩甲骨まである黒髪は、仕事中はきっちりと束ねられている。
切れ長の瞳は強めの印象だけれども、笑うと人懐っこい。
そんな女性がナース姿で颯爽と働いているせいか、みなみの動物病院はわりと独身男性がペットを連れて来院する。
菜摘が目当ての男性が大半だ、という噂も本当なんじゃないかと圭祐は思っている。
マドンナのような扱いをされても、さっぱりした性格のためか、女性から妬まれるようなことも少ないようだ。
むしろ、男女どちらからも信頼され、時には恋愛相談も受けているらしい。
つくづく、自分にはもったいない彼女だと思う。
フォークで宙に円を描くような仕草をしながら、動物の看護について菜摘は熱く語る。
夢中になり過ぎて、圭祐の存在など忘れてしまっているような勢いだ。
動物のことになると、菜摘は雰囲気が変わる。
そういえば、出会って間もない頃もそうだった――
「天界まで瑠璃に会いに来ておきながら、彼女いたんかい!」というツッコミがありそうですね。
お読みくださり、ありがとうございました。