第三十三話 思いも寄らぬ
一つの区切りとなる回です。
長崎からなんとか帰った圭佑は、土産を持って菜摘の家に来ていた。
結局、橋のそばで倒れた日は強風豪雨のため飛行機は飛ばず、ホテルでもう一泊することになった。
夢見も悪くなく体調も戻り、帰路は快調だった。
しかし、ある決断をした圭佑は、東京に戻ることが憂鬱だった。
「菜摘、話があるんだけど」
「なに?」
これが『慶二郎』の感情なのか、『現世の自分』の感情なのか、圭祐は見当がつかなかった。
しかし、もう見て見ぬふりはできなかった。
うやむやにすることは、菜摘にも失礼になる。
そして圭祐は呼吸を整えたあと、ゆっくり、しかしハッキリとした口調で告げた。
「別れてほしい」
菜摘は言葉を発さなかった。その間を縫うように圭祐は続ける。
「本当にごめん。すごく勝手なことを言ってるのは自覚してる。それに、今まで支えてもらったことも、感謝してもしきれない。でも」
「――でも、好きな子ができた?」
「え?」
今の圭祐は、とんでもなく間抜けな顔をしているだろう。
圭祐は生きている女性と浮気をしたことなどない。
仕事に獣医としての勉強、菜摘とのデートでスケジュールはいっぱいで、他の女性と出会う機会すらなかった。
まさか、就寝中に天界を訪れて会っていた女の子に惹かれていた、なんて話はほとんどの人に理解してもらえないだろう。
圭祐自身も、自分の身に起こっていることを『百パーセント信じている』といえば嘘になる。
それでも、時々ちらつく女の子の顔や言葉が瑠璃のものだと分かった今では、色々なことに合点がいく。
しかし、まさか菜摘に浮気を疑われているとは思わなかった。
「好きな子っていうか。ちょっと気になる子が……」
しどろもどろに答える圭祐に菜摘が笑う。
「何となくね、そんな気がしてたんだ」
驚きのあまり、圭祐は声が出なかった。
「最近の圭祐、様子がおかしかったもの。体調不良も、その子に関係があるんじゃないの?」
「ある、かもしれない……」
「じゃあ、私の心配より、そっちを重視しなさい。そんな調子じゃ、獣医は務まらないわよ」
菜摘はいつものお姉さん口調で圭祐を諭した。
「ほんとにごめん」
「良いのよ。実は、私も秋田の実家に帰る予定なの。母の調子が悪くてね」
「え? 大丈夫なのか?」
一瞬、別れ話の最中であることを忘れそうになった。
一度、菜摘から家族写真を見せてもらったことがある。
菜摘の母は、少し背が低くてぽっちゃりとしている人だった。
菜摘の体系とはずいぶん違うが、カメラに向けられた人懐っこい笑顔がそっくりだと思った。
「うん。大したことはないのよ。ただ、年が年だからね。これを機に実家に戻って、秋田の動物病院に転職しようと思ってたの。南野院長に事情を話したら、すぐに病院を紹介してくれて。その病院、院長のご友人が開いてるんですって」
「いつ、向こうに?」
「今年の年末。お正月明けたら、もう新しい職場よ」
「急な話だな。もう一ヵ月もないだろ」
「ごめんね。圭祐が具合悪い間に話が進んで、話しそびれちゃった」
この言葉が、真実かどうかは圭祐には分からない。
「だから、お別れはちょうど良かったの。獣医はハードな仕事だから、遠距離恋愛はちょっとキツイでしょ?」
「そう……かもな」
(そう、だろうか……?)
菜摘の言葉に同意しつつも、菜摘が自分との別れを考えていたことを知り、少なからず胸が痛む。
自分勝手だと思いながらも、圭祐は少し後ろ髪を引かれる気分になった。
(こんな汚い感情、瑠璃にも菜摘にも知られたくない)
「ね? だから、この話はこれで終わり。円満解決! そうでしょう?」
あまりに晴れやかな笑顔を向けられ、圭祐の頭と心の動きが一致しない。
(もっと修羅場みたいになると思ってた……。いっそのことニ、三発くらい殴ってくれたら――)
しかし、こんな考えは、自分が楽になるための自己満足に過ぎないと、圭祐は目を瞑って頭を振った。
そんな様子の圭祐に、菜摘はもう一度問いかけた。
「ね? そうでしょ?」
「あぁ……」
圭祐の答えに菜摘は、柔らかく微笑んだ。
そして、あっという間に、菜摘が秋田へと旅立つ日となった。
空港では、大きなスーツケースを持った人々が足早に歩いている。皆、帰省や旅行に行くのだろう。
見送りに来た圭祐は、身軽な菜摘を心配した。
「荷物、少ないんだな」
「ほとんど送ったからね」
「そっか」
二人は俯きがちになり、お互いに相手の言葉を待った。
「ひとつ聞いていいか?」
なぁに? と菜摘が顔にかかる髪を耳に掛けた。
「なんで、俺に気になる子がいるって思ったんだ?」
「だって、寝言で『ルリ』とか『クロ』って呼んでるんだもの。動物の名前かなって思ったりもしたけど、なんとなく女の子のような気がしたのよ」
圭祐は目を見開いた。
「どうして?」
「女の勘よ。でも、クロは猫かしら?」
「正解。でも、本当に浮気じゃないから。正直なところ、まだ自分の気持ちもよく分かってないんだ。でも、こんな気持ちのまま、菜摘と付き合い続けるのは失礼だと思った。綺麗ごと言ってるようにしか、聞こえないと思うけど……」
この期に及んで、往生際が悪いと思う。
しかし、それくらい、菜摘とはまっすぐに向き合っていたということだけは知ってほしいと、圭祐は願った。
「……分かってる。じゃあ私も、ひとつ質問。その女の子とはいつ、どこで出会ったの?」
「あー、えっと……」
真実を話すべきか、圭佑は迷った。
しかし、やはり菜摘とは、最後までまっすぐに向き合いたかった。
「前世で……。クロは、瑠璃が大正時代に飼ってた猫なんだ……。信じる? こんな、とんでもない話――」
んー、と菜摘は一瞬、難しい顔をした。
しかし、次の瞬間には頷いていた。
「そういうジャンル、私はあまり得意じゃないんだけど……。でも、圭祐がこういう時に嘘をつかないのは知ってる。だから、信じるよ」
どこまで包容力のある女性なのだろうと、圭祐は改めて驚いた。
「これでスッキリした。でも、これが最後だから……」
突然、菜摘がギュウッと圭祐に抱きついた。それは、まるで子どもが抱っこをせがむようだった。
(付き合ってる時は、こんなふうに甘えてくれたことなかったのに――)
圭祐がそう、ぼんやり思っているうちに、スッと菜摘は離れた。
「じゃあ、本当にお別れね」
「うん。本当に、今までありがとう」
圭祐が涙をこらえて、心からの思いを伝えた。
(俺に泣く資格はない)
「こちらこそ。今でも圭祐のこと嫌いじゃないから。ただ、私だけを見てくれる人じゃなきゃ、満足できないわ。私、わりとヤキモチ焼きなの。それに、結婚して、子どもも欲しいしね」
菜摘の強気な瞳が、夕日を受けて輝く。
「だから、お互いに幸せになりましょう? 約束ね?」
「あぁ、約束」
「それと……」
ススッと近付いてきた菜摘が、耳打ちした。
「今度は間違えちゃダメよ?」
「え?」
唇に弧を描いて、いたずらっぽく笑った菜摘が手を振ってから、背中を向ける。
そして、いつものように背筋をまっすぐ伸ばして、搭乗口へと歩き出した。
菜摘を乗せた飛行機は、無事に北へと飛び立っていった。
「あれ? 瑠璃は?」
瑠璃を訪ねてきた森田は、作業場にカナと満花しかいないことを不思議に思った。
仕事が立て込んでいる時以外は、だいたい、三人一緒にいることが多いからだ。
瑠璃や満花にとって良い刺激になるからと、神様も許可している。
「今日は瑠璃さんの命日でしょ? 亡くなってから初めて地上に降りたのよ」
カナが嬉しそうに説明した。
満花も作業の手を止めて、笑顔で振り返る。
「圭祐さんが住んでいる、今の世界を見てみたいそうですよ」
「瑠璃が……?」
森田は、急速な瑠璃の変化に驚きを隠せなかった。
「たまには洋服を着ないの? って尋ねたら、真っ白なワンピースを着て、はにかみながら出かけて行ったわ」
女の子はこうでなくっちゃ! とカナは娘を初デートに送り出す母親のようだった。
「でも、そろそろ帰ってくるんじゃないかしら?」
地上の時間に合わせた時計が、午後五時半を示している。
地上では夕日が綺麗な頃だろう。
「そうか。じゃあ、この仕事はまた明日に頼むとするかな」
森田がそう言って、書類の入ったファイルを抱え直したところで、作業場のドアが静かに開いた。
「あ、瑠璃ちゃん。おか、えり」
瑠璃の泣き腫らした顔を見て、明るく出迎えようとしたカナの言葉が途切れた。
「どうしたんですか?!」
満花が慌てて駆け寄った。
「ううん、何でもないの。ごめん、博士。今日の仕事は明日にするから」
「あ、あぁ。それは全く問題ないが……」
森田も言葉が見つからず、瑠璃の行動をただ見つめることしかできなかった。
そして、机の上をサッと片付けた瑠璃は、ふらふらと扉へ向かって歩き、静かに出て行った。
お読みくださり、ありがとうございました。
圭祐と菜摘の別れ方が、あっさりし過ぎていることが引っかかっています。
こういう別れ方も、実際のカップルではそれなりにあるのですが、物語としてはどうもしっくりいきません……
上手く言葉や表現が見つかれば、加筆修正する予定です。
※2022年 5月6日 8時30分
加筆修正いたしました。
まだ少し文章を整える可能性はありますが、とりあえず、この話の形で定めます。