第三十一話 動き始めた心の回路
「……なつかしい」
「覚えてるの?」
小さくつぶやく圭祐に瑠璃が尋ねた。
「だいたいは。まだ、ぼんやりしてる部分もあるけど。この町の空気は覚えてる」
「そっか。だいぶ変わったのよ? この町も。全体の雰囲気は変わらないけど。亡くなって新しく入ってくる人、生まれ変わるために町を出る人が、次々に入れ替わるから」
そんな説明をしながら歩いていると、以前に慶二郎から隠れてしまった路地にさしかかる。
「ここでね。慶二郎さんとすれ違いそうになったことがあるの」
「え?」
「一言、クロのお礼と、巻き込んでしまったお詫びを伝えたくて……。住所を教えてもらって、おうちを訪ねようと思ったの。でも、いざ慶二郎さんの顔を見たら……合わせる顔がなかった」
歩き続けながら、ゆっくり話す瑠璃の言葉を圭祐が真剣な顔で聞く。
「着いた。ここが慶二郎さんのおうちよ」
「……覚えてる」
そこには小さな日本家屋が朽ちもぜず、たたずんでいた。
「今は、誰か住んでるのか?」
「いえ、空き家よ。神様が言うには、慶二郎さんが『またここに住みたいから、このままにしておいてほしい』と頼んだそうよ」
「そうか。それは覚えてないな」
「記憶がすべて戻ったわけじゃないのね」
「あぁ、でも、瑠璃のことは全部覚えてるよ。綺麗な赤い振袖を着ていたことも。クロと仲良しだったことも――」
圭祐の……、慶二郎の声を聞いていると、当時の記憶が強く蘇る。
それは、瑠璃自身が思っていた以上に深く鋭く、瑠璃の心に突き刺さっていた。
「慶二郎さんっ! ごめんなさい! 私のせい、でっ、あんな、ことにっ」
嗚咽混じりに謝罪した瑠璃は人目も気にせず、声を上げて泣いた。
その姿を人目から庇うように、圭祐は瑠璃の背中をさすりながら、慶二郎の家の中へと入った。
上りかまちに座らせた瑠璃の前に圭祐はしゃがみ、こめかみから裾へと、ゆっくりと瑠璃の髪を梳いた。
「大丈夫。クロを助けようとしたことは後悔してない。むしろ助けられなかったことが心残りだった。生まれ変わると決めた時も、ずっと気になってた」
助けられなくてごめんな、と謝る圭祐に、瑠璃は何度も首を振った。
「ありがとう、慶二郎さん。クロを守ってくれて嬉しかった」
「そう言ってもらえて良かった」
「あのね、クロも今、私と一緒に暮らしてるの。だから……」
「うん、安心した。……時々、瑠璃が幼く見えて、守らないといけない存在に感じたのは、慶二郎の記憶だったんだな。でも、二十六年間『圭祐』として生きてきたから、『慶二郎さん』って瑠璃に呼ばれるのは、まだ少し変な感じだ」
そう言った圭祐は軽く笑うと、スッと姿を消した。
「帰った、のかな……」
瑠璃の独り言が、無人の家の中で空気のように流れた。
「ただいま」
応接間に戻ると森田たちの姿はなく、神様が一人で紅茶を飲んでいた。
秘書も二階に戻ったようだ。
「おかえり。圭祐君は無事に戻ったようだね」
「そうみたいです」
「ちゃんと案内できた?」
「はい、おうちのことも覚えてました。全部の記憶が戻ったわけじゃないみたいですけど」
「圭祐君が幽体離脱して会いに来ること、気まずくなくなった?」
「はい、ちゃんと言えましたから。多少は薄れました……。ただ、今度は圭祐として接したら良いのか、慶二郎さんとして接したら良いのか、分からなくなりました……」
「それは時に任せるしかないね……。告白は?」
「え?」
いくつかの段階を飛び越えたような質問に、瑠璃はソファから落っこちそうになった。
「まだ好きなんでしょ? しかも『慶二郎さん』だけでなく『圭祐君』にも惹かれてきてる。告白しないの?」
「そんな資格……、ありませんから。住む世界がまるで違うもの」
瑠璃はソファの肘掛けに突っ伏して、顔をうずめた。
「おや、資格があれば良いのかな?」
「え?」
思わず顔を上げると、神様がにやにやと、からかうように笑う。
「生まれ変われば、同じ世界の住人だ。多少年齢に差があっても、恋をする資格はあるだろう」
「でも……」
瑠璃はゴブラン織りのクッションを抱きしめながら逡巡した。
「まぁ、さっきも言ったけど、ゆっくり考えてみて。好きなだけ時間をかけて良いから。ただ、圭祐君がおじいさんになる前には決めないとねぇ。圭祐君がこちらに戻るのを待ってから、仕切り直すのも一つの道だけど」
「――いえ。最終試験、受けてみます」
はっきりとした口調で、瑠璃はそう告げた。
圭祐の訪問を待ち望んでいる自分に、今日のことで気付いてしまった。
そして、先ほどの慶二郎との会話が、瑠璃に進む勇気を与えたのだ。
そっと神様の顔を見ると、瑠璃が知っている中で、一番嬉しそうに微笑んでいた。
「でも、今すぐ、というわけじゃなくて……。機会がくれば、そのうち……ということで」
しかし、宣言してから、ほんの数十秒で瑠璃は弱気な発言をし始めた。
そんな瑠璃に対しても、神様はがっかりすることなく、優しく微笑んだ。
お読みくださり、ありがとうございました。
少しずつ、瑠璃が前を向き始めました。