第七話 終わりのつづき
フィクションです。
死ぬこと自体は楽だった。寒くも苦しくもない。
むしろ、疲れなどを感じなくなって、体が軽くなったくらいだ。
しかし、本当に大変なのは、死んだ後からのことだった。
瑠璃の遺体を見て泣き崩れる母と、呆然とする父。
茉莉も急遽、実家に呼び戻された。
瑠璃の死は事故として葬儀が執り行われ、友人や同級生が会葬に訪れた。
自殺かもしれない、とは誰一人として口に出すことはなく、四十九日が過ぎていった。
法要の際にも、伯母だけは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
きっとこの人は死ぬまで、いや、死んだ後もこのままなのだろうと瑠璃は思った。
身内がそのような悪態をつく中、見合い相手やその両親は、瑠璃の父母を責めることもせず「不幸な事故だった」と慰めた。
(優しい人たち……だったのかもしれない)
ようやく魂だけの体に慣れだした瑠璃も、冷静に周囲を見られるようになってきた。
周りが少しずつ落ち着きを取り戻し、近々、茉莉も嫁ぎ先へと戻ることになっている。
その様子を見て少し安心しつつも、瑠璃は何となく、まだ実家を離れられずにいた。
そんなある日、来客だと使用人が茉莉に伝えにきた。
客間に通されたのは、慶二郎だった。
「あら、慶二郎。このたびはお世話になりました。父も母も、心ここにあらずだったから、葬儀の時に手伝っていただけて本当に助かりました」
茉莉が頭を深々と下げると、慶二郎が首を振った。
「いや、大したことはできなかったけど……。あの、お参りさせてもらっても良いかな? 四十九日の法要に出席できなかったから」
「もちろんよ。ありがとう――」
どうぞ、と茉莉は、穏やかな笑顔で慶二郎を仏間へ案内した。
線香に火を灯し、慶二郎はゆっくりと手を合わせる。
瑠璃も茉莉も、慶二郎とは幼馴染だ。
子ども用の着物の頃から書生姿。そして、呉服屋の息子らしく上等な羽織袴など、成長過程で様々な姿を見てきたが、時代の流れに乗って、今日は動きやすそうな洋服を着こなしている。
際立って男前というわけではなく、日本人らしい顔立ちをしている。
しかし、育ちの良さからか本人の柔和な性格からか、好ましい印象を持たれることが多い。
「たしか、慶二郎は春から学校の先生になるのよね。忙しい時に、わざわざありがとう」
茉莉がお茶を、すっと慶二郎の前に置いた。
慶二郎は「ありがとう」と視線だけを動かしたが、すぐには口を付けなかった。
そして、苦しそうに話し出す。
「実はご両親には言えなかったんだけど。どうしても話しておかなくちゃいけないと思ったから」
「なぁに?」
茉莉が首を傾げると、慶二郎はもごもごと聞き取りづらい声で続けた。
「実は、瑠璃と最後に話したのは俺かも知れない――」
「そう……なの?」
茉莉が少し硬い表情になった。
「――うん。赤い綺麗な振袖を着ていたから『おめかしだな』って言ったんだ。そうしたら『結婚するの』って瑠璃が……。それで『おめでとう』と言ったところで、突然走り出してしまって」
「そう、だったの」
茉莉がゆっくりと瞳を閉じて、何度か頷いた。
「あの子、世渡り下手だからね。慶二郎、あなたもよ?」
(お姉様……?)
慶二郎も茉莉の言葉の意味が分からないのか、不思議そうな顔をしたが、すぐに深刻な表情に戻った。
「ずっとそのことが気になっててさ。俺、何か余計なことを言ったのかもって」
最後のほうの言葉は震えていた。
「大丈夫よ。慶二郎が心配するようなことは何もないわ」
茉莉は、ポンッと慶二郎の肩を軽く叩いた。
「急なことだったもの。みんな、気が動転していて当然よ。うちの母だって何とか生活しているけれど、お医者様に気持ちを安定させる薬をいただいているの。瑠璃がいたら、薬草茶を煎れてくれるのにね――」
思わずそう言った茉莉は、思考を振り払うように首を振った。
「私も今は気が張ってるから大丈夫だけど、半年、一年後はどうなるか自分でも分からないわ。でも、主人が付いていてくれるしね」
(ごめんなさい……。私、自分のことばかりで、遺される人の気持ちを考えられなかった)
瑠璃はポロポロと大粒の涙を流した。しかし、その涙が畳を濡らすことはなく、自分は死んだのだと改めて強く実感した。
「旦那さんと上手くいってるんだ?」
「それが案外、上手くいってるのよ。親の決めた相手だし、どうなるかと思ってたけど。私の気持ちを大事にしてくれる人だから」
「何よりだな」
「そうね。この子にもそんな人生を送って欲しかったのだけど――」
茉莉が瑠璃の仏壇に話しかけるように顔を近付けた。
その時、茉莉を遠くから呼ぶ声と、パタパタと廊下を歩く音が近付いてきた。
「茉莉、『クロ』を知らない?」
そう言いながら、ひょこっと母が顔を出す。
「お邪魔しています」という慶二郎に気付き、母は姿勢を正した。
「慶二郎さん……。このたびはお世話になって」
長くなりそうな母の話に、茉莉が割って入る。
「クロ、いないの?」
「クロって、瑠璃が可愛がってた黒猫の?」
「そうなのよ。瑠璃がいなくなったことをあの子も分かるのか、めっきり食事の量が減ってね……。今朝から姿も見えないの。クロが元気じゃないと、きっと瑠璃も心配するわ」
困ったわ、と母は溜め息をつきながら中庭に視線を向けた。
クロは昼間はだいたい中庭で日向ぼっこをして過ごしている。
「俺、ちょっと探してきます」
「何から何まですみません――」
母が頭を下げ、茉莉も「気を付けてね」と玄関先まで慶二郎を見送った。
(クロ、どこに行っちゃったんだろ……。こっちかな)
自分でも何かできないかと、瑠璃もクロを探しに出かけた。
生きていた頃よりも勘が鋭くなったように思う。直感にまかせて、ふらふらと町の中を歩く。
肉体的な疲れはないが、精神的な――、魂の疲労は溜まるようだ。
やはり、まだ体を上手く使いこなせないのだろうか。思うように動けない。
死んでまで振袖を着たくはなかったので、箪笥にあった洋装のワンピースに着替えていた。
それでも、やはり体が重い。
橋の欄干に手をついて、少し休むことにした。
(クロ、ほんとにどこ行っちゃったの……)
欄干の冷たい手触りで瑠璃は、はたと気付く。
この橋は日本で初めて造られた鉄橋なのだと、建築に詳しい友人が言っていたことを急に思い出した。
(ここ、私が死んだ場所――)
クロを探すことに必死になっていた瑠璃は、気が付かなかった。
橋の上から川を覗き込むと、死んだ今の方が冷静なぶん、何倍も恐ろしくなる。
その時、茂みの中で何か黒いものが動いた。水際は草が生えていない。
そこにモゾモゾと出てきた黒いかたまりが、クロだと確信した。
「クロ!」
瑠璃は慌てて欄干から飛び降りた。スカートがめくれ上がるのも気にせずに河原に降り立ち、クロの前に立ちふさがった。
あぁ、死んでいると、こういう時に便利――。
そんな罰当たりな考えが浮かぶが、それどころではない。
「クロ、何してるの! 危ないから下がりなさい!」
クロがいたずらをした時に叱るように、静止を促した。
昨夜も雨だった。激しい雨ではなかったが、それなりに水位は上がっている。
クロは瑠璃の存在に気付くこともなく、瑠璃の体をすり抜けた。
そして、水を飲むように舌を出して、水面を覗き込む。
「喉が渇いているの? おうちに綺麗な水がちゃんとあるから。ごはんもあるよ。ね、帰ろう? クロ……」
宥めるように、クロの頭からしっぽにかけて撫でる。
しかし、両親や茉莉、慶二郎が瑠璃の姿を見ることができないように、クロにも瑠璃の声は聞こえない。感触もない。
もどかしく仕方がない。
瑠璃がやきもきしていると、次の瞬間、ゴゥッと音を立てて突風が吹いた。
ほこりが入らないように、思わず目を瞑る。
死んでいるのだから、目にゴミが入ることはないのだが、生前の行動というものは、なかなか抜けないものだ。
そして、風が去ってから目を開けると、クロの姿は目の前から消えてしまっていた。
「クロ!」
慌てて名前を呼ぶと、数メートル川下でバチャバチャと水音がした。
目を凝らすと、泥水のように変色した川の中で、クロが暴れるようにもがいている。
駆け寄り、手を伸ばす。やはり、触れられない。
「どうしよう……クロ、クロ」
名前を呼びながら、川下に向かって並走することしかできない。
肉体がない自分を恨みながら、泣き叫び、懸命に声をかける。
「クロ、岸に上がるのよ! 頑張って、クロ!」
クロはもう、ぐったりとしている。
誰か助けて! 瑠璃は心の中で強く叫んだ。
その時、バッチャンっと大きな水音ともに、見慣れた服の男が川に飛び込んだ。
そして、彼はクロは抱きかかえるると、懸命に泳ぎ、あと一息で岸に手が届くところまで辿り着いた。
瑠璃がとっさに手を伸ばす。
しかし、男の手は瑠璃の透けた手をすり抜けて、また水の中へと引きずり戻された。
「クロ! 慶二郎さん!」
瑠璃が叫んだと同時に、ドンッと川上で何かが爆発するような音が響く。
とたんに山も空も震えるような地鳴りが始まった。
そして、戸惑う瑠璃の前から、クロと慶二郎は一瞬にして姿を消した。
当初『クロ』は、三毛猫の『ミケ』でしたが、別作品『三毛猫は焦がれる』にもミケが登場するため、「これはマズイ!」と慌てて黒猫に修正しました……
私は『ミケ』という音が好きなのかもしれません。
でも、黒猫も好き。
某名作アニメ映画に登場する、魔女の少女と暮らす話せる黒猫のグッズをたくさん持ってます。
お読みくださり、ありがとうございました。