第六話 きっかけの、きっかけ 3
この話はフィクションです。
あっという間に、お見合いの日はやってきた。
鏡をどんなに見ても、淀んだ表情をしている姿が映るだけだ。
目の下にはクマができ、めったにしない頬紅を入れて、唇に紅をさしても明るさも艶も出ない。
お世辞にも美しい姿とは言えない。
それを伯母やお世話係の人が「綺麗よ」と褒め続ける。伯母から綺麗などと言われたのは、今日が初めてだ。
瑠璃の機嫌を良くし、話をスムーズに進めようとしている魂胆が手に取って見えるようで吐き気がする。
「少し、外の空気を吸ってきます」
瑠璃は赤い振り袖の裾を踏まないように、階段を降りていく。
「瑠璃、すぐに帰って来てね。もうすぐお相手がお見えになるから」
階段の上から、母に声をかけられた。
仰ぎ見ると、支度の済んだ母がにこやかに笑いかけてくる。
きっちりと着付けられた着物と結い上げた髪が艶やかで、母のほうがよほど花嫁にふさわしいと思った。
姉の花嫁姿も、それは素晴らしかった。
真っ白な白無垢姿で、つつましく微笑む姉を昨日のことのように思い出す。
(系統は違うけど、お姉様はやっぱりお母様似だな)
瑠璃は嘆息して、母から目を背けた。
そして、「わかっています」と一言だけ返して、玄関の扉を開けた。
午前の昇りきらない陽光が玄関のたたきにスッと差し込む。
外に一歩踏み出すと、項垂れた瑠璃の力ない影が地面に伸びていく。
ふと視線をずらすと、影がもう一つ動いた。俯けていた顔を上げると、見知った男と目が合った。
「なんだ? 今日はずいぶんと、おめかしだな」
「慶二郎さん――」
(なんで今、会っちゃうかな……)
瑠璃は自分はそこまで運が悪いのかと嘆いた。
隠していても、見合いや婚約の話はすぐに広まるだろう。
特に、慶二郎の家は呉服屋だ。
母が反物や仕立てを頼むかもしれない。
家族や近所の人から伝えられる前に、自分の口で告げてしまおうと瑠璃は腹に力を込めた。
「私ね、結婚するの。今日は……その、お見合いで――」
何とか言葉にはしたが、慶二郎の目は見ることができず、瑠璃は再び俯いた。
「え……? そうか、もう結婚か。おめでとう――」
慶二郎の表情は見えなかったが、幼い子にするように頭を撫でられた。瑠璃に対する慶二郎の癖だ。
結った髪を崩さないためか、いつもよりそっと手が触れる。
「――良かったな。幸せになれよ」
ふわりと髪を撫でられると、堪えていた涙がぶわっと溢れる。
そして、瑠璃は慶二郎の顔を一度も見ることなく、走り出してしまった。
(私、なんで逃げちゃったの? 慶二郎さんに『おめでとう』って言われたから? もう、諦めたはずなのに)
慶二郎と結婚する夢は、何度も見てきた。
しかし、それはしょせん夢でしかない。
慶二郎への想いは封印した。だから、慶二郎以外の男が相手なら、どこに嫁ごうと同じことだと、瑠璃は自分に言い聞かせてきた。
だから、『おめでとう』『(他の誰かと)幸せになれよ』という言葉だけで、こんなにも息ができなくなるほど、苦しくなるなど想像していなかったのだ。
自分はもっと強い女だと思っていた。
走りながら、何人もの人とすれ違う。
涙で化粧が崩れ、髪も着物も乱れた瑠璃を見て、目を丸くする人もいた。
商店街を走り抜ける途中、数人とぶつかった。
それは、だいたいが腕を組んで仲睦まじく歩く恋人たちで、瑠璃のことはおろか、周囲の様子も見えていないようだった。
とても幸せそうた。
瑠璃の脳裏に、自分が誰かと腕を組んで歩く様子がよぎる。
(薬師になりたいという夢も本当。だけど、結婚したくない一番の理由は、慶二郎さんに憧れてるからだなんて……。誰も気付くはずないよ)
瑠璃は自分の気持ちに蓋をしていた。しかし、どこかで、大人になれば慶二郎から求めてもらえるのではないか――
そのような幼い甘えを抱き続けていた自分に腹が立つ。
(ちゃんと素直に伝えれば良かった。でも、私は何も持ってなかった……)
容姿も気品も能力も。何一つ、姉の足元にも及ばなかった。
なぜ、血の繋がった姉妹でこうも違うのだろうか。
(せめて一つくらい、お姉様より優れた点が私にあれば……)
『お前は茉莉とは違うのだからな』
父の言葉が耳の奥で響いた。
物心ついたときには聞かされていた、呪いのような言葉。
(こんな時に思い出さなくったって良いじゃない!)
瑠璃はその言葉たちを踏みつけるようにして駆け続ける。
着物の合わせも裾も乱れ、母が見たら卒倒するだろう。
草履を潰すほど走った。どの道を通ったのか、もう覚えていない。
そして、気付いた時には、膝まで川の水に浸かっていた。
長崎の川は貿易のために重要だ。
そして、生活に不便がないように、たくさんの橋が架けられている。
橋の名前で、おおよその場所が分かる。
(この鉄橋は……)
瑠璃は、ぼんやりとそばにある鉄橋を仰ぎ見た。
ここは、瑠璃もよく知っている場所だった。
やみくもに走っていたら、また自宅近くまで戻ってきてしまっていたようだ。
昨日の豪雨で、水かさがずいぶんと増している。
川の水は黒く濁り、草花も風でなぎ倒されていた。
小さい頃に、両親や女中の目を盗んで、茉莉と慶二郎と遊んだ川とはまったく違う風景だ。
水の流れが速く、岸に戻らないと危険だと、頭の中の冷静な部分が警告する。
しかし、冬の凍てつくような水温が思考すら麻痺させていく。
(このまま消えてしまえたら、楽になるかな……)
ザブザブと音を立てて川の中央へと進むと、水を吸った着物が足にまとわりつく。
太もも、腰のあたりと水に浸っていくごとに、一段と足が重たくなる。
しかし、胸、首までくると体重を感じなくなった。
涙と吐く息の白さで前が見えない。
一瞬息が詰まったが、すぐに呼吸が楽になった。
体も温かく、着物も濡れていない。
代わりに瑠璃の肉体は、みるみる水底へと沈んでいった。
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